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もしかしたら、と想像していた未来

哲から連絡があるかもしれない。電話が鳴ることを待つ日々が続いた。

そして、一ヵ月もしないうちに、哲から電話があった。しかも、旦那がいない時間を狙ったかのようなタイミングで。


「最後に、会いたい」

「最後って、どういうこと?」

「田舎に帰ろうと思うんだ。だから、最後に…」


何て卑怯な言葉なのだろう。哲と会わなかった期間、再会することすら意識していなかったのに、最後と言われるだけで、異様に名残惜しい感覚に襲われた。もう二度と会えないのかもしれない。そう思うと、会わなければ、という気持ちが、殆ど使命感のように湧いてきた。


そしたら、殆ど体が勝手に動いてしまった。一つ動作を重ねる度に、ここでやめておこう、と頭の中で私が言う。それなのに、体は着実に哲へ会うために動いてしまう。


気付いたら、ホテルにいて哲が横で微笑んでいた。そして、寂しそうに、甘えるように言うのだ。

「やっぱり、離れたくない」

私だってそうだ。やっと会えた。やっと、欲しかったものに触れられた。それなのに、これが最後なんて。


「行かないでよ、どこにも」


私の呟きに、哲はこちらを暫く見つめてから、子供のような笑顔を見せた。


「これからも、美和が会ってくれるなら、行かない」

「……会っても、いいよ」


それから、私たちは二週に一度会って、お互いの寂しさを慰め合うようになっていた。旦那への罪悪感はなかった。なぜなら、私は哲と一緒にいる時間こそ、正しい自分でいられる、と思っていたからだ。ただ、私は哲に会っても、素っ気ない態度で接した。

それは、些細な抵抗のつもりだったが、あまり意味はなかった。顔を合わせて、いつものように微笑まれるだけで、我慢していたお菓子を差し出された子供のように、単純な喜びで心は溢れてしまうのだから。


密かな幸福が私を満たす。何もなくて、つまらない人生のまま終わって行く。最近はそんなことを考えていたのに、哲と再会しただけで、こんなに違うものなのか。


どうして広瀬くんと付き合わないの、と沙耶に聞いたことを思い出す。

「そういうのじゃないって」

彼女はそんなことを言って笑った。あのときは、意味が分からなかった。理解できない関係に、内心では苛立ってすらいた。でも、沙耶よりも、その関係を理解したつもりで、今の旦那と結婚したのだ。それなのに、今は沙耶の言っていた「そういうのじゃない」が痛いほど理解できた。やっぱり、彼女が正しかったのだ。沙耶の気持ちをもっと理解して、約束を守り続ければ、こんな想いをすることもなかったのに。




しかし、罪悪感が出てきたのは、哲の行動に不審なところが見られるようになってからだ。少しずつ会うペースが落ちただけでなく、約束があっても突然キャンセルされることが増え出したのだ。だからといって、私はどうこう言える立場ではない。束縛し合うような関係ではないのだから。


哲が思い通りにならないと、私は昔と同じパターンにはまっていった。復縁して、浮気されて、喧嘩する。別れたと思えば、またあいつにとって都合の良いタイミングで戻ってしまうのだ。馬鹿な自分。


落ち込んで口数が減ると、旦那が気遣ってくれた。

「今日は美味しいものでも食べようよ」

「この前、美和ちゃんが欲しいって言ってた服、実は明日届くんだ」

「今日はゆっくり眠っていなよ。後は僕が全部やるからさ」

彼は私の気分が良くなるよう、必死だった。ただ、そんな顔は決して見せず、いつも笑顔で私を元気付けようとするのだ。


そんな優しい旦那も、限界がやってきた。

「美和ちゃんは何が気に入らないの?」

一週間のうち殆どを憂鬱気にしている私を見て、抑えた声で言うのだった。

「別に、気に入らないことなんて、ないよ」


嘘だ。哲が他の女と会っている気がして、苛立っている。あの男を思う通りにしたい。自分だけのものにしたい。それが上手く行かなくて、その邪魔をしているのは旦那だとすら思っている。


「僕は美和ちゃんのために、人生のすべてを捧げているつもりだよ。時間もお金も、自分の意思だって君にあげたつもりだ。だけど、いつも不満だって顔をしている。僕の何がいけないか、教えてくれよ」

「何も悪くない」


「じゃあ、僕の存在が鬱陶しい?」

「そうじゃない。貴方は、悪くないってば」

「なら、誰が悪いの?」


私は顔を青くして黙り込む。他の男に苛立っているのだろう、と指摘されたような気がしたからだ。でも、そういう意味ではなかったらしい。


「美和ちゃんは何が不満なの? 仕事が上手く行ってないの? 何かあるなら、教えて欲しいよ」

「本当に、何もないってば。大丈夫だから、少しほっといて」


そう言って、私は次の日になっても口を利かなかった。旦那は自分が悪かった、と謝って、機嫌を直すどころが許しを乞うのだが、私は黙ったままだった。しかし、実際は背中を這うような罪悪感に、吐き気を覚えていた。このままでは、おかしくなる。元の生活に戻るとしたら、たぶん今が最後のチャンスだ。それなのに、私は何も決断できなかった。




その日、哲は目の周りを腫らしていた。それは、寝不足とか物貰いとか、そういうものではない、と一目で分かった。


何があったのかと尋ねる私に、哲は笑って「ちょっと」と言うだけで、何があったのかは教えてくれなかった。たぶん、誰かに殴られたのではないか。


「俺、やっぱり田舎に引っ越すことにした」

唐突に、そんなことを言い出した。

「実家に帰るの…?」


哲は首を横に振った。哲が口にした地名は、私が知る限り、彼にとって縁もゆかりもない場所だった。


「……どうして、そんな場所に?」

私の質問に、哲は照れ臭そうな笑顔を見せながら言った。

「ここではないどこかに、行きたくなったんだ」


それを聞いたとき、どこかに違和感があった。

「ここではない、どこか?」

違和感の正体も、哲の目的も理解できず、説明を求めて質問を重ねた。すると、哲は信じられないことを言い放ったのだ。


「そうしないと、俺は壊れてしまう」

違和感の正体に気付く。その言葉は、過去の記憶と合致するものがあった。青ざめる私に、哲は続ける。

「だけど、何もかも捨ててどこか消えることは、凄い勇気が必要なことなんだ」


これは、新条玲奈の言葉だ。私が恐れていた、得体の知れない影の正体。その尻尾を意図せずに掴んでしまった気がした。哲は、新条玲奈よりも、私を選んだはず。そう思っていた。だけど、無意識なのか、哲は新条玲奈の言葉を引用していた。きっと、彼はあの女に何かを刻まれてしまったのだ。それは、私こそがやるべきことなのに。


そんな私の気持ちを理解してないだろう哲は、一枚の封筒を取り出すと、私に差し出した。

「向こうで住む家、もう決まっているんだ」

戸惑う私に、哲は微笑む。


「少し狭いけれど、二人だけなら十分だと思う。美和に、今の生活があることは、十分に理解しているつもりだけど、時間をかけて一緒になれたら、って思っている。だから、一緒に行かないか? 美和が一緒に行ってくれたら、俺は勇気を出せる気がするんだ」

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