必ず、そこにあると思うなよ
封筒を握り締めて、私は帰った。旦那に見られないよう、バッグの奥に押し込み、その日は眠った。
「出発は一カ月後。その日のうちに、一緒にこの地を離れようとは言わない。でも、答えだけでも聞かせて欲しい」
そう言われてから、既に三週間が経ち、来週には彼が出発する日を迎えようとしていた。陰鬱な日々が続き、私の口数は減った。その影響なのか、旦那の口数も減っている。
ある日、いつも持ち歩いているはずの封筒がないことに気付いた。いつもと違うバッグを使ったせいで、中身をすべて入れ替えなかったらしい。私は焦って家に帰ったが、旦那は静かに眠っていた。次の日も、特に変わった様子はなかったので、心の中で胸を撫で下ろした。
身の回りものを整理する。旦那が違和感を覚えないよう、少しずつ。部屋が整理されるごとに、私の心は乱雑になった。ものを捨てる度に、私の無駄な感情も捨てられればいいのに、と思った。また、ものを捨てていると、私にとって大事なものは、殆どないのだ、ということに気付いた。何だって、抵抗なく捨てられるのである。だとしたら、身軽だ。今の生活だって、躊躇うことなく、捨ててしまえるだろう。
哲がこの地を去る日は、ついに明日となった。私はその前に、答えを出さなければならない。
「今日、出掛けるから」
出掛ける前、土曜日で家にいる旦那に声をかけた。
「帰りは何時くらいになる?」
笑顔で質問する旦那を直視できなかった。もしかしたら、私はこのまま、家に帰ってこないつもりかもしれない。哲と一緒に街を出て、この人のことを忘れて、何もなかったように暮らす。そういうつもりなのだ。本当はもっと話し合うべきことがあって、お互いが心を整理した上で別れるべきだ。別れるにしても、そうするべきだ。でも、私は一切を放棄して、逃げようとしている。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
そう言う旦那は、今にも泣きそうな顔をしているように見えた。いや、旦那は何も知らないはず。そう見えるのは気のせいで、私の罪悪感がそう見せてるのかもしれない。
駅に着いたが、なかなか改札まで向かう気になれなかった。駅前にあるベンチに腰を下ろすと、私は考えた。
このままで良いわけがない。私は帰るべきだ。すぐにでも帰って、旦那と一緒にご飯を食べて、一緒に眠って、いつもの朝を迎える。何の喜びもない、何の楽しみもない、そんな朝を迎えて、一日を過ごす。そして、それを繰り返すべきだ。
電車に乗って、哲のところへ向かったら、どうなる。もしかしたら、楽しいことが待っているかもしれない。若い頃に描いた、理想の生活が、そこにあるのかもしれない。だけど、それはきっと、すぐに裏切られてしまうのだ。
まるで、不幸が連鎖しているみたいだ。すべては私の思い違いかもしれないが、この不幸の川上にいる新条玲奈は、今何を思っているのだろう。彼女が哲を不幸にして、哲が私を不幸にして、私が旦那を不幸にしている。そんなことは間違っている。私がやめなければ。
答えは決まっているのに、少しも動けなかった。
既に日付が変わる時間が近付いている。それまでには、決めなければならない。なぜか、そんな強迫観念があった。でも、同時にこれは、私が状況に浸っているだけ、ということも理解してた。だって、本当は答え何て決まっているのだから。
そろそろ、動かなくてはならない。例え不幸になっても、私は行かなければならない。行かずにはいられない。
すると、見知らぬ番号から電話が入った。誰だろう、と首を傾げながらも、虫の知らせを感じ、電話に出た。
「美和子さん、ですか?」
電話の向こうの声は、確かに私を私として認識している。そして、その声に聞き覚えがあった。
「広瀬くん…なの?」
「はい、そうです。広瀬です!」
なぜか彼は興奮しているらしかった。そこから、彼は「時間がない」と言って早口で説明を始めた。昔の男に呪われた沙耶を取り戻したい。彼は必死だった。そして、呪いを解くには魔法が必要だ、と過去の私は広瀬くんにアドバイスしていたらしい。正直、覚えていなかったけれど。
「そう、沙耶は広瀬くんのところにいるんだね」
彼女が私のアドバイスのようなものを聞いてくれたのだろうか。でも、そうだとしたら、私は二度も彼女を地獄へ導いてしまったのかもしれない。ただ、沙耶は結婚する前に、ちゃんと気付いているらしい。この先は、達成できなかった後悔から生まれる、虚無の地獄があるだけだ、と。この地獄に落ちたくはない。それは一生続く呪いと同じだ。
「呪いの解き方、分かったの? それが分かったら、ヒントを教えるって約束だったよね」
広瀬くんが沙耶にかかった呪いを解けるのなら、きっと私も救われるチャンスがあるのではないか。少し期待を抱きながら聞いてみたが、彼は黙ってしまった。
「ないなら、切るよ。私だって、思い出したくないこと、色々あるんだから」
私は電話を切ろうとした。そう、思い出したくないことは思い出さず、今の生活を捨てて、失ったものを取り戻せば良い。
「待ってください。あります。呪いを解く方法!」
「……なに?」
「それは……」
そんなものはない。無限の地獄があるだけだ。期待をやめた私に、広瀬くんは言った。
「全部、洗い流せるくらい、たっぷりの愛情を注ぎます。どこまでも優しく、何があっても裏切らない。そんな愛情を、尽きることなく」
私は思わず吹き出してしまった。彼は何も分かっていない。なんて馬鹿なのだろう。愛情なんて、優しさなんて、いくら与えたとしても、私たちは変われないのだ。変わりたくないのだ。
「そんなの、昔と変わらないじゃん」
私は吐き捨てるように言った。お前には救えない。私たちを救えはしない。そんな怒りと共に。
「だけど」と広瀬くんが言う。
私は耳を傾ける。彼が何かを否定してくれることを期待していたのだ。
「これ以上、先輩を歪んでしまった想い出の中で溺れさせるべきではないと思うんです」
歪んでしまった想い出。その言葉は、音を立てて、私の深いところまで落ちて行った。
そうだ、私たちは歪んだ想い出の中にいて、そこから這い上がるどころか、沈み込んでやろう、と思っている。沈み切った沼の底に何があるのか。そんなことは知っている。ただ暗くて息苦しいだけの日々があるだけだ。
そして、次の瞬間には旦那の顔が浮かんだ。暗い沼の中から、私を引っ張り出してくれたのは、あの人だ。私は再び沼の中に飛び込もうとしている。彼の制止を振り切って、それでも私が飛び込もうとしたのなら、きっと二人とも沼の中に沈んでしまうことだろう。それは許されることではない。
「それが…できると良いね」
電話の向こうで、広瀬くんが息を飲んだ気がした。
「分かった、教えてあげる」
私は、広瀬くんが求めている情報を与えた。彼が沙耶を救ってくれれば良い。そんな願いを託して。
そこから、私は夜の街を徘徊した。歩きながら考える。私は哲に何を求めていたのだろうか、と。
そして、初めて彼を見たときの風景を思い出した。小さい声援を受けるステージの上で、スポットライト浴びる哲。どんな気持ちなのだろう。そんな疑問が浮かんだ。
そうだ、あのときの私は、あれだけ求められる人間に求められたら、どれだけ満たされるのだろうか、と想像していたのだ。それは、多くの人に認められたい、という気持ちがあったのだと思う。哲が私のもとに帰ってくるのだとしたら、きっと誰もみたことのない景色が見えるのではないか、と。
しかし、そんなものはなかった。ただ泥の中に沈んで、暗闇の中、もがくだけの日々だったのだから。
それに耐えて、哲と一緒にいても、安らぎは決して手に入ることはないだろう。だとしたら、自然体の私を認めてくれる人と一緒に人生を歩むべきだ。例え、そこに充足感がなかったとしても、歪んでしまった想い出に覚えているよりはマシだ。絶対的に正しいはずだ。
「貴方とは一緒に行けません。もう会うつもりもありません。ただ、本当に困ったことになって、周りに誰も助けてくれる人がいなかったら、連絡してください。さようなら。お元気で」
そんなメッセージを送るかどうか迷っている間に、空は紫色になっていた。朝帰りの人たちが家路に着く姿。私も帰ろう。哲に渡された封筒は、コンビニに設置されたごみ箱に捨てた。
マンションの四階まで上がり、自室のドアの前に立つ。すると、急激に辺りが明るくなったように思えた。どうやら太陽が出てきたらしい。
生きて行こうじゃないか。このドアの向こうにある日常の中で。きっと、その中にだって十分なほどの幸せはある。だから、私はそのドアを開いた。旦那が待っている、その家のドアを。
「ただいま」
返事があるまで、私はしばらく待つのだった。




