料理とデートと確認
新条さんとあったあれこれを既に過去のものとして、僕は沙耶先輩との同棲生活を楽しんでいた。とは言っても、楽しんでいるのは明らかに僕だけだった。なぜなら、沙耶先輩は一日中、部屋の中に篭って何をするわけではもなく、朝は夜を待ち、夜は朝を待つような生活を繰り返しているだけだったからだ。
先輩が生活する上で困ることがないよう、僕はちょこちょこと生活に必要なものを買い足して行った。箸だったりマグカップだったり、先輩が喜ぶ顔を想像して、買って帰るのだが、彼女はあまり興味を示してはくれなかった。
正直言って、僕は先輩のお世話係だった。彼女が雨風を防ぐ場所を提供し、空腹にならないよう食料を与える。これだけのことをしているのだから、そろそろ事情を話してくれてもいいのではないか、と考えてしまうが、深く傷付いているのであろう彼女に、そんなことは言えなかった。きっと、先輩は僕に頼りたくて頼っているわけではないのだろう。一番利用しやすかった、というだけではないか。先輩の鬱々とした表情を見る度に、そんなネガティブな考えが頭の中に漂い、一人肩を落としていた。
「何か食べたいもの、ある?」
そんなことを先輩が言ったのは、同棲生活も一ヵ月経過しようというタイミングだった。
「料理くらいなら、やるよ」
「あ、あの…カレーライスを食べたいです!」
僕は別にカレーが好き、というわけではない。こういうとき「何でも良い」と言ってしまうのは、相手を不機嫌にする、と風の噂で聞いていたので、とにかく具体的な何かを言わなくては、という気持ちになったのだ。
「分かった」と先輩は少し微笑んだ気がした。
初恋の相手が手料理を振る舞ってくれる。これを、どれだけの男が体験できるだろうか。
「ちょっと作り過ぎちゃったけど」
そう言って先輩が作ってくれたカレーを、僕は延々と食べ続けた。
「そんなにカレー好きなの?」
先輩は驚いたようだったが、僕自身もこれだけの量を食べられるとは思っていなかったので驚いていた。
「お腹、空いてたんだね」
先輩はどこか自分を納得させるように言うが、僕はただお腹が空いていたわけではない。ただカレーが好きだったわけでもない。幸福に対して凄まじく飢えていたのだ。そして、今僕が口にしているのは、ただのカレーではなく、幸せなのだ。そう思うと、胃袋は無限に広がって行った。
「相談があるんだけど」
食事が終わると、どこか言いずらそうに先輩が言った。
「なんですか?」
あれだけ美味しいものを食べさせてもらったのだ。何であろうと、先輩の期待に応えなければならないだろう。洋服やアクセサリだろうか。いや、日中に時間を潰すためのパソコンとか。現金かもしれない。しかし、先輩は僕の想像とはかけ離れたことを言うのだった。
「動物園に行きたい」
「動物園、ですか?」
どうして動物園なのだろうか。先輩が動物好きなんて聞いたこともなかった。理由は分からないが、先輩が僕と一緒に出掛けたいと言い出したのは、初めてのことだったので、そんなことを確認してはいられなかった。
「行きましょう! 明日にでも!」
次の日、僕たちは電車で一時間かけて、動物園へ行った。そう言えば、動物園は初めてだった。動物と縁のない人生を送ってきたのだ。キリンやゾウ、ゴリラといったメジャーな動物も、いざ目の前にするとなかなか迫力があったし、ハシビロコウ、オカピなど名前すら聞いたこともない動物たちも新鮮で、僕は興奮気味だった。明らかに、僕は先輩よりも動物園を満喫していた。そんな僕を見た先輩が、少しだけ微笑みを見せる。何よりもそれが嬉しかった。
動物園を隅から隅まで回るということは、それなりに体力がいることなのだ、と思い知らされた。二人でくたくたになって電車に乗り、コンビニで弁当を買って帰る。どんな動物が凄かった、なんて感想を一方的に僕が語り、その日は眠ることになったが…普通の恋人同士みたいな一日だったろうか、と振り返る。
先輩は、僕たちの関係をどう思っているのだろう。ちゃんとそれを確認すべきだったのかもしれないが、僕は疲れ果ててしまって眠ってしまうのだった。
ただ、それからは週末になる度、先輩はどこかへ行きたいと言い出した。少し離れたところにある大きな公園や美術館、水族館、ショッピングモールなど。デートスポットと言えるような場所は、一通り回った。先輩は、いつも空虚な暮らしをしているが、週末には精力的に出掛ける。けれど、純粋に楽しんでいるようには見えなかった。
先輩は何を考えているのだろう。一緒に出掛ける度に考えた。彼女はいつも出掛け先で、何かを確認しているみたいだった。まるで、自分が何を考えているのか、確かめるみたいに、よく見てよく聞いて、それでいて黙っていた。
だから、僕はそんな週末を楽しみにしつつも、どこか暗い影に追われているような感覚があり、不安だった。そんな週末を積み重ねる度、僕は少しずつ焦りを蓄積させた。このままでは、いつの日か先輩が去ってしまう。彼女を満足させる何かが必用だ、と。
プレゼントやサプライズを用意して、何とか先輩を喜ばせようとしたが、どれでも空回りだった。アクセサリだったり、洋服だったり、雰囲気のあるレストランを予約しても、手応えらしいものはなかったのだ。
「無理しなくて良いよ」
必死に先輩の気を引こうとする僕に、彼女は静かに言った。
「そんなに頑張られると、一緒にいるのつらくなるから」
僕はその言葉は撃沈した。だとしたら、僕は何のため彼女の傍にいるのか。ますます存在意義を失ってしまったような気になってしまった。
「僕は…先輩の期待に応えられているのか、不安なんです。どうすれば、先輩がこの生活を続けようと考えてくれるのか、分かりません」
「そんなこと、考えなくて良いって」と彼女は温度のない声色で答えた。
僕は先輩と一緒に暮らす、この生活を必死に維持しようとしていた。しかし、先輩にとってそれは無関心なことでしかないらしい。
「でも、僕は…」
だとしたら、僕はどこに向かって進めばいいのだろうか。でも、そんなことを先輩に言ったところで、彼女の負担になるだけだ。僕は口を閉ざし、自らの暗い気持ちを押し込む他なかった。
「安心してよ」
そんな僕に先輩は消え入りそうな声で言った。
「私、広瀬くんのこと、好きだよ」
思いもしなかった言葉に、僕は顔を上げた。
「本当…ですか?」
「うん」
「それは、どういう意味で?」
しつこいかもしれない、と思ったが、確認せずにはいられなかった。先輩は少しの間、黙り込んでしまったので、何も答えてくれないと思われたが…。
「好きなように受け取ってよ」
曖昧な言い方だった。
「じゃあ、僕たちは…その、交際している、という風に受け取っても、良いってこと、ですよね?」
慎重に言葉を選びつつ、怯えながら聞いてみる。すると、先輩は本当に微かに、顎を引いた。それを頷いた、と解釈していいのか自信はなかったが、僕はそう受け取ることにした。
「あの、よろしくお願いします」
「……うん」
僕の初恋が実った瞬間だった。