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出て行く女

先輩は思っていたよりも、全然近くにいた。部屋を出て五分もしないところにある公園のベンチに座っていた。コンビニやスーパーがある方向とは全くの逆で、そもそもの予想が間違っていたのである。たぶん先輩は僕がどういう行動をするか推測し、それを逆手に取ったのだろう。


「先輩、風邪引いちゃいますよ」


彼女は今にも凍えてしまうのではないか、というほど縮まり込んでいた。先輩が羽織っている薄い上着では、深夜の寒さを凌ぐことは難しいだろう。僕は即座に上着を脱いで、彼女の肩にかけた。だが、彼女は拒絶するように体を揺すって、僕がかけた上着を振り落とした。僕はそんな上着をキャッチし、彼女の肩にかけ直すが、同じような動作によって拒絶されてしまった。


「何か…あったんですか?」


僕は彼女の断固とした態度に、この言葉が適切かどうか不安を覚えつつも、聞くしかなかった。だが、先輩は僕の目を見ることすらなく、僅かに唇を動かした。


「別に…」


そう言われてしまったら、どうすれば良いのかわからない。数分沈黙が続く。その間、僕は先輩との同棲生活が始まってからのことを思い返していた。先輩は何もすることなく、ただ家にいて、僕は彼女にできる限りのことをしてきたつもりだった。

それにも関わらず、彼女のこの態度は、僕には理解できないものだ。急激に苛立ちが募って行く。それは、全身から脳に向かってエネルギーが集中し、今にも爆発してしまいそうだった。


ここで怒ったら、僕は何かに負ける。ここで怒ったら、先輩を悲しませた人間と同類だ。ここで怒ったら、先輩は僕を認めてくれはしない。


頭の中で何度も唱え、頭から空気が抜けるようなイメージで、怒りを放出した。


「とにかく、風邪引いちゃうことは良くないので、これは羽織ってください」


拒絶された上着を今度こそ肩にかける。先輩は、どんなモチベーションで拒否を続けていたのかは分からないけれど、ついに寒さには勝てなかったのか、大人しく僕の上着を羽織ると、肩を震わせた。僕は改めて彼女の中で何があったのか考え直してみた。変化と言えば、やはり一つだ。


「今日、出掛けなかったことが関係しているんですか?」


先輩は答えない。これは、出掛けなかったことが関係している、と捉えて良いのだろうか。僕はその線で質問を重ねることにした。


「すみません、僕はてっきり…先輩は今日、そういう気分じゃないんだって思っていました。本当は出掛けたかったんですか?」

「違う」


感情的な響き。強い否定だ。この件が関係していることは間違いないけれど、僕が的外れなことを言っているのかもしれない。しかし、出掛けたいわけではないのなら…。


「今日、出掛けなかったことは、何か理由があるんでしょうか?」


慎重に聞いてみる。先輩はまた黙り込むと、今度は目付きが鋭くなった。怒りなのか、嫌悪なのか、とにかく激しい感情がそこにあった。それはこちらに向けられているわけではないが、明らかに僕に対する感情だ。そうやって黙ったまま、僕の心を痛め付けることが目的なのだろうか。だとしたら、それは大いに成功している。僕は焦りや怒り、悲しみが入り交じって、混乱していた。ここまで感情がぐちゃくちゃになることは、人生で初めての経験だった。


そんな時間が続き、いよいよ僕の頭はどうにかなってしまうのではないか、と思ったとき、ついに先輩が口を開いた。


「出掛けたくなかったから」

「え?」


あまりにシンプルな回答に、僕は自分の耳を疑った。しかし、先輩は同じ言葉を、少し語気を強めて繰り返すのだった。


「出掛けたくなかったから、出掛けなかったの!」

「そう…だったんですか」


だとしたら、何が不満だったのだろう。僕が呆然としていると、先輩は言った。


「出て行こうと思った」

「僕のこと、嫌になったんですか?」


先輩は首を横に振る。


「不便なことがあるなら、言ってください。何とかします」

これにも、先輩は首を横に振った。

「じゃあ、どうして…?」


先輩は少しの間、黙ってしまったが、それは決して対話から逃げようとしているわけではなかった。彼女は確かに何かを伝えようとしている。だが、自分の中にある感情と向き合っているのか、もしくは正確な言葉を選んでいるのか、なかなか口にはできないようだ。しかし、どうにか整理できたのか、彼女は俯いたまま、呟くのだった。


「迷惑ばかりかけて嫌になった。私は広瀬くんに頼り切りで、週末は遊びにも行く。それなのに、私は何も返してあげられない。返すつもりもない。そんな自分にうんざりしたの!」


彼女の感情が、一瞬ではあったが、激しく外側へ発せられていた。でも、それは僕にとって、少しだけ安心できるものだった。だって、先輩は僕に対して怒りや嫌悪を抱いていると思っていたから、そういう罪悪感を抱いていたというのなら、話は別だ。僕が彼女を安心させてあげればいい。


「大丈夫ですよ。そんなこと、気にしないでください。僕は、先輩が一緒にいてくれるだけでも嬉しいし、役に立てるのだとしたら幸せです」


僕は自分と言う存在、すべてを使って、この世界から彼女を守りたかった。こんな気持ちになったのは、初めてのことだった。


「僕は先輩を幸せにしたい。昔はそう思っていても、どうすれば良いのか、まったくわかりませんでした。でも、今ならたぶん、それを実現できると思うんです。だから、そのチャンスを僕に与えると思って、そんな風に考えることはやめてください」


そして、この感情は僕の心に爽やかな風を呼び込むような、未だかつてない快感があった。それは、今まで大した充実を感じたことのない僕にとって、あまりに新鮮なものだった。先程、僕は先輩を助けると偉そうなことを言っていたが、本当に助けられているのは自分なのかもしれない。


「帰りましょう。僕は何があっても先輩を守りますから」

「……うん」


先輩はやっとのことでベンチから腰を上げ、一緒に家へ向かった。その日、先輩は夕方までゆっくり眠ったらしい。僕はもちろん仕事だったので、二時間後には起きて会社へ行った。それでも僕は確かな幸せを感じられたのだ。


ただそれは、春がやってくるまでの話だった。

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