別れたいと言って別れない女
「別れたい。別れる。もう我慢できない」
先輩が大学を卒業してから、少し経ってからのこと。彼女は毎日のように、電話をかけてきた。先輩が「別れる」と言葉にする度、今こそ僕が動くときなのではないか、という謎の暗示を自分にかけてしまった。
「別れてください。僕だったら…先輩のこと、もっと大事にできます」
そして、積み重なった暗示により、僕は電話越しにそんなことを口走ったのだ。
「それって…?」と困惑する先輩に、僕ははっきりと言った。
「僕は先輩が好きです。誰かにみたいに、絶対に裏切りません。だから、別れて僕と付き合ってください」
僕が先輩のことを好きだということは、周知の事実で、彼女自身もそれを耳にしていたはずだ。ただ、僕は自分の気持ちを一度も口にしたことはなかった。もしかしたら、先輩も「この男は告白する度胸なんてないだろう」と思っていたのかもしれない。そんなまさかの告白に、先輩は口を閉ざしてしまった。
「……何か言ってください」
沈黙に耐えられなかった僕が急かすと、先輩は沈黙と言う膜をゆっくり破るように、重い口を開いた。
「……ありがとう。でも、今は何を言って良いのか、分からない」
その後、まともな会話が続くことはなく、電話は切れてしまった。すると、僕の周りは酷い静かな空間となった。まるで、この部屋が宇宙に寂しく浮かぶ宇宙船になってしまったみたいに。
もしかしたら、もう二度と先輩から連絡はこないかもしれない。彼女にとって、都合の良い距離感を、僕が壊してしまったのだから。
だが、一週間もしないうちに、先輩から電話があった。
「別れたい。別れる。もう我慢できない」
同じ内容だった。まるで、僕の人生初の告白はなかったかのように。先輩は奏人と別れていなかった。
だからと言って、僕との関係を断ち切るつもりもないらしい。僕は自分がどういう立場なのか、理解できないまま、先輩の不満を聞き続けるのだった。
それを続けることは、なかなか苦痛だった。自分の好きな相手が、こちらの好意を知っていながら、他の男のことしか考えていない。つまり、相手にするつもりはない、と何度も宣言されていることと、変わらないのだ。
そこで僕はある人に相談することにした。その相手とは、先輩の親友である美和子さんだった。美和子さんに電話をかけて、先輩が何を考えているのか分からない、と伝えると、彼女は小さく笑った。
「私は沙耶の気持ち、分かるよ」
「どういう気持ちなんでしょうか…?」
恐る恐る聞いてみるが、美和子さんは「言葉にしにくい」と言うだけで、答えてくれなかった。だが、最後にはっきりと言ってくれた。
「沙耶は奏人くんから離れられないんだよ。それは呪いみたいなもので、魔法でもなければ、解けるものじゃないの。魔法みたいな奇跡は、誰でも起こせるものではないよね。私が言いたいこと、分かる?」
「……僕には、できないことなんですね」
「時間がかかることなんだよ」
美和子さんはやんわりと現実を教えてくれた。
「あの二人は約束があるの。三十歳になっても一緒に同じ桜を見に行こう、って。沙耶は頑固だから、約束って言われたら、それを守らないと気が済まない。そういう呪いが何個もかかっているから、余計に離れようと思えないんだ」
三十歳。このときは、それが遠い未来のように感じていた。それだけ長い時間、一人の人間を想い続けられると確信できるほど、あの男を魅力的に感じているのだろうか。そんな疑問を遠回しに美和子さんに聞いてみると、彼女は低く唸りながら、答えを探すようだったが、最終的には短い言葉に行きついた。
「だから、頑固なんだよ」
僕は納得できなかったが、質問を変えた。
「ちなみに、そういう呪いを解くには、どんな魔法が必要なんですか?」
少しでも希望があるなら、ヒントだけでも教えて欲しかったのだ。だが、美和子さんは暫く考えた後、どこか自虐的な笑いを含めて言う。
「それは、私だって知りたいよ」
そして、さらに一言付け加えるのだった。
「分かったら教えて。もし、そんな日がきたとしたら、私も何かヒントをあげられるかもしれないから」
あれから五年という歳月が流れた。先輩は今、僕の恋人、ということになっている。
僕は何かしらの魔法を使って、先輩を救えたのだろうか。奇跡を起こせたのだろうか。そんな手応えは、全くと言って良いほどなかった。転がってきたものを、ただ受け止めただけ。しかも、それを支え切ることすらできていない。
学生時代はいつも明るく、常に周りを笑顔にしていた先輩が、口数は少なく、どこか遠くばかり見ている。さらに、同じベッドで寝ていても、僕たちの関係性を表しているような、目に見えない絶対的な境界線が存在していた。僕はこの距離感を縮められまいか、と日々そればかり考えるが、妙案が浮かぶことなかった。僕には魔法が…奇跡が起こせないのだ。
仕事から帰ってきて、先輩が部屋にいないことがあった。僕はついにこの日が来てしまったのだ、と焦りながら電話を何度もかけたが、いつになっても応答はなく、絶望した頃にビールの入ったコンビニの袋を片手に彼女は帰ってきた。泣きそうな僕がどんな気持ちだったのか伝えると、彼女は僅かに微笑んで言った。
「大丈夫、いなくなったりしないから。私に行き場所なんてないんだからさ」
その言葉は、どれだけ信じられるものだろうか。行き場所を見失っただけで、再びそれを目にすることができたら、先輩はどうするのだろう。そんな不安はいつまでも消えない。
お互いがお互いを想って結婚する。そんなことは、本当にあり得るだろうか。仕事の帰り、電車から見える風景には、多くの住宅が並んでいて、窓から明かりが漏れている。少なくとも、あの明かりの数だけ、お互いの愛情を同意した男女がいる、ということになる。でも、それは本当に積極的な同意だったのだろうか。殆どが、一方に強い気持ちを押し付けられ、もう一方が不承不承に受け入れただけなのではないか。
ある日の週末。今日こそ、恋人同士らしく過ごせないか、という野心を太らせた僕は、先輩がいつものようにどこどこに行きたい、と言い出すのを待った。もし、良い雰囲気になったら、先輩の気持ちを何とか確認したい。そして、先輩が少しでも僕と一緒にいることを楽しんでもらえるようにしたい、と気負った。
しかし、先輩はいつになっても希望を口にすることなく、いつの間にか日曜日も終わろうとしていた。僕から誘うべきだったのだろうか、と後悔しながら、シャワーを浴びる。後は眠るだけだと、バスルームから出ると…。
いつもだったら先にベッドで横になっている先輩がいなかった。彼女は、ふらっとコンビニへ行くこともあるが、こんな時間に出て行くことはない。だが、玄関の靴を確認すると、先輩のものはなかった。
僕は部屋を出て近所を走り回った。
まずは近くのコンビニ、スーパーへ向かう。もしかしたら、寝る前にビールが恋しくなっただけかもしれない。だが、何件か回っても、先輩はいなかった。他にこの時間でも開いていて、寒さを凌げる場所はどこだろう。先輩の所持金はほとんどないので、ファミレスに入っていることはないはず。
明日も仕事なのに、何をやっているんだろう。走りながら、肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労も感じ始めていた。そうすると、少しずつ先輩に身勝手ぶりに苛立ちを覚え始める。ただ、五分もすると苛立ちよりも、結局は他の男の所へ行ったのではないか、という不安が勝り、半泣きで暗闇の中を走るしかなかった。
今までは、街で歩く男女を見る度に、幸福を掴んだ勝者が世には溢れている、と思っていたが、そういうわけではないのだ、と最近になって思い知った。彼らも、夜中に感情がぐちゃぐちゃになったり、何が何だか分からないまま走り回ったりしているのだろう。それとも、僕だけがまともに幸福を維持できない、男の不良品みたいな存在なのか。
そんな考えを巡らせながら、泣きそうになったり、苛立ったり、滅茶苦茶な思いを繰り返して、三時間も走り回った。




