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ここではないどこかへ

次の日、ずっと黙り込んでいた奏人が、夜になって声をかけてきた。

「玲奈ちゃん、お詫びしたいから、明日…一緒に出掛けない?」

「行かない。別にお詫びされる筋合いなんてないし」

私は漫画本を読みながら答える。本当に、どうでもよかったのだ。


「ちょっと良いお店、予約したんだ。たぶん、喜んでもらえるからさ」

「えええ……」


どんなお店であろうが、別段興味はなかったが、奏人の「キャンセル料取られちゃうから、お願い」という言葉に負けて、重い腰を上げることにした。


奏人が予約したお店は、確かに良いところだった。ホテルの上階にあるような、お店の雰囲気だけでなく、夜景も美しい場所で、個室だから周りの目も気にせずに済んだ。料理の味も確かで、日常では食べられない物ばかり。それほどまともに働いていない奏人が、どうやって資金を確保したのか不思議なほどだ。


メインの料理を食べて、後はデザートを残すばかり、というタイミングで証明が落ちた。何事だろうか、と視線を巡らせると、お店のスタッフの人が何人か入ってきた。花火みたいなものが刺さって、ピカピカと光るケーキが乗ったお皿と、ドームのような蓋で閉じられたお皿がテーブルに置かれた。

何が入っているのか、正体不明なお皿の蓋が、スタッフさんの手で取り払われた。すると、そこに、手の平に乗る程度の大きさの何かが。それが何か、一瞬だけ理解に遅れたが、分かってしまったら、背筋を巨大なカエルの舌で舐められたような悪寒に襲われた。


奏人はそれを手に取ると、私の横に移動して、跪いた。

「玲奈ちゃん、僕と結婚してください」

そう、奏人が手にしているそれは、リングケースだ。パカッとそれが開くと同時に、スタッフの人たちの「おめでとうございます!」という明るい声と拍手が鳴り響いた。


「えええー!」


私は驚いた。いや、本当は不快感に吐き気を覚えていたが、驚いたような声を上げた。リングケースの中で輝く指輪を見て、どうしたものか、と考える。取り敢えず、リングケースごと手に取り、スタッフの人たちに見せて、照れたような笑顔を見せた。スタッフの人たちは暫くは拍手とおめでとうございますを続けたが、私が指輪を薬指にはめるとか、プロポーズを受けるような言葉を返さず、ただ頭を下げている姿を見せるばかりだったので、諦めるように姿を消していった。


私が黙ってデザートを口にしている間、奏人は満足そうな笑顔を浮かべていた。奏人がしっかりと会計を済まし、店を出た。そのときも、スタッフの人から「おめでとうございます」と言われて、億劫で仕方なかったが、笑顔を返すしかなかった。


少し歩いてから、私はリングケースを奏人に渡した。

「返すよ」

奏人はそこに未知の言語で書かれたメッセージでもあるかのように、リングケースを見つめた。


「それって…どういう意味?」

「結婚なんて、するつもりないよ」

「だって、さっきは…」


そう言いつつ、奏人は先程の流れの中で、私が何も答えていない、と思い当たったらしかった。

「結婚したいなら、私と一緒にいることはやめなよ。悪いけれどさ」

奏人がいつまでも受け取らないので、私はリングケースを彼の眼前に突き出した。


「でも……」


奏人は何か言いたげだったが、それは形にならなかったのか、もしくは押しとどめたのか、結局はリングケースを受け取った。


「分かった。俺、結婚とか二度と言わないよ。でも、俺は一生、玲奈ちゃんと一緒にいたいんだ」

「……やめておきなよ」


奏人は黙り込んでしまい、動き出すこともなかった。数分、その状態が続いたので、私は踵を返して勝手に帰ることにしたが…その背に声をかけられてしまった。


「まだ、哲のことが忘れられないの?」


足が止まり、振り返った。奏人は泣き出すことを堪える子供みたいに、拳を握りしめて俯いていた。


「俺、知っているんだよ。玲奈ちゃんが触れて欲しくなさそうだから、黙っていたけれど…二人は付き合っていたんだろ」


知っている、と奏人は言うが、どうやら何もかも把握しているわけではないようだった。だって、私と哲くんは付き合っていたわけではないのだから。私が一方的に彼のことを好きで、哲くんがそれを許容していただけ。私のお願いなんて聞かず、彼は海外へ行ってしまった。


「俺、哲が玲奈ちゃんを幸せにすると思っていたから、引き下がっていたんだ。それなのに、あいつは昔の女を追いかけて、海外にまで行ったんだよ」


そこは知っているのか。確かに、あのときは、彼にとって自分はなんだったのだろう、と延々と泣いたが、今となっては笑えるよ過去の一つでしかない。


そんな私の心情を知らず、奏人は続けた。

「俺は、そんなあいつが許せなかった。だから、日本に帰ってきたとき、殴ってやったんだ」

「そうらしいね」

私が素っ気なく言うと、奏人は驚いたのか、顔を上げて丸くなった目を見せた。


「……あいつが帰ったこと、知っているの?」

「知っているよ。会いに来た。しつこくホテルに誘われたから、引っ叩いてやったけれど」


そのときのことを思い出して、私は小さく吹き出してしまった。まだ自分のことを好きだろうと信じて疑わなかったのに、少し迫ったら平手打ちを喰らわせられたのだから、驚いたことだろう。


「じゃあ、玲奈ちゃんは…哲のことを忘れられないわけじゃないの?」

「私にとって、哲くんなんて昔のことでしかないよ」


「だったら…」

言い掛ける奏人を遮る。

「だとしても、私は奏人とは結婚しないよ。したくないんだ」




私は一番好きな人と結婚するつもりだった。離婚した母が口を酸っぱくして教えてくれたのだ。結婚するなら一番好きな人にしなさい、と。


恋をした。最初は、高校生のとき。一つ上の先輩が、当時はとても大人に見えて、私の世界に新しい価値観をもたらしてくれるような気がしていた。きっと、彼こそが私にとって「一番好きな人」なのだろう、と信じ切っていた。一年遅れて上京したら同棲して、何年か経ったら結婚、また何年か経ったら出産。そして、この人と少しずつ老いて、子供たちに囲まれていつか死ぬ。


そんな風に思っていたが、ぜんぜん違った。先輩は上京して、すぐに浮気。それどこか、私こそが浮気をしている、と言いがかりをつけて、強引に別れようとしたのだった。今思うと、どこにでもいるような、デリカシーのない最低な男でしかなかったわけだが、あのときの私にとっては、もう二度と出会うことはないだろう、理想の男性だった。だから、それから数年は立ち直れないほど、心に大きな傷を負った。


恋をした。上京して、大学に入ってからのこと。それが哲くん。

高校生のときの、薄っぺらい感情とは違い、哲くんには人間性から惹かれていた。彼の言動も、彼が作る音楽も、彼の価値観も、すべて魅力的であるように感じたし、共感もした。


だが、哲くんは既に付き合っている人がいた。美和子ちゃんだ。

「会う順番が違ったら、僕は玲奈ちゃんに心底惚れることになったんだろうな」

そう言って私を喜ばせたが、こんなことも言っていた。


「でも、僕にはどうしても忘れられない人がいるんだ。玲奈ちゃんは、彼女によく似ているんだ

大学時代は私と楽しくやっていたくせに、卒業したらその女を追いかけて海外へ行ったそうだ。どん底ってくらいに落ち込んだけれど、少し大人になったら、哲くんもその辺にいる男とそれほど変わらないのだ、と気付いた。結局は、性欲を満たすことを優先する、どこにもでいる男。




恋をした。哲くんがいなくなって、奏人が家に転がり込み、なし崩し的に付き合っているような形になってからのこと。初めて出会った大人の男性だったけれど、妻子があった。


これ以上、私を抱きたいのであれば、奥さんと子供を殺してほしい。


そんな私の要求は、もちろん呑んでもらえなかった。私も、そんな付き合いを続けたくなくて、極端なことを言ったのだけれど。ただ、できることなら、もう少し誠実な態度を見せて欲しかった、という気持ちはある。


このとき負った傷は、正直今でも癒えていない。星が綺麗に出ている夜は、ついに空を見上げて思い出してしまう。彼はこうして、よく空を見上げていた。もしかしたら、今も同じ空を見ているかもしれない、なんて。




ただ、私はそれを引きずっているわけではない。たぶん、もうこれ以上は、誰かを好きになることもない自分に絶望しているのだ。一番好きだと思った高校の先輩が現れた。そんな高校の先輩より好きになった哲くんが現れた、。そして、そんな哲くんより好きなあの人が現れた。奏人のことを、彼ら以上に好きになるつもりはない。それに、あれだけの痛みを伴う恋愛を、この歳になって始める気にはなれないし、誰かに興味を持つ体力もなければ好奇心もない。そうなると、私は一般的な幸せをつかむことはできないだろう。そんな自分は、どうやって生きて行くべきか、正直分からない。




「もちろん、奏人には感謝しているよ。私が一番落ち込んでいるとき、傍にいてくれたのは奏人だった。手首を切ったときも応急処置してくれたし、何も食べれなくなったときも何とかしてくれた。だけどね、そういうことと関係なく、奏人と結婚したいと思えるほど、好きになれないんだ」


これだけはっきりと突き放せば、もう私の傍にはいられないだろう、と思ったが、奏人は引きつった笑顔を見せる。


「それでも、一緒にいたいんだ。俺は、玲奈ちゃんと一緒にいるだけで幸せなんだからさ」


それを聞いて、私は酷く絶望した。私はどこまで行っても、どんなに尽くされたのだとしても、この人を愛することはできない。それにも関わらず、どこまでも離れようとしないのだ。


それに、私は知っている。本当の奏人はそういう人間ではないことを。奏人は私がいつだか「どこまでも優しくて、最後まで追いかけてくれるような人が好き」と何となく思いつきで口にした言葉を信じて、今も自分を殺してそういう人格を演じているのだ。


そんな彼のことが嫌いというわけではない。関わって欲しくない、とも思ってはいない。だけど、この人の幸せを背負って生き続けることは、重荷でしかない、と感じている。それに、単純に彼の執念が気持ち悪かった。


私は黙って歩き出した。後ろから奏人が追いかけてくる音がする。私がどれだけ早く歩いても、それはぴったりと離れることはなかった。自分でも不思議なほど、その音は私を焦らせるのだった。

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