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ここではないどこかへ

「新条さん、最後のお願いなんだけれど、もう一回だけ考え直してもらえない?」

店長が両手を合わせ、拝むような仕草を見せた。

しかし、私は貼り付けたような笑顔で答えるしかない。

「えー、ごめんなさい。本当に、店長にはお世話になりましたけれど、ちょっと…」


できるだけ、はっきりと断ったのだが、店長は頭も下げ始めた。

「お願い、もう一ヵ月だけ延ばしてみて、考えてくれない?」

私も頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい」


店長は、私の顔を上げると眉を八の字にして、泣きそうな表情を見せる。私よりも年上で、いつもテキパキと仕事をこなす店長なのだが、このときは守ってあげたくなるような、弱々しい女性に見えた。


「……分かった。もう引き止めない。だけど、働き先に困ったり、もう一度やりたいって思ったりしたら、絶対私に連絡してね」

「ありがとうございます」


こっちに引っ越して、なかなかいい仕事に巡り合えなかったが、ここでは一年も働いた。ずっとお世話になっていたアルバイト先だったが、この日が最終日。一年前、気になっていた小さな服屋さんの前に貼り出されていたアルバイト募集の紙を見て、働かせてくれと飛び込んだ私を受け入れてくれた店長には、本当に感謝している。


「本当に、ごめんね」


帰り支度をする私に、再び店長が声をかけてきた。


「私が余計なこと言わなければ、こんなことにならなかったのに」

「店長のせいではありませんよー」


店長は控え目な笑顔を見せて「そう言ってもらえるのは有り難いけれど、やっぱりね…」と、歯切れ悪く呟く。その後も店長からいくつか質問があった。次の仕事に関して、生活に問題はないか、などなど。私はどれも「何とかなります」と答えたが、実際は何も決まっていなかった。


「じゃあ、行きますね。今まで、本当にお世話になりました」


話が途切れたので、私は頭を下げた。店長も深々と頭を下げ、店の外まで私を見送ってくれた。店長は、本当に良い居場所を与えてくれたのに、どうして私は去ってしまうことになったのか。店長のせいではないし、自分のせいでもない。巡り合わせが悪かった。ただ、そんな風に思うしかないのだが、何となく納得できない気持ちがあって、それが嫌に重たかった。




きっかけは、店を一部改装する、という話が出たことだ。女ばかりの職場だから、男手がなく、困っていたところ、店長の弟さんがやってきたのだった。

店長の弟さんは、数日間、店を出入りし、私も何度も顔を合わせた。男手が必要になりそうな作業がすべて終わり、彼は店を出て行こうとしていたとき、私は店長にお昼休憩を取るように言われた。


「何なら、二人で行って来たら?」


店長がどういうつもりで言ったのか、それは分からないが、嬉しそうに提案されてしまい、断る言葉が出てこなかった。


「彼女、こっちに引っ越してきてから、間もないからさ、美味しいお店、教えてあげてよ」


そんな感じで、私は店長の弟さんと一緒に食事をすることになった。最初はお互い口数が少なかったが、趣味の話になると意外に合致するところが多く、それなりに盛り上がってしまった。そのときは、何事もなく別れたのが、後日店長かこんなことを言われてしまった。


「ねぇ、弟が新条さんとまたお話ししたいって言っているんだけどさ」

戸惑う私。

「弟がこんなこと言い出すなんて初めてなんだ。連絡先、教えても良いかな?」


迷ったが、別に悪いことではないか、と承諾した。確かに、彼と話した時間は楽しかったし、たまに食事しながら、お話しするくらいなら…と。それに、部分的であったとしても、価値観が合う人間は、滅多に出会うことはない。浮かんできた感情を理解し合い、興味深いと捉え、意見を交換できるなんて、素晴らしいことじゃないか。自分を自由に表現することは、ストレスが緩和されるし、心も潤う。そんな風に私の意識を認めてくれる人なら…。


しかし、私の考えは甘かった。何度か二人で食事をして、それなりに楽しい時間を過ごし、私も友人として彼のことを信用し始めた頃、こんなことを言い出されてしまった。


「良かったら、お付き合いしてもらえないでしょうか」


またも戸惑う私。そんなつもりではなかったのに。

傷付けないように、ただの友達のつもりで接していた、と伝えると、彼は黙り込んでしまった。落ち込ませてしまったのだろうか、と少し後悔の念を抱いたが、次の瞬間、彼はさらに驚くようなことを口にした。


「じゃあ、一晩だけ付き合ってください。絶対に、後悔させないから」


開いた口が塞がらない、という言葉があるが、この瞬間はまさにそんな状態だった。割りと爽やかな感じで、店の皆からも好印象だった彼が、こんな一言を発する、ということに驚いたのはもちろんなんだけれど、私を何度も誘ってくれた目的はこれだったのか、と思うと心底がっかりしてしまった。

私はてっきりお互いの価値観を共感し合える相手として、お互いを評価しているのだと思っていたが、彼は違ったらしい。どうやら、肉体的な接触、色欲を満たすことこそが、目的だったのだ。


「こうやってお話しすることは、楽しいよ。でも、そういうつもりは、私にはない。それが目的なら会うつもりはないから」


はっきりと伝えた。それが功を奏したのか、彼は理解してくれたらしく、次に誘われたときは、食事だけで終わった。なんだ、分かってくれたではないか。私はほっとしたが、言い表せない不安を拭うことはできなかった。


そんな予感が的中した言うべきか、何度か食事を繰り返すと、彼は決まって言うようになっていた。


「俺、やっぱり新条さんのこと、諦められない。付き合ってほしい」


もちろん断るが、その後は必ずと言って良いほど、一夜の関係を求めてくる。パターン化している、と気付いたら、彼と会うことは億劫になってしまった。

それでも、週に一回は必ず連絡があって、その度に気持ちが重くなるものだから、リアクションすることも面倒で仕方なかった。だが、店長のことを考えると無下にはできない。そんな反する想いに切り裂かれてしまいそうだった。


それは少しずつ大きなストレスになり、あの場所で働くことも嫌になってしまうほどだった。そこで、私は店長にやめることを伝えた。店長は何度も引き止め、理由を教えて欲しい、と何度も尋ねられた。もちろん、弟さんとの関係が面倒になったからです、とは伝えられず、曖昧なままにしていたが、最終日も近くなると、店長に尋ねられてしまった。


「もしかして、弟が何か迷惑かけている…?」


言い淀む私に、店長は事情を察したらしかった。店長は何度も謝ってくれたが、もちろん彼女に責任はない。むしろ、一年間も私の面倒を見てくれたことに、感謝しかないのだから。




ただ、安住の地とも言えた仕事場を失い、大きな徒労感だけは残った。家に帰って、広瀬くんに報告した。

「仕事、辞めてきちゃった」

私が帰ってきたのに、広瀬くんはパソコンで何やら作業をしていて、こちらに背を向けたままだったが、声をかけると流石に振り返った。


「辞めた? どうして?」

「うーん…」


答えにくそうにする私を見て、広瀬くんは小さく吹き出した。


「何となく察しがついたので、言わなくて大丈夫です。大変ですね」


そう言って、彼は顔を背け、またパソコンに向かって忙し気にキーボードを打ち始めてしまった。

そんな彼の態度を見て、私は何だかモヤモヤとした気持ちが広がる。ただ、それがどういった感情なのか自分でも分からず、閉口して自室にこもるしかなかった。そして、考える。いよいよ、やることがなくなってしまった。この先の人生、もしかして絶望しかないのでは、と。


そして、私は死に場所を探すことにした。

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