本当の幸せは
私の結婚生活は、一年目まで理想と言えるような時間だった。
旦那は結婚したからと言って変わることなく、私に優しさを見せ、経済的な安定も保ってくれた。彼が安心できる時間を守ってくれる。それは、きっと他人からしてみれば、幸せに見えるものだっただろう。実際に、周りの人間からは旦那の優しさについて、羨むような言葉をもらえることが多かった。
そのはずが、私は祝福される度に、得体の知れない違和感が胸の中を通り過ぎるのだった。もし、この生活が壊れるとしたら、この違和感が形となったときだろう。そんな日がいつか来るのかもしれない。あるはずもない日を想像しては、一人恐れたのだった。
そんな違和感の形は、言うまでもなく、哲という人間の姿で現れた。隕石が頭上に落ちる確率。それくらい、あいつと再会することはないだろう、と思っていた。
でも、そんなことを考えるということは、どこかでその可能性を信じていた、ということだ。哲がどう思っていたのかは知らないが、そんな想いが私たちを引き合わせてしまったのかもしれない。
その頃、私は旦那と出会った職場を辞めて、週に数回のパートで過ごしていた。そのため、夕方以降は夕食の準備をしながら、旦那の帰りを待つことが殆ど。その日も、私の料理なら何でも好きだ、という旦那の言葉に気持ちを重くしながら、今夜の献立を考えていた。
いつもなら、旦那から「帰るよ」という連絡がある時刻に、知らない番号から着信があった。もしかして、旦那に何かがあって、誰かが電話をかけてきたのかもしれない。私は恐る恐る電話に出てみた。それが、哲だと思いもせずに。
「久しぶり、帰ってきたよ」
その声が哲のものであると理解するまで、数秒かかった。
「……どういうこと?」
私は混乱しつつ、やっと出てきた言葉がそれだった。色々な意味を持った「どういうこと?」だったわけだが、哲は当然のように答える。
「あれ、言ってなかったっけ。ずっと海外に行ってたんだよ。それで、昨日やっと帰ってこれたから、まずは美和に会おうと思ってさ」
海外に? やっと帰ってきたとは、どれだけの期間滞在していたのだろうか。とにかく、いくつも驚きで混乱していたが、まずは私に会う、という言葉にばかり意識が行ってしまった。そうか、やはり私を選んだのか、と。
「今から出てこれない? 一緒にご飯でもどうかな、って」
平然と言ってくれる。哲は私が結婚したことも知らないどころか、想定すらしていないらしい。
「無理に決まっているでしょ」
冷たく突き放してやった。それなのに、私は三十分後には家を出ていた。電車に乗りながら、旦那から「今から帰るよ」というメッセージを確認し、何と返すべきか考える。友人から泣きながら電話があったから、駆けつけてくる。そんなところだろう。
とにかく、これはあの男と関係を断ち切るためのものだ。会ったら言ってやろう。私は結婚した。散々私を振り回したくせいに、今更何のつもりだ。もう二度と関わらないでくれ、と。
「久しぶりだね」
冬の空気の中、哲が私に微笑んだ。何年ぶりだろうか。彼の表情は、別の物になっていた。結婚したことを言い出せず、一時間が経過した。きっと哲は海外で体験したことを延々と話すのだろう、と思っていたが、私との想い出ばかりを話した。懐かしく、愛おしい日々。今思えば、あのときこそ、私の人生の中で、最も充実していた時期だったのではないか。
「なんか、雰囲気変わったね」
言うべきことがあるはずなのに、自然とそんなことを口にしてしまった。哲は答える。
「世界を見て、少し変われたのかもしれない。何が大事なのか、それが分かった気がするんだ」
「大事なことって?」
好奇心と言うよりも、流れで聞いただけなのに、私は運命に仕掛けられた罠にはまっていた。彼は何も言わず、ただ私を見つめる。動揺しながら、目を逸らすが、胸が高鳴っていることに気付かれてしまった。
食事を終え、駅まで歩く。二人で並んでいる空気が、名残惜しかった。そう思った瞬間、哲が立ち止まった。
「もう少し…一緒にいられない?」
「もう少しって…どれくらい?」
「終電が終わって、美和が帰れなくなるまで」
そうだ、私はこの日を待っていた。もう十年近い年月、この人が私の価値を理解して、求める瞬間を。だけど…。
「…私、結婚したんだ」
だけど、言わなければならない。だって、私は今、幸せなんだから。これ以上、哲と一緒にいたら、それを壊してしまうことになる。それは、あまりに愚かなことではないか。
哲がどんな顔をしているのか、怖くて確認できなかった。でも、私は現実を受け止めなければらない。顔を上げると、それを確認してみると、彼は幼い子供のような驚きの表情を浮かべていた。それはゆっくりと笑顔を変わり、震えた声で言う。
「そうだったんだ」
だが、その笑顔は歪んで、瞳から涙が零れ出す。そして、覚束ない足取りで道の端まで寄ると、手の平で顔を覆って、動かなくなってしまった。私はどうすれば良いのか分からなくて、彼の背中をさすっては「ごめんね」と繰り返すしかなかった。十分程度、そうしていたかもしれない。どうにか落ち着いたのか、哲が口を開いた。
「ごめん。俺、勝手に…」
言葉を詰まらせる。ただ、何となく言いたいことは分かった。
「一年、遅いよ。一年、早く帰ってきてくれれば、私は哲のために、何だって捨てられたのに」
今の私には捨てられない生活がある。私だって、それを守らなければならない。でも、それを口にしてしまうと、なぜか涙が止まらなくなってしまった。どういう感情から涙が出ているのか、考えることが怖かった。そんな私を、哲が抱きしめる。
そのとき、私の中にある何かが、確かに満たされていった。切り捨てたはずの感情。それはまだ残っていたらしい。自分の中に、あったことすら忘れていたはずが。こんな感情、持ち続けていても、不幸になると、理解したはずなのに。
こんなことなら、沙耶との約束を守れば良かった。そうすれば、何も失わなかったかもしれない。たくさんの大切なものを切り捨てなければ、手に入らなかったと思っていた幸福は、ただ待っていれば、こうして帰ってきたのかもしれないのに。
「哲のせいだよ」
「うん、ごめん…」
「哲のせいだ」
「本当に、ごめん」
一方的に責める私に謝る哲。昔なら、こんな風に謝ってくれること、なかったじゃないか。
その日、私たちは何もなく、終電間際に帰った。
「友達、大丈夫だった?」
旦那は私を笑顔で迎える。そして、泣き腫らした私の顔に気付いた。
「美和ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。友達が泣き出しちゃって、私もつられてさ」
「そうだったんだ。友達、すっきりした気持ちになってくれたらいいね」
「うん」
旦那が純真な笑顔を見せたとき、少しの罪悪感があったが、それよりも遥かに大きな苛立ちがあった。
それから、私はすぐに寝た。明日も旦那は朝から仕事だし、何よりも早く眠って、今日のことを忘れたかった。
それなのに、隣で眠る旦那の息遣いが憎らしくて、少しも眠れなった。私はどうしてこの人と結婚してしまったのだろう。寝惚けながら、私の腰に腕を回そうとする旦那を押し退ける。哲に抱きしめられたときのような気持ちを、この人が与えてくれた瞬間なんて、一度たりともない。ただ、この人の愛を受け入れてきただけだ。
それは、正しいことなのだろうか。私にとって安心を与えてくれる、帰るべき場所のはずが、一晩にして怒りと後悔が渦巻く空間になっていた。




