当時の彼氏
少しだけ学生時代の話を。
僕と先輩は、大学の図書館で出会った。僕が入学した頃、大学の図書館は建て替えられ、新しくなったばかりで、新しいもの好きな人で賑わっていた。僕はそれが嫌でなかなか近寄らなかったが、夏になると賑わいも落ち着きを見せ、やっと僕のような人間でも近付くことができた。
図書館の一階は、書架はなく、机と椅子がたくさん置かれたフリースペースのようになっていた。飲食は禁止だが、落ち着いたスペースなので、お喋りをしたい人や空いた時間に読書したい人で、常に人で埋まってる、そんな場所だった。
そんなスペースの壁に、巨大な絵がある。それが何を現した絵なのか、未だに理解できていないが、初めて見たときは衝撃を受けた。横に長い絵で、十名前後の老若男女が描かれている。そこには、赤ん坊もいれば、若々しい女性、老人、動物も描かれていた。誰もが決して明るいとは言えない表情で、それらの奥には神を思わせる青い像が。誰がどういう経緯で描いて、何を表しているのか、という解説はなく、調べたこともなかったが、僕はそれに釘付けになった。若さを持て余らせる学生たちの中、喧騒を忘れ、孤独を忘れ、不安を忘れ、ただその絵に吸い込まれそうだった。
「凄い絵だよね」
暫く衝撃から抜け出せず、やっと現実に戻ったとき、隣で同じように絵を見上げている人に気付いた。それが先輩だった。
「そうですね。絵を見て、凄いと思えたのは初めてです」
「うん。引き込まれる」
「暗い雰囲気に見えますが、何だか落ち着くような、そんな気もします」
先輩は僕の顔を改めて見た。どんな人物なのか、確認するように。
「この絵を見て、同じ気持ちになった人、初めて。私がこの絵を好きだって言うと、みんな顔をしかめて、取り繕うように苦笑いを浮かべるんだから」
「確かに、見る人によっては、気持ち悪いと思うかもしれないですね」
「そんなやつとは、絶対に分かり合えないな」
そう言って先輩は笑い、二人でまた絵を見上げた。数秒の後、先輩は何かひらめいたのか、明るい表情を見せた。
「ねぇ、一年生?」
「そうです」
「よかったら、うちのサークル入らない?」
先輩が所属するサークルは、アート関係のイベントを企画するものだった。高校生のとき、実は美術部に所属していた僕だったが、ちょっと絵は描けるが、高が知れているので恐らくは役に立てない。そんなことを先輩に伝えたが、とにかく人手が足りないから手伝ってくれると嬉しい、ということで、僕はそのサークルに所属することになった。
女性に話しかけられる、という稀な経験は、僕にとってあの絵よりも衝撃的なことだったので、運命を感じてしまったのだ。笑い話のようだが。
さらにその後も、人見知りでなかなか他人と馴染まない僕のことを、先輩は何かと面倒を見てくれた。そんな先輩のことを好きになってしまったのは、殆ど一瞬だった気がする。そして、それが周囲に気付かれて、噂になってしまったことも。
先輩は間違いなく、そのサークルの中心人物の一人だった。いつも彼女が中心にいたし、彼女が発言すれば誰もが耳を傾けた。そして、容姿や服のセンスも一つ抜けている先輩に、男女関係なく、誰もが憧れている空気があった。
つまりは高嶺の花というやつで、僕の人生の中で関わるタイプの人間ではない。そんな彼女がなぜ僕を拾ったのか、人生最大の謎だ。それでも、僕は先輩の手伝いを何でもこなしたので、割りと重宝されていた。最初はサークルのイベントに関することばかりだったが、プライベートのことまで相談されることすらあった。
だから、早い段階で先輩に恋人がいることは知っていたし、それについて相談されることもあった。先輩にとって、僕は弟みたいな存在だったのだろう。先輩は僕の想いを知っていながら、それに気付かないふりをしてくれた。それは、関係を壊してしまうことなく、お互いの距離を保つための先輩の気遣いだったのだと思う。それで良かった。僕にとって、彼女という存在に関われるだけ、奇跡とも言えるような状況だったのだから。そんな関係は、彼女が大学を卒業するまで続いた。
当時の先輩の恋人について。
僕はその人物の名前を、先輩から聞かされていた。忘れもしない。その名は奏人と言う。柊木奏人。先輩は「奏人は」「奏人が」「奏人も」と僕の前で何度もそれを口にした。さらに言えば、一度だけ奏人に会ったことがあった。
それは先輩の卒業も間近になった冬の日だ。僕はいつものように図書館の、あの絵の下で一人読書に耽っていた。夕方六時を過ぎると、人気も少なく、落ち着いて本を読んでいられるのだ。
「良かった、帰ってなかった」
そんな静かな図書館へ駆け込むようにして先輩が現れた。
「どうしたんですか?」
何か話があるはずなのに、それをなかなか打ち明けようとしない先輩は、敵意がこもった鋭い目をさ迷わせると、最終的にあの絵に辿り着いた。あの絵を見て、何を思ったのかは分からないが、冷静を取り戻したらしく、その身に何があったのか話してくれた。
「奏人が浮気しているみたい」
「……え、本当ですか?」
実際のところ、僕は何も驚いていなかった。きっと、いつかはそう言う日がくるだろう、と何となく思っていたからだ。
「しかも、その相手…新条さんかもしれないの」
「新条さんって、うちのサークルのですか?」
先輩は神妙な面持ちで頷く。僕は心の中で、なるほど、と思った。先輩とその親友の美和子さん、それから新条さんは、全員がうちのサークルのメンバーで、それなりに注目を集める人たちだった。だから、彼女らが一緒に行動することは少なくない。あらかた、奏人というやつは、先輩と一緒にいる新条さんを見かけたのだろう。そこから、何かしらの方法で関係を深めていったのだ。
「どうすれば良いんだろう。私、今度は奏人のこと、許せないかもしれない」
先輩はそれまで、新条さんについて言及したことはなかったが、僕からしてみると、明らかに彼女に対し苦手意識を抱いていた。たぶん、先輩にとって新条さんは、人間性の根の部分を嫌悪してしまうような、そういうタイプなのだろう。だから、自らのパートナーとも言える恋人が、そんな人間に奪われたと言うことは、強い嫌悪感と怒りを抱いて当然のことだ。実際、この出来事の後から多くの人が先輩と新条さんの関係を察することになったのだが。
「落ち着いてください。まずあれでも見て」
先輩の動悸が再び激しくなっているように見えたので、僕は頭上にある絵を指差した。先輩は素直にそちらへ目を向け、呼吸を整えていた。どうやら効果があったらしいので、僕は話の続きを聞くことにした。
「それで、新条さんだと言う確証はあるんですか?」
「それは、ないけれど…。でも、新条さんだったら、どうしよう。私、今までずっと奏人と一緒だったのに。奏人がいなくなるなんて。奏人が他の女と幸せになるなんて、考えられない」
先輩の手は震え出した。落ち着いたと思ったが、感情が乱れることなく、話すことは難しいらしい。それでも、じっくり一時間かけて話を聞いて、先輩の落ち着きを少しずつ引き寄せることに成功した。
「広瀬くんには、いつかちゃんと恩を返さないとね」
先輩が笑顔を見せて、そんなことを言ったときは、報われたような気がした。でも、僕は先輩と関わることで、他人と関係を持つことの楽しさを知ったのだ。恩を返すとしたら、僕の方なのだけれど…。ただ、もし先輩が僕に何かを返してくれると言うのなら、少しでも愛情らしいものを傾けてはくれないだろうか、と卑しくも思ってしまうのだった
そんなことを考えながら、どんな言葉を返すべきなのか悩んでいると、図書館の自動ドアが開く音があった。反射的にその方向を見ると、先輩も同じように視線を向けていた。
「奏人」と先輩が言った。
僕は思わず、その人物を二度見した。背が高く、スタイルも良ければ、服装もテレビで見るタレントのようだった。
「沙耶、帰ろう」
奏人は命令口調ではなかったものの、絶対的に自分の意志を貫こうとする姿勢が見えた。僕が先輩に好意を抱いている、ということも要因かもしれないけれど、第一印象としては最悪でしかない。
奏人はゆっくりだが確実といえるような足取りで、先輩の方へ距離を詰めた。先輩はやっと冷静さを取り戻したのに、浮気をしたのかもしれない恋人を前にしてしまい、目が泳ぎ始めていた。助けを求めるように動き回る視線だったが、最後は頭上にある絵に向けられ、停止する。冷静になろうと努めているらしかった。
それを見た奏人は、先輩の視線の先に何があるのか、確認しようと顎を上げた。その目は、確かにあの絵を捉えている。数秒の間があり、奏人は言う。
「なんだあれ、気持ち悪いな」
その一言に、僕は思わず先輩の顔を見てしまう。彼女の気持ちが塞ぎ込んで、萎んでいく様を、僕は感じ取った。このままでは、先輩の何かが否定されてしまう。裏切られてしまう。何としてでも、手を伸ばさなければならなかった。
「でも、良い絵ですよ」
僕は初対面の人間の前で、そんなことを言う度胸なんてない。それでも、精一杯の愛想を振り撒いて、抵抗してみせた。
奏人の視線が頭上の絵から、僕の方へ降りてきた。彼は確かに僕を見た。認識した。しかし、何も言うことはなく、先輩の方を見た。
「広瀬くん。サークルの後輩なの」と先輩が僕を紹介する。
僕は軽く会釈してみせたが、奏人は僅かに顎を引いたような、そんな仕草を見せるだけで、特に何も言わなかった。
「もう七時だ」
奏人はただ時間を伝えた。先輩は「うん」と言って、荷物を手に取ると、僕に微笑みかけた。
「広瀬くん、ありがとう。また今度ね」
僕は先輩と奏人が一緒に図書館を出て行く姿を見送りながら、彼女にあんな寂しそうな顔をさせるなんて、許されるべきではない、と思った。
彼女をどうにか救えないか。彼女は救われたいと願っているはずだ。しかし、救ってくれる人間が誰でも良い、というわけではない。それは、この出来事から数カ月経った後に、僕は理解するのだった。




