彼の本心
妻の様子がおかしいことには、気付いていた。
言葉の節々に棘があったし、どこか遠くを見て、声をかけても反応が遅いことが多々あったからだ。それに、外出が増えた。きっと、僕ではない誰かに、刺激を求めているのだろう。そう思わずには、いられなかった。
彼女を引き止めるために、精一杯の優しさを注いだ。だが、無駄だった。彼女はそんな僕を見て、余計に煙たそうにするのである。
浮気しているだろう、と指摘することは、怖かった。もし、彼女がそれを認めたら、その後はどうなる。泣いて許しを乞うのだろうか。いや、その通りだと開き直って、出て行ってしまう恐れだってある。むしろ、そうなってしまう確率の方が高い気がした。
今更、僕は彼女なしでは生きられない。だけど、彼女は僕の傍では幸せに生きていられないらしかった。そう思うと、逃れられない絶望に呑まれそうになる。だって、彼女が幸せそうに笑ってくれなければ、僕だって幸せにはなれない。
真実を突き詰める必要なんて、ない。それが明るみになってしまったら、お互いが傷付くだけ。彼女が出て行ってしまうかもしれないし、何よりも僕が耐えられなくて、彼女の傍にいられなくなる。でも、僕は彼女の傍にいたい。だから、追及することもないし、粗を探すつもりもなかった。
そのはずなのに、僕は見てしまった。妻がいつものように外出したときのこと。彼女が普段使いしているバッグが放置してあり、そこから妙な封筒が顔を出していた。
見るべきではない。見たところで、誰も得はしない。やめるんだ。全身の細胞が警告を発し、そう訴えかけているのに、右手は勝手に動いて、それを手にしてしまった。
封筒の中に入っていたものは、どこか田舎のマンションの間取りだった。一人で暮らすには少し広すぎるが、二人で住むには家賃が安いと言えるかもしれない。これが、どんな意味を持つものなのか、いくつでも考えられた。きっと、彼女は僕と一緒にいる生活よりも、この紙切れに未来を感じているのだろう。僕は、その封筒をもとに戻し、いつものように彼女の帰りを待つことなく、ベッドに入った。
それは、僕にとって封筒の中を見た、というメッセージだった。しかし、彼女は気付くことなく、次の日も、その次の日も、いつも通りの態度だった。ただ、あの封筒は二度と見ることはない。どこかに隠したのか、常に持ち歩いているのか、そのどちらかではないか。
それからと言うもの、彼女が家を出る度に、もしかしたら今日は帰ってこないのでは、という恐怖に襲われるようになった。彼女が帰ってくると、もちろん安心したが、次の瞬間には不安になる。その日が今日ではなかった、というだけで、明日こそ、彼女はこの生活を捨ててしまうのかもしれない、と。
気のせいか、彼女の持ち物が減っているような気がした。出て行く準備をしている。そう思わずにはいられなかった。
「今日、出掛けるから」
彼女が言った。
「うん」
平然とした顔を作って、何気ない調子で聞いてみた。
「帰りは何時くらいになる?」
すると、彼女は言い淀んで「どうだろう」と答えるのだった。
そうか、今日がその日なのか。僕は覚悟を決めなければならなかった。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
必死になって止めたら、どうなるのだろう。
きっと、強い拒絶があるだけだ。そう思と、いつも通りの言葉をかけるしかなかった。
「うん。じゃあね」
彼女が出て行くと、部屋がいつも以上に静かに思えた。
何かもが空っぽ。そんな感じだ。ただ、どこかで「きっと帰ってくるさ」と思う自分がいた。しかし、時間は残酷なもので、少しずつ着実に過ぎて行く。
日付が変わる時刻。これを超えたら、電車だって止まってしまう。彼女が帰ってこない、という事実を認めなければならない。そして、時計の針は何事もなかったかのように、それを過ぎてしまった。
五分、十分、三十分…一時間経っても、彼女から連絡すらない。
僕の何がいけなかったのだろう。どんなに考えても、辿り着く答えは一つ。そもそも愛されていなかった、ということだ。ただ、彼女は僕が愛することを許していてくれただけ。彼女にとって愛すべき対象ではないのだ。
朝方と言えるような時間になって、これから自分がどう生きるべきか考えた。そして、今までがどれだけ幸せなことだったのか思い返して、泣いた。
それは、幻のようなものだったのだ、と思うしかない。一瞬掴んだ奇跡のような幸せ。どれだけ強く握りしめてたとしても、幻であれば消えてしまうことは、当然のことだ。でも、自分にとっては、それがすべてだった。何もなかった自分の人生。やっと、何かを手に入れた、と思えたのは、彼女という存在だった。それを失ったのだ。僕の残りの人生、何もなくなってしまった。
カーテンから、僅かに光が射し込んだ。どうやら、夜が終わりつつあるらしい。眠っていると、夜はとても長いように思えるが、案外そうでもないみたいだ。この程度しか睡眠を取っていないのだとしたら、日頃からどれだけ早く眠りに付いても疲れが取れないのもうなずける気がする。
暖房を切って、ベランダに出た。冬の朝らしい、身が縮こまるような寒さは、泣き疲れた体をさらに痛めつけるような厳しさがあった。どれだけ寒い日でも、彼女がいれば、平気だった。これから、何度このような寒さを味わうのだろうか。次は耐えられないかもしれない。
そうだ。これからも、色々なことがあるのだ。それに、僕は一人で耐えなければならない。何の価値もなくなってしまった自分の人生。それを抱えながら、不安に耐え、困難に立ち向かうことは、できない気がした。
日が昇ったら、ここから飛び降りよう。ここは四階。下はアスファルトだから、間違って命が助かるようなことはないはずだ。紫色の空は、滅多に見ることがないからか、本当に神秘的だった。空が少しずつ青に変化する。死んでしまったら、このような美しい光景を見る機会も失われるのか。いや、死んだらそれを惜しむような気持ちもなくなる。死ぬ、ということは、そういうことだ。
太陽が昇る瞬間を見逃すまいと、目を凝らす。視界に、たくさんの建造物が入った。それは、一軒家だったりマンションだったり、さまざまだけれど、そこに人がいるということは、多くの場合、確かなことだ。
彼らはどのような気持ちで、日々を過ごしているのだろう。僕よりも、つらい状況を生きている人も、たくさんいるはず。それでも、歯を食い縛って、一歩一歩前に進もうと、朝になれば目を覚ますのだ。それを死ぬまで繰り返す。本当に大変なことだ。
光が人々の目覚めを知らせる。それは人々の生活に、恵みを与えるかのようだが、苦しみの始まりであるようにも見えた。いや、今日ばかりは、僕に限っては、苦しみの終わりだ。幸せを求め続けても、結局のところ、救いがない人生。それを終らせるための光。ベランダの手摺を強く握り、両腕で自らの体重を支えた。
もし、人生をやり直せるとしたら、今度は上手く行きますように。




