ここではないどこかへ
月曜日、仕事を終えて、私は真っ直ぐと駅前へ向かった。
金曜日と同じように、少し離れたところから、人混みを眺めていると、すぐに広瀬くんを見付けた。彼も同じようにベンチに座って、ぼんやりとした顔のまま、どこというわけでもなく景色を眺めている。とても幸福とは言えないのであろう、彼の表情を見て、私は性格悪く口元に笑みを浮かべてしまった。
「広瀬くんは毎日、ここでぼんやりしているのかなぁ?」
早速、私は彼の目の前まで接近したが、こちらに気付いているのかいないのか、前回と同じように
ピントが合わない表情を見せた。
「あ……新条さん」と寝惚けたような声だが、やや表情が柔らかくなったように見えた。
私は彼の隣に腰を下ろす。
「もしかして、私のこと待っていた?」
からかったつもりだが、彼はただ薄く笑うだけだった。並んで座って、十秒くらいは会話もなく、ただ行き交う人を眺めた。先に口を開いたのは、もちろん私だ。
「広瀬くん、どうするつもりなの?」
「どうするって、何のことですか?」
「これからの人生、とか?」
立ち直って、歩いて行けるのか。あやふやな言葉だが、そういう意味で聞いたのだと思う。それが伝わっているのかどうか、彼はすぐに返答した。
「別に、どうするつもりも、ありませんよ」
彼の言葉は、投げやりと言うのものとは少し違う、もっと危うげな響きがあった。いざとなったら、自分の体をどこかに投げ出してしまいそうな、そんな危うさだ。
「でもさー、このまま死んだみたいに生きるのも、正しい形とは言えないじゃん? 人は生きる限り、幸せを求めるべきだと思うけどなぁ」
私は彼を励ましたいのだろうか、と自問する。いや、私は共鳴したいだけなのかもしれない。私の人生を、生き方を理解できるとしたら、唯一彼なのかもしれないのだから。
そんな私の気持ちを知る由もない広瀬くんは、特に心が乱れた様子もなく、淡々と答えた。
「そうかもしれません。だけど、もうその機会を失ってしまいましたので…」
苦味が口の中で広がったような顔だ。ただ、今の状況から脱してやろう、という気概は、まったくと言って良いほど見えない。そんな彼を見ていると、常日頃から考えていた疑問が、勝手に口から出た。
「そんな風に言うと、考えてしまうのだけれどさ、どれだけの人が幸せを実感しながら生きているんだろうね。逆に幸せを掴めなかった人たちはどれだけいて、どうやって生きているんだろう」
彼は特に反応しなかったがく、耳は傾ているみたいだったので、私は続けた。
「何年も何年も、幸せになるため必死に生きてきたのに、報われないなんて最悪だよね」
たぶん私も、広瀬くんも、好きな人と出会って、世界がひっくり返ってしまったのだと思う。それだけを大事にしていれば、こんな世界でも生きていられる。そう信じていた。それなのに、唯一の支えを失ってしまって、どうやって生きて行くべきなのか、分からなくなってしまった。
「それとも、私たちみたいな人間には、この世界に居場所なんてないのかな?」
ここで初めて、広瀬くんがリアクションらしいものを見せた。
「新条さんは、自分の居場所がないように感じているのですか?」
心底、意外だと言わんばかりの顔に、私は頷く。
「何回か、自分でも納得できる居場所を手に入れる機会は、あったと言えば、あったんだけどね。全部、駄目だった」
「駄目だった…?」
理解できないらしい。どうして駄目だったのか、と問いかけられているようだった。
「広瀬くんって、私のこと、奪う側の人間だと思っていた?」
奪う側、という言葉の意味は、自分でも正確に説明できるものではなかった。誰かを好きになると言うことは、生活や心の一部を相手に奪われることだ、と私は思う。誰かに好かれ続ける人間がいるとしたら、それは他人から生命力を奪い続けることと同じだ。
「まぁ、でも…そうなのかもね。確かに、たくさんの人から想いをもらって、その分だけ踏みにじってきたのかもしれない」
私は奪われたと思っていた。でも、考え直してみれば、私が生命力を奪ってしまった人も、決して少なくはないのかもしれない。私は奪ったものを、返すことはなかった。返すことなんて、できなかったし、それをしてしまったら、むしろ不誠実なことではないか、と考えていたのだ。
自分の傷を見せるような、私の語りを聞いたせいか、広瀬くんも自らの感情を吐露し始めた。
「僕は、やっと手に入れたと思っていたんです。だけど、それは幻でしかありませんでした。人生のすべて賭けていたつもりだったのに、これだけ簡単になくなってしまうなんて…もう、どうやって生きて行けばいいのか、もう分かりません」
彼の喪失感に、私は強く共感した。それでも、他人事のように言って見せる。
「生きる目的を他者に求めてしまったんだねぇ…確かに、それがないと生きていけない人も、少なくないってことは、分かるよ」
本当は共鳴し合いたい。それなのに、なぜか一歩が踏み込めない。だから、ただ彼の言葉に耳を傾けた。
「僕はそれがないとダメなタイプみたいです。手に入れる前までは、一人でも平気だったのに、そのときの自分には、もう戻れません」
分かるよ、と言って手を取りたかったが、私は堪えた。
沙耶ちゃんは、広瀬くんから多くを奪ったが、その分だけ多くを与えた。いや、ちょっと違う。彼女は広瀬くんの心に大きな穴をあけて、そこに居座った。そして、飽きてしまうと去ってしまったのだ。心にあいた大きな穴。それは、彼一人で修復できるものではない。
少しだけ沈黙が流れた。そんな中、私の頭の中に、過去の記憶が呼び起こされる。広瀬くんの方を見て、彼が同じ記憶を保持しているか、確認してみようと思った。
「そう言えば、ちょっと前さぁ…私、広瀬くんに助けてもらったよね。覚えている?」
広瀬くんは苦笑いを浮かべた。
「覚えていますよ、もちろん。あの後、結構大変だったんですよ」
何があったのだろう。きっと、言葉の通り大変だったのだろうけれど、彼の中では微笑ましい想い出になっているようだ。でも、私が思い出してほしいことは、そういうことではない。
「じゃあさ、あのとき別れ際に、私が何て言ったか、それも覚えている?」
広瀬くんは心当たりがなかったのか、僅かに首を傾げた。思い出してほしい。そんな気持ちを込めた視線と共に、私はあのときの言葉を再び口にした。
「今度は私が広瀬くんを助ける。そう言ったんだよ」
記憶の中に、合致するものがあったのか、彼の表情が僅かに変わった。私はなぜか嬉しくなって、口元が緩む。そして、その勢いで、いつの日からか、ずっと自制していた想いを口にした。
「一緒に逃げない?」
「逃げる?」
突拍子もない提案に、広瀬くんは目を丸くした。でも、私はきっと彼はこの提案を受け入れる、という確信があり、嬉しさから口の端を吊り上げ、堕落を促す言葉を並べる。
「こんな場所にいても、私たちは不幸になるだけだよ。もう疲れたでしょう? 楽しくないでしょう? 生きていても仕方ないと思ってしまうのでしょう?」
それは、私ではない誰かが、私の体を借りて喋っているのではないか、というくらい、勝手に口が動いたものだった。でも、これらは確かに、すべて私の想いだ。この想いを抱きながら、塞がってしまいそうな夜を耐えて、朝になれば体を起こし、日々を過ごしてきた。でも、もう限界だ。だから…。
「だから逃げ出すの」
広瀬くんは困惑していた。いや、恐怖していたのかもしれない。
「逃げるって言っても…どこに?」
「そんなの、ここではないどこかに決まっているでしょう」
「ここではない、どこか?」
彼が心が揺れているのが分かった。
「でも、逃げたとしても…」
見えない未来から目を逸らすように、彼は俯いた。そんな彼の輪郭に触れる。
「こっちを向いて」
無理矢理、こちらに振り向かせ、彼の手を握る。何が起こっているのか、混乱しつつも、彼は不快感を抱いているわけではないようだ。だとしたら……。
「私が居場所を作ってあげる。だから、一緒に逃げようよ。ここではないどこか。きっと、私たち二人なら、そこに辿り着ける」
そして、私は彼を引き寄せ、唇を重ねた。
こうして、私と広瀬くんの逃避生活が始まった。都会の暮らしを捨てて地方へ。生活を捨てることは怖いことだ。だけど、一人でなければ、心の穴を埋めてくれる誰かがいれば、きっと踏み出せるはず。そんな私の誘いに、広瀬くんはまんまと乗ってくれたのだった。




