幸せのために切り捨てるもの
旦那となる人は、職場で出会った。転職してきた彼が、私のいる部署に配属されたのである。年下ということもあったせいか、最初は頼りのなく見えたし、センスの悪さが滲み出ているように見えた。きっと、休みの日は家の中で暗い趣味に浸っているのだろう、と。
つまり、一目見たときから、ナシのフォルダに移動させていたのだ。
それなのに、一緒に仕事をしてみると、その評価は変わって行った。彼はすぐに仕事を覚えると、ちょうど手の届かないようなところをフォローしてくれるし、何事にもマメに取り組んでくれる。私は彼を信頼して、仕事のことだけでなく、プライベートのことまで相談するようになっていた。
何よりも、私の話を辛抱強く、笑顔で聞いてくれることが、私に癒しを与えた。哲と会話をしても、すぐ喧嘩になったし、途中で明らかに「その話はまだ続くのか」と言いたげな顔をされる。でも、彼はそんなことは一切ない。いつだって、優し気に私を見ていてくれるのだ。
それは、沙耶と広瀬くんの関係を思い出させた。愛されている、という確信を得られる視線。それは性的な欲求から来るものではなく、私の人格を愛してくれているのだ、と思わせてくれた。その視線がどれだけ人を安心させるのか、初めて理解できたのである。
「美和子さんのこと、好きになってしまいました」
これは、もしかして…。そう思っていた頃に、彼からその言葉をかけられた。
「好きです。僕と付き合ってください」
彼はそれを言葉にしてから、情熱的なアプローチを続けた。それは、今まで声をかけてきた、どんな男たちよりも、情熱的で愛を実感させる。見た目の印象に反しているせいもあって、それは私の全身に響き渡るかのようだった。
「付き合ってみようか」
それほど、長い時間をおかず、私は彼を受け入れることにした。少しの期間だけ、交際してみよう。ちょっとだけ、彼から潤いを得れば、すぐに飽きるはず。そしたら、適当な理由を付けて別れれば良い。きっと、それと同じタイミングで、哲からも連絡があるのではないか。
その程度に考えていたはずが、彼のいる生活は想った以上に楽だった。楽だったし、私の心に安定をもたらした。
今まで、私は何に耐えていたのだろうか。
何と戦っていたのだろうか。
何を意地張っていたのだろうか。
これだけ簡単に、幸せで平穏な生活は手に入るのもなのか。
楽になると同時に、恐怖もあった。どこか、自分が腑抜けになっていくような感覚。何かを失ってしまう気がした。それに約束がある。どんなに楽だったとしても、彼とは別れなければならない。
「美和子さんと一緒にいると、僕は本当に幸せを感じる」
だが、彼がそんなことを言いながら見せる笑顔を目にしてしまうと、とても別れたいとは言えなかった。いや、私自身も確かな幸福を感じ、それを捨てることが怖かったのである。
「結婚してください」
「……はい。よろしくお願いします」
彼の申し出を断れなかった。これは間違ったことだと、分かっているはずなのに。だって、私は哲と結婚するはずなのだから。どんな苦難が私の前に立ちはだかったとしても、それを乗り越え、約束の場所まで辿り着くはずだった。それが、楽になりたいと言う、ずるい気持ちで切り捨てて良いのだろうか。
でも、私は気付いてしまった。私はただ約束に固執しているだけだ。そこに哲への感情は、愛情はない。だとすれば、私にとっての幸せの形は、想い出の亡霊と言えるような男を待ち続けることではなく、今目の前で安心を与えてくれる、この人ではないか。
私は彼の申し出を受けてから、たった数日でこの結論に至った。彼と結婚するという選択に、自分を納得させていったのだ。
ただ、私にとって結婚するという決断は、一人だけの問題ではない。親友であり、お互いの運命を縛り合う約束をした、沙耶にとっても重要な問題なのだ。伝えなければならない。そして、沙耶にも教えてあげよう。幸福は、少し肩の力を抜くだけで、手に入るのだ、と。
「私、会社の同僚と結婚することになった」
「……え?」
しかし、沙耶にそれを伝えたとき、その表情に祝福の色は少しもなかった。
「哲くんは?」
約束はどうしたのだ、と彼女は言ったのだ。この瞬間まで、彼女は何だかんだ、私の幸福を祝ってくれるだろう、と期待していた、と気付く。でも、それは自分の浅はかな思い込みだった。私はただ約束を破ったのではない。彼女を裏切ったのだから。
それでも、もう後戻りはできない。首を横に振って質問に答えると、沙耶は口を一文字に結び、視線を落とした。降っていた雨の音が、異様に大きく感じた。私が思っていた以上に、彼女は約束を大切にしていてくれた。それは嬉しいことではあったが、同時に間違ったことだとも思った。もう苦しむ必要なんて、ない。沙耶にも気付いて欲しい、と思ってしまった。
「自由になれば凄く楽になれるよ。だから、沙耶も意地張らないで…」
「それ以上、言わないで」
顔を上げた沙耶は、敵意のこもった表情で私を見ていた。私は言葉を探すが、正しさはどこにもなかった。そうしている間に、沙耶は私に背を向け、歩き出してしまう。私は慌てて引き止めた。
「ねぇ、また会えるよね?」
沙耶は振り返った。ほっとしたのは一瞬。彼女の目は、やはり敵意で溢れていた。
「もう会えない。たぶん、会いたいなんて思えない」
私はその言葉に愕然としながら、幸せの代償を受け止めなけえればならない、と自分に言い聞かせた。
「うん、そうだよね。……私、引っ越すと思う。だから、この辺りで偶然会うなんてこともない。再会することも、ないと思う」
「そうだとしたら、有り難い」
沙耶は短く言って、背を向けた。謝らなくては。
「約束、破ってごめんね。でも、沙耶もきっと…」
「良いよ」
沙耶はもう一度だけ振り返って、私を睨み付ける。
「裏切った人の言葉なんて、聞きたくない」
そして、今度こそ背を向けて歩き出した。私は遠ざかる彼女の背に、半分叫ぶように、声をかけた。
「最後に少しだけ聞いてほしい。本当に優しい人に出会えたら、その人の気持ちを素直に受け止めてみて。そうすれば、今よりずっと幸せになれるはず。私は、そうだったよ」
私の言葉が、沙耶に届いていたのかは分からない。彼女は雨の中、傘をさすことなく、遠くへ行ってしまった。雨によって冷たくなった気温は私の胸に染みて行く。それでも、家に帰ると温かい空間があった。
「お友達、どうだった?」
事情を知らない彼の笑顔は、とにかく優しかった。私は「楽しかったよ」と答えるが、それ以上は何も語ることはできなかった。彼はそれについて追及することはなかったし、夜は優しく私を包み込んでくれた。
親友を失った。でも、その代わりに私は安らげる居場所を手に入れた。温かくて、優しい居場所。だから、大丈夫。きっと大丈夫。そう信じていられたのは、思ったよりも短かった。




