それでも生きてみようと思う
山を下りて、少し歩くと運が良いことにタクシーが通りかかった。すぐに手を挙げて捕まえて、最寄りの駅まで乗せてもらうと、後は電車で移動した。見慣れた街を歩くが、すれ違う人々の視線が痛い。泥だらけの女が、街中を歩いているのだから、当然のことなんだけど。
へとへとになって、打ちのめされたような気持ちで、部屋の扉の前に立つ。早くシャワーを浴びて、眠りたいけれど、その扉を開けることが、とても億劫だった。この扉の向こうにいる広瀬くんがいるはず。彼は、三日も帰ってこなかった私を見て、何というだろうか。怒られる、ということはないだろうけれど、責められるかもしれない
私は携帯端末の電源を入れる。きっと、広瀬くんから何通もメッセージが届いているに違いない…と、表層では重い気持ちを抱えながら、心の奥底ではどんな風に心配してくれていたのだろう、と楽しみにしていた。
それなのに、メッセージなんて一通もなかった。私は電波の問題かもしれない、と一分くらいその場で停止し、メッセージの受信を待ったが、携帯端末は無言を貫くばかりだった。
「なーんだ」
勝手に出てきた言葉はそれだった。それがどういう意味か、自分でも分からなかったが、自然と踵を返して、またどこというわけでもなく、歩き出してやろうと思った。そしたら、今度こそ自分の人生に、区切りを付けられるかもしれない。
「……何しているの?」
もう一度歩き出そうとした私の前に、広瀬くんが立っていた。彼も驚いたのか、どこか茫然とした顔をしている。
「何って、帰ってきただけだけど…」
呟くように言ってから、後悔する。何だか、もっと言いたいことがあったような気がしたからだ。ちゃんと伝えよう。そう思っても、それが何だったのか、忘れてしまった。忘れてしまった気がする。そんな私の気持ちを知ってか、広瀬くんが一言。
「そうなんだ」
それだけか、と問いただしたいくらい、素っ気なかった。しかも、拗ねたいのは私なのに、なぜか彼の方が不満そうな顔をして、鍵を取り出しながら先に部屋の中へ入ろうとした。
「ちょっと、三日も会ってないのに、そんな態度はないでしょ!」
私は精一杯の力で広瀬くんを押した。彼は情けなくバランスを崩してたたらを踏むと、こちらを睨み付けてきた。
「そっちこそ、ずっと僕のこと放って置いてさ。もっと言うべきことがあると思うけれど」
「何それ。そんなの、こっちのセリフでしょ、絶対に!」
流石に苛立って、一歩詰め寄ってから引っ叩いてやろう、と思った。しかし、距離が縮まったことで、私はそれに気付いた。
「うげっ。広瀬くん、凄く臭い!」
それは、本当に異様な匂いだった。広瀬くんは私を睨みながらも、腕の辺りを鼻に近付け、体臭を確認したが、自分でも耐え難いものがあったのか、顔をしかめる。
「仕方ないじゃん。三日もお風呂入ってないんだから」
「……え?」
広瀬くんは、いじけたように唇を尖らせ、照れ臭そうに顔を背けた。
「どういうこと?」
混乱しつつ、私がこの部屋にいなかった三日間、彼が何をしていたのか、確認しようとした。
広瀬くんはぶっきら棒な口調で答える。
「どういうことって…家出したつもりだったんだけれど」
「三日間?」
「……そうだよ。知ってるでしょう」
……知らなかったよ。
「念のため聞くんだけど、何で家出なんてしたの?」
広瀬くんは、どこか萎んだ様子で、答えに困っているようだった。どうも、言いにくいらしい。
「もしかしてなんだけどー」
私は彼の顔を覗き込む。
「何となく色々嫌になって出て行ったけれど、何も答えが見つからなくて、帰ってきちゃった感じ?」
私の質問に、彼はしゃがみ込んで、両手で顔を隠した。どういう気持ちなのだろう。恥ずかしいのか、情けないのか、自然と涙が流れたのか。
だけど、そんな彼を見て、私は自分の口元が緩んでいることに気付いた。嬉しいと思っているのか、それとも彼のことを愛おしいと思っているのか、自分でも分からない。だけど、悪い意味ではないことは確かだ。
「まぁ、そういうことって、あるよねー!」
そう言って、隣にしゃがみ込んでから、彼の肩を抱いた。
「やめてくださいよ」
広瀬くんは怒ったような顔を見せたが、すぐに溜め息を吐いて、足元に視線を落とす。数秒、そのままだったが、灰色のアスファルトに水分が一滴。どうやら、今度こそ泣き出してしまったらしい。私は彼の背中を撫でる。
「元気出そうよ。元気出すしかないよ。私たちみたいなもんでも、この世界で生きて行くしかないんだからさ」
子供をあやすように、背中を撫でたり、リズムを取るように肩を揺すったり、色々とやった効果があったのか、彼は泣き止んで、やっと気持ちを表明するように呟いた。しかし、それは空気中に霧散してしまったように、私の耳まで届かなかった。
「なーに? 聞こえないけれど」
「……さいよ」
「ん?」
彼の方に耳をそばだてると、広瀬くんは勢いに任せるように、はっきりと言った。
「新条さんもくさいよ!」
「あはははは、分かったー?」
「三日間、何していたんですか? 服も泥だらけだし。転んだり怪我したりしてないよね?」
「大丈夫大丈夫。とにかく、お風呂にでも入ろうよ。それでさ、お互いこの三日間、考えたこと思う存分話せば面白いんじゃないかな」
「嫌ですよ……」
私は立ち上がり、彼に手を差し出す。
「大丈夫だって。たぶん、私たちは…まだ分かり合えること、たくさんあるはずだよ」
広瀬くんは差し出された手を見つめる。その手を取ることが正しいことなのか、迷っているのだろう。私は急かすように、その手をさらに突き出した。すると、彼は観念したように手を取って、立ち上がる。
まだ、どこか拗ねた顔をしている彼にキスをして、私は鍵を開けた。
私たちは帰ってきた。さて、まずは体を綺麗にしたら、満足するまで食べて、たっぷり眠ろう。明日に備えて、明後日に備えて、一年後、五年後、十年後に備えて。そんな日々を過ごしているうちに、ここではないどこかへ行きたくなることもあるかもしれない。だけど、そんな場所に辿り着くことはない。一歩踏み出せば、一歩分、その場所は遠ざかってしまうのだから。それでも、いつかはそこに立っている。そう信じて、一日一日を過ごすしかない。不本意なことではあるが。
死にたくないから生きている。それが正しいとは思えない。幸せになれない自分。なりかたった自分がどこにもいない。そんなことに気付いて、これからも生きることが嫌になるだろう。
それでも、最悪な人生を続けたいと思う。その方が何百倍も正しいってことは、十分過ぎるほど分かっているつもりだから。




