第二話:帰国
エルムがロテュルス王国にある実家に帰り着いたのは、知らせを受け取ってから一週間後のことだった。
「お帰りなさいませ、エルム様」
そう言って彼を出迎えたのは初老の執事――メイガンだった。
「メイガン、今戻ったよ」
「エルム様、長旅お疲れ様でした。まずはどうか少し休まれてください」
メイガンが目で合図を送ると、栗色の髪のメイドの娘がやってきて、玄関先に置いたエルムの旅行鞄を重そうに運んで行こうとする。
「アマラ、ありがとう。だけど、重かったらそこに置いたままにしてくれて構わないよ。そのくらいのことなら、僕、自分でやるし」
エルムがアマラを気遣ってそう声をかけると、彼女は頬を染めて首を横に振ると、
「いえ、滅相もございません。エルム様もお疲れでしょうし、どうかお気遣いなく」
アマラがぱんぱんに膨れ上がったエルムの旅行鞄を引きずるようにしながら、危なっかしい足取りで階段を登っていくのを見送りながら、
「……大丈夫かな。やっぱり僕が自分でやった方がよかったんじゃあ……」
「まあまあ、エルム様。あれもアマラの仕事です。お優しいのは結構ですが、あまり使用人の仕事を奪ってはいけませんぞ」
メイガンに諌められ、エルムはそうだね、と頷いた。
「ところで、随分と大荷物でしたが、あの中には一体何が……?」
「こっちへ戻ってくる途中で泊まった街や馬車の乗り継ぎをした街で、リーリエへのお見舞いというかお土産をいろいろ買ってきてみたんだ。リーリエは可愛い瓶に入った香水とか、綺麗な刺繍の入ったハンカチとか、ああいったものが好きだろう? 僕は何があったか事情を一切知らないけれど、それでも何かリーリエの心を慰めるようなものがあればいいんじゃないかって思ってさ」
「それであの量ですか……。まったく、エルム様はリーリエ様のこととなると途端に節操というものがなくなりますね……。セルマに怒られたでしょう?」
呆れたように肩を竦めるメイガンに、エルムは苦笑しながら頷いた。彼はすっと笑みを消して真顔になると、
「ねえ、メイガン。それで、リーリエはどうしてこんなことに――自殺なんてしようとしたんだ? 一体、リーリエに何があった?」
「それが……」
その話題を切り出した途端、メイガンの顔が曇った。言い淀む彼の眼鏡の奥の黒瞳は躊躇いで揺れていた。
「メイガン?」
「いえ、他でもないリーリエ様のことです。エルム様にはきちんとお話しするべきですな。
エルム様には申し上げにくいのですが、リーリエ様はどうにも婚約者のオーティス様と上手くいっておられないようなのです」
オーティス・レンブラントはリーリエの婚約者だ。レンブラント侯爵家の次男で、リーリエより三歳年上ということくらいしか、社交界に出られる年齢になって早々にブリューテ国へ留学してしまったエルムは彼のことを知らなかった。しかし、格上の家との縁談が決まったことで、リーリエの未来は安泰だと喜ばしく思ったエルムは、留学先から彼女を寿ぐ手紙を送っていた。
貴族社会において、格上の家と縁を結ぶことの意味は大きい。伯爵家とは名ばかりで、さほど裕福なほうでもないオーランド伯爵家にとって、婚姻を介して格上のレンブラント侯爵家と縁付くことができるのは大きかった。家と彼女の双方にとって良い話だと思っていたこの婚約は一体何をもたらしてしまったのだろうか。
「リーリエはオーティス様と不仲なのか? だけど、それだけのことで自殺しようとするのはあまりにも短絡的じゃあ……」
「不仲といえば、不仲なのでしょうな。何と申し上げればよろしいのでしょうか……エルム様はこちらにいらっしゃる間、あまり華やかな場へ顔をお出しになられなかったので、ご存知ないかもしれませんが、オーティス様は少々気の多いお方でして……。エルム様が留学されてからは、リーリエ様は婚約者として、オーティス様に伴われて社交の場へとおいでになることも多かったのですが、そういった場でオーティス様と他の女性が睦まじくされているところを度々見せつけられていたとかで……」
要はオーティス・レンブラントには浮気癖があるということかとエルムは理解した。心の底で怒りの炎が静かに燃え上がり始めるのをエルムは感じた。
「……最低だな。許せない」
「失礼ながら、私も同じ思いです。リーリエ様は、そういったオーティス様の度重なる行ないに、傷つき、だんだんと塞ぎ込まれることが多くなり……そして此度のこの一件が起きてしまったのです」
己の半身がそれほどまでに思い詰めていたにもかかわらず、そんなときに彼女の傍にいてやれなかったことが悔やまれた。彼女が一人で苦しんでいるときにどうして自分は傍にいて支えてあげられなかったのだろう。
「その……リーリエ様はよく眠れない日が続いていたので毎晩就寝前にお薬を飲まれていたのですが、先日ご自分の意志で大量にお薬をお飲みになってしまったようで……。翌朝、あまりにもリーリエ様が起きていらっしゃらないことを案じたメイド――ルゼが様子を見に行ったことで発覚しました。その後、医者を呼び処置をしていただき、リーリエ様は一命を取り留められました」
「そんなことが……。……メイガン、リーリエは今どうしてる?」
「午前中、一度、錯乱状態になられて鎮静薬をお飲みになられましたので、まだお眠りになられているかもしれません。よろしければ、お会いになれる状態かどうか確認して参りましょうか?」
「すまない、お願いできるかな?」
エルムがそう告げると、メイガンは一礼し、リーリエの私室がある二階へと階段を上がっていった。