やはり出て行く女
今年は、先輩が三十歳になる歳だ。そして、春になる。そんな時期に、僕はこんなことを考えていた。
「三十になれば、先輩だって何となく結婚を意識するのではないか。だとしたら、僕はいつでも対応できるように、準備だけでもしておくべきだ」
つまり、このままであれば、僕は何かに勝てる、と思い上がっていたのである。相変わらず、恋人らしい関係を築けていないのに。しかも、五年ほど前に聞いた、物凄く重要なことを、すっかり忘れて。
仕事から帰ると、またも先輩がいなかった。
このタイミングだと、ビールを買いに行ったのかもしれない、と思いながら念のため電話をかけてみたが、いつもの通り応答はない。ここまではいつものこと。
だが、一時間経っても先輩は帰ってこなかった。流石におかしいと思った僕は、もう一度電話をかけてみる。すると、電源が入っていない、というアナウンスが流れ、これは本気の失踪だ、と察した。
部屋を出て、いつだかと同じようにコンビニやスーパーから探し始め、次に知っている限りの公園を回ったが、先輩は見つからない。もしかしたら、あっちにいるかもしれない。もしかしたら、帰っているかもしれない。もしかしたら、電話がつながるかもしれない。いくつかの「もしかしたら」が何度も思い浮かんだが、それらは悉く外れていた。
気付けば、時間は日付が変わる頃だ。そこで、初めて僕が思っている以上に、先輩は遠くへ移動しようとしているのかもしれない、という考えに至る。駅前まで走るが、電車も止まる時間だ。それでも、僕は僅かな可能性にかけて走るしかなかった。
駅前に先輩はいなかった。でも、僕はそこであるものを見た。同時に、ある記憶も蘇った。
僕が見たもの。それは桜だった。無機質な生活を送る僕にとって、桜と言う存在は、特別でも何でもなかった。目にしても、何の感動も覚えない、ただの木だ。それでも、このときは違った。桜を見上げ、先輩だったらこれを見て、どんな風に思うのだろう。そんなことを思ったのだ。そして、その思考が記憶を蘇らせた。
「あの二人は約束があるの。三十歳になっても一緒に同じ桜を見に行こう、って」
三十歳。桜。まさにこの時期ではないか。焦りからか、僕は意味もなく辺りを見回した。先輩は桜を見に行ったはずだ。僕は周辺の桜の名所についてネットで調べたが、美和子さんの言葉を改めて思い出す。
「同じ桜を見に行こう」
つまり、約束の場所がある、ということだ。それが名所としてネットに乗っているとは限らない。むしろ可能性は低い。今から場所を特定して、駆け付けることは、かなり難しいことに思えた。ただ、明日になれば先輩が帰ってくるとは限らない。だとしたら、僕はどうすれば…。
自分が取るべき行動をフル回転で考えていると、僕は美和子さんの言葉を、もう一つ思い出すことになる。
「それは呪いみたいなもので、魔法でもなければ、解けるものじゃないの」
ここで、僕が先輩を見付けることは、彼女がかかっている呪いを解くために、必要なことではないか。絶対的な約束。それを打ち破るほどの、覚悟を見せなければならない。僕は必ず夜が明けるまでに、約束の桜がどこにあるのか付き止め、先輩を迎えに行ってみせる。そう決意した。
ただ、その場所に心当たりなんてない。こんなとき、頼れる人間は一人しかいなかった。数年、更新されていない、僕の携帯端末の中に登録された電話帳。この中に、美和子さんの電話番号も登録されている。もちろん、美和子さんが電話番号を変えてしまったら、つながることはない。さらに言えば、もう夜中と言える時間。どんなに電話したところで、出てもらえないこともあるだろう。
だが、ここで電話がつながらなければ、運命は僕が先輩を迎えに行くことを許してはくれないはずだ。その程度の運命なら、呪いを解くことだって、できない。
だから、僕は半ばつながると確信しながら、美和子さんの番号に電話をかけた。この運命をたぐり寄せてみせる、と。呼び出し音が聞こえた…が、何度もコール音が続く。駄目かもしれない、という気持ちはあったが、絶対に出るはずだ、と確信というよりも、祈りに近い気持ちでコール音を聞き続けた。
コール音が途切れる。誰かが電話に出たのだ。でも、それは全く知らない人かもしれない。僕は恐る恐る問いかけた。
「美和子さん、ですか?」
暫くの沈黙。全く別の人に繋がってしまったのでは、と諦めかけたとき、電話の向こうから声が聞こえてきた。
「広瀬くん…なの?」
美和子さんだった。僕は挨拶と謝罪の後、事情を話した。美和子さんは深夜にも関わらず、辛抱強く話を聞いてくれた。
「そう、沙耶は広瀬くんのところにいるんだね」
「ちょうど出て行ってしまったところですが…」
「そっか…」
美和子さんは、僕と先輩の関係について、何か思うことがあるのか、少しだけ黙ってしまった。
「桜の場所、教えても良いけれど」
美和子さんは言う。
「呪いの解き方、分かったの? それが分かったら、ヒントを教えるって約束だったよね」
そうだった。すっかり忘れていたが、そんな話だった。しかし、僕は何も考えず、ただ助けて欲しくて電話したのだ。何て図々しいやつなんだ。
無言の時間が続くと、美和子さんの溜め息が聞こえた。
「何もないなら、切るよ。私だって、思い出したくないこと、色々あるんだから」
勘違いかもしれないが、美和子さんが電話から耳を話したような気配があった。
「待ってください。あります。呪いを解く方法!」
「……なに?」
「それは……」
僕は考える。先輩のために、僕ができること。
「全部、洗い流せるくらい、たっぷりの愛情を注ぎます。どこまでも優しく、何があっても裏切らない。そんな愛情を、尽きることなく」
結局、それしかない。僕はたくさんのお金を持っているわけでもないし、魅力的な才能があるわけでもない。愛情を注ぐだけ。それを聞いて、どう思ったのか、暫くの沈黙の後、美和子さんの笑い声が聞こえてきた。
「そんなの、昔と変わらないじゃん」
確かにそうかもしれない。ぐうの音も出ない、というやつだ。それで解決できるのなら、とっくの昔に何とかなっていたはずだ。だけど、僕は先輩を助けたい。
助けたい? 何から?
このとき、僕はちょっとしたパニック状態だった。このままでは、美和子さんは先輩の居場所を教えてくれない。そして、先輩のことも助けられないではないか。
そんな想いで頭の中が溢れ、ショート寸前になったとき、僕は何かを口走った。すると、電話の向こうで、美和子さんが黙り込んだ。何かが届いたのかもしれない。
「それが…できると良いね」
何が彼女を動かしたのか、自分でも分からない。それだけ、僕の頭は混乱していたからだ。でも、美和子さんの感情が、確かに揺れている。それは、寂しさでもあるような、懐かしさでもあるような、もしくは光を見い出しているようでもあった。
「分かった、教えてあげる」
そんな複雑な心境を振り払うように、美和子さんは納得してくれた。そして、先輩が待っているだろう、約束の場所を教えてくれた。