唐突に同棲を迫る女
「広瀬くんって良い人そうだよね」
僕と言う人間を表すため、よく使われる言葉だ。
しかし、実際に僕が優しいかどうか、という点については、よくわらない。
人並みに誰かを妬んだり、恨んだり、失敗を笑ったり、気持ち悪いやつだと嫌悪感を抱くことだってある。もちろん、人並みに誰かを助けたいと思ったり、同情したり、一緒に成功を喜んだり、知らない人が目の前で何かを落としたりしたら拾ってあげよう、とも思う。
つまりは普通の人間だ。良い人そう、という表現はそういう誉めるべき点のない人間を評価する際に使う、便利な言葉なのだろう、と僕は思っている。
とにかく、僕が言いたいことは、自分がとても平凡でつまらない人間だということだ。
これは決して平凡を装うことで、自分を正しく評価できる、俯瞰的な物の見方ができる、というアピールではない。本当に普通で、つまらない人生。学生時代に打ち込んだことは何か、と聞かれれば特に出てこないし、今は将来の目標があるのか、と聞かれれば、やはり特に出てこない。休日は何をして過ごすのか。趣味は何か。何を楽しみに生きているのか。そういった質問に対し、五分でも誰かを楽しませる話ができたのなら、と思うほどだ。
そして、もしも恋愛について聞かれたりしたら、僕は引きつった不気味な笑みを浮かべ、ただ黙り込んで、話し相手を不快にさせてしまうことだろう。それだけ、人生を楽しむことが下手な人間なのだ。
「同棲したいんだけど」
それなのに、僕は初恋の人から同棲を提案されていた。初恋は実らない、という言葉は多くの人が聞くことがあるだろう。これは冴えない人生を送る人間の話だけでなく、学生時代から青春を存分に楽しんだ、極一部の人間だって、初恋は苦い想い出として記憶しているはずだ。それなのに、この僕が、初恋の人から、同棲を持ちかけられている。季節は冬、日付が変わろうとする時刻のことである。
「ねぇ、聞いているの?」
あまりの衝撃に、自室の玄関のドアを開けたまま固まる僕に、彼女は怪訝そうに眉を潜めた。長い黒髪は大人しそうな印象を与えるが、その大きな目はどこか攻撃的。僕の初恋の人は変わっていなかった。いや、どこか不満気で、荒れているように見えるけれど…。
「あ、えっと…」
僕は吹っ飛んでしまった思考をたぐり寄せながら、目の前で起こっていること、見聞きしたことを、取り敢えず一から整理しようと思った。
「あの、沙耶先輩…ですよね?」
「そうだよ。久しぶり」
「お久しぶりです。五年ぶり…くらいですよね」
「そうだったかも」
初恋の人…沙耶先輩は五年という歳月を思わせない態度で答えた。僕たちは、本当に五年ぶりに顔を合わせた。この五年と言う歳月、連絡を取り合ってもいなかった。電話一本、メッセージ一通すらも。
「これ、手土産。寒いから、入って良い?」
僕の返事を聞かず、先輩は玄関の中へ。僕もその見事なまでに堂々とした強引さに、引き止めることを忘れてしまった。
「へぇ、相変わらず綺麗にしているね」
今日、久々に掃除をして本当に良かった。しかし、そんなことはどうでも良い。あの沙耶先輩と再会したのだ。そして、同棲という言葉が出ていたようだが、先輩が目の前にいることすら非現実的なのに、どうしてそんな話になるのか理解できず、僕は混乱状態だった。
「あの、先輩…どうしたんですか? なぜ僕の家に?」
とにかく冷静に、もう一度状況を確認しようとした。しかし、先輩は手土産として持ってきた、コンビニの袋から缶ビールを取り出し、小気味の良い音を立ててそれを空けると、またも良い音を立てながら飲み始めた。
「あー、上手い」
缶ビールをテーブルに置くと、先輩は一息吐く。僕の初恋の人は、三十路を前にして、何だか少しおっさん臭くなっていた。
「先輩、聞いてます?」
「何?」
気のせいか、先輩はまともに意思の疎通ができていないような気がした。そう言えば、よく見ると先輩の顔は白かった。いや、不健康的に青い。久しぶりで気付かなかったが、たぶん先輩はここに来る前から酒を大量に飲んでいたのだろう。実際、意識してみると、アルコールの匂いが漂っている。
「大丈夫ですか…?」
「何が…?」
何がどうなっているのか、聞きたいのはこっちである。それを堪えて気遣っているつもりなのだが、今の先輩にとって、そんなことはどうでも良いことらしい。僕はテーブルを挟んで、先輩の正面に座った。
「その、同棲が何だとか言ってましたけど」
「あー、うん。今日からお願い」
「そ、そんな急に…?」
先輩はどこか遠くを見るような目で言った。
「家賃払えなくなって、追い出された。全財産もこれで尽きたんだよね」
先輩が指で示したのは、手土産と言って持ってきた、あのコンビニの袋だった。中には缶ビールだけ。
「私の全財産を渡したんだから、断らないでよ」と先輩は言った。
ちなみに僕はお酒を飲めない。特に炭酸が苦手だ。
「でも、どうして僕なんですか?」
そう聞きながらも、何だかんだ嬉しい気持ちがあることを隠しながら聞く。
「だって恋人とか、友達…そうだ、美和子先輩とか」
先輩の親友、美和子先輩。先輩にとって親密度のランキングがあるとしたら、そのトップは彼女のはずだ。そのランキングのどの辺りか分からない僕なんかより、まず頼るべき人だろう。しかし、僕が「美和子先輩」と口にした瞬間、先輩は鋭い目でこちらを一瞥した。その視線にどういう意味が込められているのか、僕が読み取ろうとする前に、それは再び壁の方に向けられてしまった。
「私がいると迷惑? それとも彼女がいるの? だったら、この寒さの中、私は行き場を求めてさまようけど。それとも、広瀬くんは私のこと嫌いなわけ?」
「そんなことありません!」
むしろ、好きです。好きでした。好きだってことを必死に忘れようとしたくらい。やっと、先輩のことを考えて気持ちがぐちゃぐちゃになることも減ってきたのに、どうしてまた現れたんだ、と思っています。そういう意味では、確かに迷惑なわけなのだけれど…。そんな僕の気持ちを知ってか、先輩は言った。
「じゃあ、私のこと好きなの? まだ好きって言える? 絶対、大切にできる?」
問い詰めてくる先輩の目は、どこか鬼気迫るものがあった。急な展開としか言いようがない、この質問に対して、僕は「はい」と答えるつもりではあるが、どこか言わされている感が出てしまう気がした。それでも、こう答えるしかない。
「はい」
先輩が何を考えて、どんな経緯があって、ここにやってきて、こんなことを言っているのか。それはもちろん分からない。だが、先輩の中に強い感情があることは理解できた。僕はそれに応えられるよう、真剣な顔で答えた。それを見た先輩は、呟くように言う。
「……そう」
どこか納得していない。そんな雰囲気があった気がしたけれど、僕の返事は間違っていたのだろうか。だとしたら、何を求められていたのだろう。分からない。だが、先輩はこの件はもう終わった、と言わんばかりに声色を変えた。
「じゃあ、シャワー浴びて良い? あ、歯ブラシないわ。買ってきてもらえる? できれば、ビールも」
先輩はバスルームの方へ向かった。僕は慌ててバスタオルを出し、薄いドア一枚を隔てて聞こえてくる衣擦れの音に、耳をそばだてた。何だろう、このままでは正気を保てなくなる。僕は慌ててコンビニへ歯ブラシとビールを買いに行った。
「一緒に寝てあげる」
今夜は床で雑魚寝することになるだろうと覚悟していたのに、先輩はそんなことを言った。
「は、はい。お願いします」
僕は震えた声で言った。しかし、一瞬遅れて「ここはもう少し遠慮した感じを出すべきだったか」と後悔する。自分の家なのだから、遠慮するというのも変かもしれないが、僕はそういう男ではない、というところを見せるべきだったかもしれない。気付くと、一人で焦る僕を、先輩は感情のない目で見つめていた。次に発せられる言葉は何だろうか。恐怖で口から泡でも出てしまいそうだったが、彼女の反応は呆気ないものだった。
「……うん」
そして、僕たちは一つのベッドで横になった。ただ、二人は端と端に寄り、可能な限り触れ合うまい、という暗黙の了解があった。
僕は緊張で眠れなかったが、先輩は疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた。それを聞きながら、僕は考える。明日、もう少し詳しい事情を聞けるのだろうか、と。
そして、何よりも先輩がなぜ僕を選んだのか、という点が頭の中で高速で移動していた。駆け巡っていた。変な期待をすべきではない。そんな風に抑制しようとしたが、もしかしたら、という気持ちが膨れる勢いは、とても止められるものではなかった。もしかしたら、もしかしたら、僕と先輩はこのまま、そういう関係になるのだろうか。僕の初恋が実る。そんな瞬間が訪れるのだろうか。しかも、こんな唐突に。どんなに止めようとしても、妄想はみるみるうちに膨れて行く。
そんな妄想をどれだけ続けただろうか。僕が一瞬冷静になったタイミングと同時に、先輩から寝言が聞こえてきた。
「なんで新条玲奈なの」
確かにそう聞こえた。それは、学生時代の記憶をいくつか蘇らせた。そうだ、先輩と新条さんは犬猿の仲だった。いや、どちらかと言うと、先輩が新条さんを一方的に嫌悪していた、という方が正しいだろう。
そして、僕は自分が「とんでもない事情」を抱えていることを思い出した。
「そのときは、また連絡するねー」
あの人が甘ったるい喋り方で、そんなことを言ってから、二ヵ月は連絡がない。もう終わった話しなのだろう。そんな風に思っていたが、急に連絡が来るかもしれない、と不安になった。
もし、僕が新条さんと連絡を取り合っていたと知られたら、もし僕と新条さんが恋人同士の真似事をしていると知られたら……。考えれば考えるほど、僕の目は冴えてしまった。部屋に太陽の光が射しこむ頃、僕はやっと微睡み始めた。