偽彼氏
新条さんの偽彼氏としての役目は、仕事終わりの彼女を迎えに行くことだった。新条さんにしつこく付き纏う男とは、どうやら同じ職場の人間らしい。
僕は仕事が終わると、新条さんの職場へ向かった。どうやら、僕の職場と新藤さんの職場は割りと近く、そのため先日の再会があったのだった。
人々が行き交う中、僕はビルから新条さんが出てくるのを待った。数十分の後、彼女が現れたが、見知らぬ男性が一緒だったので、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
新条さんは男性に手を振って別れを告げると、笑顔で僕の方へ向かってくる。僕が笑顔で右手を挙げると、彼女も手を振り返してきた。
「いやー、助かるよ。ありがとね」
「今の男性が、例の男ですか?」
僕は新条さんの彼氏に見えるよう、できるだけ胸を張って、堂々とした姿を見せていたが、彼女が「違う違う」と否定したので、一瞬にして背中が丸まってしまった。
「今の人は、私の上司だから関係ない。でも、割りと噂話が好きな人だから、彼氏が迎えに来ていた、とかそんな話を広めてくれると良いなー、って」
「なるほど」
それから僕は毎日のように新条さんを迎えに行った。そして、五回か六回目のとき、目的の男が現れたのだった。
その日、ビルの前で待っている僕に、新条さんが駆け寄ると、いつも以上に明るい笑顔を浮かべていた。
「お願い、ちょっとだけ腕を組ませて」
「え? あ、はい」
僕の腕に新条さんの腕が絡み、体が密着する。激しい心臓の音。それが彼女に伝わってしまったら、信用を失ってしまうのではないか、と不安を覚えたが、拒絶するわけにはいかなかった。
「ほら、見える? あそこから見ている人。あれが例の彼。増田くん」
できるだけ首は動かさないようにして、新条さんが目線だけで示した方向を確認してみた。そこには、一人の男が立っていて、こちらをじっと見つめている。年齢は僕と同じくらいだし、背丈も僕と同じくらい。見た目も派手というわけではないし、地味過ぎるというわけでもなく、清潔感のある落ち着いた人間に見えた。
「なんだか、悪そうな人には見えませんけど」
「悪い人ではないよ」
「そう、なんですか」
確かに、新条さんは悪い人だとは、一度も言っていなかったかもしれない。僕と新条さんは腕を組んだまま、駅前まで歩いた。すると、彼女は大きく息を吐き、僕を解放する。少しだけ名残惜しく感じたのは秘密だ。
「ここまで来れば大丈夫でしょう。これで私には真面目で優しい彼氏がいる、って分かってもらえたと思う」
「そうですかね。お役に立てたのなら、よかったです」
「うん、助かったよ。じゃあ、お礼に夕食でも奢ってあげようかな」
僕は遠慮したが、新条さんがどうしてもと言うので、一緒に食事することになった。緊張してまともに食べられないのでは、と思ったが、これもちょっとした記念だと考えることにした。
「さっきの増田くん、僕の想像とは違いました」と感想を述べた。
「どんなの想像してたの?」
「もっと強めの雰囲気というか、自信満々で遊び上手っぽい感じをイメージしていました」
「あー、ぜんぜん真逆だね」
新条さんは笑う。
「悪い人には見えなかったし、真面目で優しそうに見えましたよ?」
「その通りだよ。仕事は真面目で将来性もあるし、細かいところにも気が利いて優しい人だね、増田くんは」
「良い人じゃないですか」
「良い人なんだよ、それが」
「……じゃあ、何が駄目だったんですか? 顔も爽やかな感じで、最近の俳優とかにも、いそうな感じでしたけど」
「あははっ。確かに、そうかもねー」
「顔面が好みじゃない、とか?」
「別に顔で選ばないよ」
笑顔を浮かべていた新条さんの表情は、どこか寂し気なものになった。
「何て言うかね…良い人って分かっていても、好きになるかどうか、ということは別の話じゃない?」
僕は小さく頷く。分かるような、気がしたからだ。新条さんは続ける。
「真面目だし、優しいし、顔も悪くないからさ、確かに断る理由はないんだよ。だから、上手く断れなくて、彼氏がいるって言うのが、一番楽な断り方なのかな、って思ったの」
「でも、僕なんかで納得しましたかね?」
僕みたいな平凡な男だったら、増田くんは「自分の方が」とやる気を出してしまうのではないか。新条さんは首を横に振ってから、増田くんについて説明した。
「以前ね、他の男と歩いているの、増田くんに見られちゃったんだよ。それこそ、自信満々のタイプで、俺は金の稼ぎ方も遊び方も知っているぞ、って感じの男。その人にもちょっと言い寄られてはいたけど、彼氏ってわけではなくて、曖昧な関係だったの。それを増田くんに色々と説得してきてさ。あんな男が相手だったら幸せになれない、って何度も言われたわけ」
僕が見た限り、増田くんはそこまで押しの強いタイプに見えなかったが、彼と新条さんはどういった関係だったのだろう。新条さんは続ける。
「それで、増田くんは私がどんな男と付き合っていたら納得するんだろう、って考えたの。たぶん、増田くんは自分こそが私を幸せにできるって思い込んでいるから、彼と似たタイプが私の彼氏だったら、って」
「それが、僕ですか?」
僕は少しだけ意外に思った。僕はたぶん彼のように真面目ではないし、将来性もなく、細かいところにも気は回らない。それなのに、同じタイプと一括りにされてしまうことは、彼に申し訳ない気がした。
「何て言うかね、愛することが上手い感じ、凄い似ている気がするんだ。増田くんに話しかけられたり、見つめられたりすると、広瀬くんと沙耶ちゃんの関係思い出したりしてねぇ」
沙耶先輩の名前が、新条さんの口から出てきて、僕は少し緊張しつつ、彼女の話に耳を傾ける。
「沙耶ちゃんは、広瀬くんに正しく愛してくれている感じがした。広瀬くんは、自分の好きを押し付けないじゃん。それって、沙耶ちゃんにとって凄い救いになっていたと思うんだよね。だからこの前、偶然にも広瀬くんを見つけたとき、超ラッキーって思ってさ。理想の彼氏がいたぞ、って。あ、理想の偽彼氏ね」
「そんなことは…なかったですよ」
偽彼氏を強調されたことを気にしつつ、僕は昔のことを思い出して、少しだけ落ち込む。先輩の話をされると、打ちのめされた過去の記憶が、どうしても蘇ってしまうのだ。そんな僕に新条さんは慰めるように優しく笑いかけた。
「まぁ、傍から見る限りはそう見えた、って話だよ」
新条さんは笑顔のまま、小さく溜め息を吐くと、何だか萎んでしまったように見えた。そして、後悔するように言う。
「増田くんもそんな感じで、私の話をよく聞いて、理解してくれた。だから、私も彼に甘えてしまったんだろうね」
「だったら、受け入れても良かったのでは?」
なぜか、僕は増田くんを応援していた。かつての自分と重ね合わせているのだろうか。
「駄目。たぶん、彼と一緒になっても、私は幸せにはなれない。幸せにしてあげることも、できない」
そのときの新条さんの表情は、僕の記憶の中に深く刻まれる感覚があった。彼女は笑顔を掻き消し、限りなく冷たく、どこまでも現実的な未来を見つめているようだったから。しかし、その表情はすぐに溶けて、悪戯に笑うと彼女は指先を僕に向けて、円を描きながら言うのだった。
「だから、彼に良く似た広瀬くんも、私のことは好きになっちゃダメだからねー?」
「ぼ、僕は大丈夫です」
「でも、どうせ沙耶ちゃんとは関係切れているんでしょ? それで心にぽっかりと空いた穴に、私みたいなものが、すぽんって入っちゃたりして」
「入っちゃたりは、しません」
煩わしそうに顔をしかめたものの、何て信用のできない言葉なのだろう、と自分でも思った。だって、僕は新条さんの顔を見て、心臓は激しく音を立てるし、顔も熱くて仕方がなかったから。それに、彼女には彼女の孤独があるのだ、と少し話しただけで感じた。
そして、僕は彼女の孤独を救えないか、と少しだけ考えてしまったのだ。そんなもの、思い上がりでしかないし、彼女にとっても余計なお世話でしかない。そんなことは、わかっているはずなのに。
その後は、他愛もない話をした。共通の知り合いが、今はどんな仕事をしているとか、誰それが結婚したとか、そんな話だ。ただ、彼女は別れ際に言った。
「たぶん大丈夫だとは思うんだけれど、増田くんが折れずに頑張っちゃうことも考えられるから、そのときは、また連絡するねー」
「はい、お役に立てるよう、頑張ります」
そんな出来事から二カ月も経って、彼女から連絡はこなかった。
この件は終わったのだ。そんな風に解釈していたが…これが後々に厄災として降りかかるのだった。