ここではないどこかへ
なぜ、私と広瀬くんが都会を離れて一緒に住むことになったのか。それは、一年半前に彼と再会したことがきっかけだ。仕事を終え、駅前を歩いていると、偶然にも彼の姿を目にしたのだ。
駅前で待ち合わせする若者の中に紛れ、広瀬くんがベンチに座っていた。何をすると言うわけでもなく、どこか空虚な表情で、一点を見つめている。沙耶ちゃんと待ち合わせなのだろうか。今日は金曜日だし、この辺りで一緒に遊んでから帰るのかもしれない。彼女の姿を一目見ようと、暫く観察していたが、いつまでたっても広瀬くんは一人で、放心していた。
一時間は経過しただろうか。彼に変わりはなく、待ち合わせの相手も、現れることはなかった。
これだけ長い時間、私は何をしているのだろう、と急に苛立ちが込み上げる。何に苛立っているのか理解できなかったが、とにかく呆けて座ったままの広瀬くんに、何か言ってやらなければ、という気持ちに突き動かされた。
最悪のタイミングで、沙耶ちゃんに出くわしても良いや。そんな決意を抱き、私は人混みを掻き分けるように彼に近付き、目の前に立ってやった。きっと、沙耶ちゃんに見られることを怖れ、慌てふためくだろうと思っていたのに、どうも私に気付いていないらしかった。その視線はこちらに向いているはずなのに、ピントが合っていない。
広瀬くん、と名前を呼ぶと、そこで初めて私の存在に気付いたような顔を見せた。
「あ、新条さん」
「何しているの? こんなところで一時間以上も」
その質問に対し、彼の反応は鈍かった。私の声が耳に入っているはずなのに、脳まで到達するまで時間がかかっているみたいだった。
「えっと…」と呟くことが、やっとらしい。
「大丈夫?」
流石に心配になって聞いてみたが、やはり言葉を理解できないみたいだ。
「誰かを…待っているんじゃないの?」
沙耶ちゃん、という名前を出してはならない。そんな直感があった。
「誰も、待ってはいませんよ」
少しだけ笑顔を見せた。だが、そこには明らかに自虐的な何かがある。
「ちょっと…おいでよ」
放っておくことはできない。そんな気がして、彼の手を引き、近場のお店に入って、温かい飲み物を注文した。彼はそれを一口二口飲むと、少しずつ精気を取り戻しているようだった。
「沙耶ちゃんと、何かあったの?」
最近の調子はどうか。そんなことを何度か質問しても、浮ついたような答えしか返ってこなかったので、単調直入に聞くことにした。すると、彼の意識が遠退くかのように、その目から力が失われて行く。その変化は、危うさを覚えずにはいられない。
「分かった、ごめん。何も言わなくて良いから。何か美味しいものでも食べよう」
彼にご飯を食べさせ、改札まで送り、何とか帰らせた。最後はちゃんとした笑顔で「ありがとうございました」と言っていたが、一人で歩く彼の背中は、やはり危ういものに見えた。
聞くまでもないことだが、沙耶ちゃんと別れたらしい。どう考えても、そうなんだろう。だからと言って、どうこう思うわけではない。確かに、彼のような存在が私の傍にもいたら良いな、と思った時期はあった。でも、今は理解している。彼を傍に置いたからとって、私は自分の人生に納得できるわけではない、ということを。なので、彼がどんな状況になったとしても、私には関係ないことなのだ。
「お帰り、玲奈ちゃん」
帰ると、いつものように奏人が待っていた。何が嬉しいのか、笑顔で私を迎える。
「うん」
私は短く返事をして、靴を脱いだ。手洗いうがい、着替えを済ませてリビングに行くと、奏人が用意した夕食が並んでいた。私は既に食べてきてしまったので、それを見ても、食欲は湧かなかった。いや、正確に言うと、奏人が作ったものを見て、食欲が湧いたことは未だかつてない。味が悪いとか、そういうことではなく、奏人という人間が作ったものを、受け入れることに抵抗を感じているのだ。
それでも、嬉しそうに二人分の箸を持ってきて椅子に座る奏人を見ると、申し訳なく感じて、少しでも食べなければ、と彼の正面に座った。
「玲奈ちゃん、今日は何の日か覚えている?」
「……知らない」
「俺たちが一緒に住むようになってから、ちょうど五年目なんだよ」
何が嬉しいのか、笑顔でそんなことを言って、奏人は食べ物を口に運んだ。一緒に住むようになってから、と奏人は言うが、何て自分勝手な解釈なのだろう、と心の中で毒づく。それではまるで、お互いの合意があって一緒に住んでいるみたいではないか。正しく言うのなら、奏人が私の家に転がり込んできてから五年目だ。私は一度も、一緒に住もうと言ったことはない。ただ、そこまで私を好きだと言うのなら、何かしらの感情を満たしてくれるかもしれない、と思っただけなのだ。
「ふーん」
それでも、私はリアクションして、テレビを付けた。
「そんなに興味なさそうにしないでよ」と奏人は苦笑いを浮かべる。
私は無視して、テレビを眺めた。心を折ってやるつもりなのに、奏人は「これからもよろしくね」と言って笑顔を見せた。
こいつ、私と一緒にいて、楽しいのか?
そんな疑問を抱いてから、どれだけの時間が経ったのか、もう覚えていない。私は一通りのおかずに手を付けると「ご馳走様」と言って、席を立った。
「どうしたの? 疲れているの?」
「うん」
私は短く返事をして、早々にシャワーを浴びることにした。明日は休みなのでゆっくりしても良いのだが、奏人の顔を見ていることが、いつも以上に億劫だったので、すぐに寝ることにしたのだ。
髪を洗いながら一日を振り返ると、広瀬くんの顔が浮かんだ。栄養も精気も足りていないような顔。そうか、別れたのか、と改めて思う。だからなんだ、自分には関係がない、と何度も言い聞かせるが、やはり何度も駅前で茫然としている、あの姿が頭の中に浮かんでしまうのだった。
「ケーキ、一緒に食べようよ」
髪を乾かしていると、後ろから奏人が声をかけてきた。
「えー、お腹いっぱいだから、明日ね」
別に冷たくしてやろう、と思っていたわけではない。だけど、奏人は私の態度によって受けていたダメージが蓄積していたらしく、ついに顔色を変えた。
「何がそんなに気に入らないんだよ」
ドライヤーを切って振り向くと、目の色を怒りに染めた奏人がこちらを見ていた。
「何が?」
私は毅然とした態度を見せた。奏人は今にも出かかった言葉を何とか呑みこもうと、顔を引きつらせている。込み上げる衝動に耐えてるみたいだ。
「私のこと、嫌なら出て行きなよ」
そんなつもりはなかったのに、口元には嘲笑に近いものが浮かんでしまった。そして、言うつもりもなかった言葉が出てしまう。
「知っているんだよ、私のことが嫌になる度に、沙耶ちゃんのところへ逃げてたこと」
奏人の顔色が青くなる。ちょっと鎌をかけてみよう、と思っただけなのに、これだけ簡単に本音を引き出せるとは思わなかった。
「今なら相手にしてもらえるかもよ。なんだか、別れたみたいだしね」
口元が緩むのを我慢できず、顔を背けたが、鏡の前にいたので、その表情は奏人にも見えていただろう。それは自分でも驚くくらい、嫌な笑い方である。
「…俺には、玲奈ちゃんが何を考えているのか、分からないよ!」
そう言い残して、奏人は外へ出て行った。本当に沙耶ちゃんのところへ行くのだろうか。だとしたら、本当に気持ち悪い男だ。奏人を追いかけるつもりはないし、連絡するつもりもないので、私は布団に潜り込んだ。
月曜日…もしかしたら、また駅前に広瀬くんが座っているかもしれない。そんなことを考えている自分が浮かれていることに気付く。私は彼をどうしたいのだろう。そんなことを考えていると、奏人が帰ってくる気配があったが、私は気付かないふりをした。
とにかく、月曜も同じ時間に、広瀬くんが駅前にいないか、見に行ってみよう。彼がどんな顔をするか、想像しているうちに、私は眠っていた。




