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変わらない女心

先輩が大人しく家に戻ってくれたことは不幸中の幸いだった。しかし、帰って数分後のこと。僕の説明に耳を傾けてくれることもなく、先輩は言ったのだ。


「死んでやる」

つまり、ここで僕が語り出した冒頭まで戻るわけだ。

「私とあの女の関係を分かってて、そんな言い訳が通用すると思うな。死ねぇぇぇー!」


最早、自分の身に何があったのか、この状況を避けることはできなかったのだろうか、と思い返している時間はなかった。イチかバチかで、振り下ろされる包丁の刃を、素手で受け止めるしかない。

床を蹴って、先輩の方へ飛びかかりつつ腕を伸ばした。銀色の輝きが先輩の腕に落ちるが、僕は自らの手で、それを遮った。


最初は、手に何かを押し付けられような痛みだった。何だ大したことないじゃないか。そんなことが思えたのは、一瞬のことだ。すぐに血が噴き出して、痛みが増して行く。いや、冷静になれば大した痛みではないのだろうけど、どんどん流れる血を見ると、そんな風には思えなかった。


先輩の悲鳴。彼女は包丁を落とした。僕はそれを回収して、彼女から距離を取る。

「血が、血が出ている!」

先輩は僕の手を見て、少なからず動揺しているようだった。あれだけ怒り狂っていたが、他人を傷付けたと思うと、それどころではないらしい。


「た、タオルで…それより、救急車!」

「大丈夫です、これくらい」


僕はなるべき自分を落ち着かせて言った。

「大丈夫じゃないよ! 止血しないと。でも、どうやって」

そう言いながらも、先輩はタオルを持ってきて、傷口にあてようとした。だけど、僕は手を引いてそれを拒絶するのだった。


「何しているの、いいから手を出しなよ!」

「じゃあ、まずは僕の話を聞いてください」

「話なんて後だよ! まずは手当てをしないと!」


「手当は後で良いです。まず聞いてください」

「分かったから。じゃあ、話を聞きながら手当することにして」

「分かりました」


先輩は僕がタオルで傷口を抑えている間に、コンビニで消毒液や包帯を買ってきてくれた。そして、手当てしながら僕の話を聞いてくれるのだった。


「だから、もし先に先輩と再会していたら、新条先輩の手助けもしませんでしたし、連絡先だって交換しませんでしたよ。……信じてくれますか?」


しかし、手当を終えた先輩は無言を貫き、淡々と眠る準備をして、先にベッドに入ってしまった。異様なまでに強いプレッシャーを放たれ、僕は同じベッドに入ることはできなかった。狭いソファで身を縮め、何とか眠りに付くのを待つが、簡単なことではなかった。


それからも、先輩の無視は続いた。僕は何とか彼女の機嫌を直してもらえないか、と思案した。思い付いたことは、片っ端から試してみたが、どれも効果はなく、僕の気持ちは落ち込むばかりだった。

しかし、ある日の仕事帰りに僕はあるものを見た。駅の壁一面を使った巨大広告。それは有名な芸術家の展示会が開催される、というものだった。僕はそれを見て、思わず足を止め、暫く足を止めた。


「これだ」と心の中で呟く。


真っ直ぐ変えるつもりだったが、踵を返し、画材を買い求め、街を歩いた。必要なものを揃えると、すぐに帰り、部屋の隅で作業に取り掛かる。何度か先輩の視線を感じたが、無視を続けている手前、何をしているのか、と聞いてくることはなかった。

それから、僕は数日かけて、ひっそりと部屋の隅でそれを描いた。絵を描くことはもちろんだが、これだけ一つのことに集中したことは、いつが最後のことだろう。これだけの情熱を持っている自分に少し驚いた。また、僕が黙々と何かしらに取り組んでいることに対し、無視を続けられる先輩にも少しばかり驚かされた。


何はともあれ、ついにその絵を完成させると、もちろん真っ先に先輩に見せた。

「先輩、見てください。これ、覚えてますか?」

それは、僕と先輩が出会うきっかけとなった、あの絵である。本物のレベルを再現することは難しいことだが、それなりのものができた、と自負できる大作だ。あのときの気持ちを思い出して欲しい、というわけではないが、僕なりの先輩に対する熱意を、心を込めて表現した。きっと、これなら…と思ったが、先輩はそのを絵を見て、少し眉を動かしたが、すぐに目を逸らしてしまった。


この絵が完成すれば、僕の想いを伝える、渾身の一撃になるだろう、と確信していただけに、先輩の反応はショックでたまらなかった。




しかし、それから少しずつ先輩の態度が軟化していった。僕が帰ってくるまで、夕飯を準備して待っていてくれることもあれば、僕がテレビを付けると一緒にそれを見てくれることもあったのだ。


ある日、仕事から帰ってきて、部屋のドアを開ける前に空を見上げてみると、月がいつもより大きく、強く輝いていたので、それを先輩に教えてあげたいと思った。


「今日は月が綺麗ですよ」


そう伝えると、先輩は黙ったまま靴を履いて、僕の隣で月を見上げた。だが、変わらず無言だったので、やや居心地の悪い時間だった。そろそろ「入りましょうか」と声をかけようと思ったが、突然先輩が口を開いた。


「色々、考えた」

「……はい」

「正直言うと、一瞬だけ、これを口実に出て行ってやろうと思った。でも、出て行ったら自分が馬鹿なことするだろうなって分かって、やめた」


馬鹿なこと。それが何なのか、僕は察してしまった。僕と先輩の結びつきは、まだまだ弱いものなのだ。肩を落とす僕に気付くことなく、先輩は続ける。


「広瀬くんが言っていたこと、信じたいと思う。信じるけど、やっぱり暫くは普通にできない。まだ広瀬くんのこと、無視することは続ける。やっぱり、ムカついて、仕方なかったから」

「分かりました。本当に、ごめんなさい…」


謝るしかない。あのとき僕は、ちょっとした親切心を働かせたつもりでしかなかったし、状況的に断ることも難しかった。でも、言い訳だ。逆の立場だったら、と考えると、やはり僕は酷く傷付いてしまったことだろう。ただ、こうやって無視し続けてやる、と宣言できるような、上の立場ではいられないだろうけれど…。


先輩は僕の謝罪に何も答えない。無視の期間が再会されたのかと思ったが、彼女はまた口を開いてくれた。


「私、こんな感じで面倒くさい女なんだよ。すぐ怒るし、拗ねるし、振り回す。こんな女と一緒にいたら、絶対に疲れると思う。変に情が湧く前に、別れたら? 今ならまだ、間に合うよ」


先輩の言葉には、どこか自嘲の響きがあるようだったが、余裕も含まれている気がした。それは、言い換えれば安心感を抱いている、ということではないか。だとしたら、僕の自分の役目を果たせつつある、と言えるはず。


「僕は、先輩がどういう人なのか、ずっと前から理解しているつもりです。それでも、できることならずっと一緒にいたいって、思い続けていました。それは、これからも同じです。一緒にいてください」


先輩が横で笑顔を見せた気配があった。

「思ったんだけど」と彼女は言った。

そこには、先輩が今まで僕に向けたことがない感情があった…気がした。


「信じることって、事実がどうとか、今までの行動がどうとか、そういうことは関係ないんだね。今この瞬間、相手のことを信じたいか、信じたくないか、そういう都合の良い気持ちでしかないんだ」

先輩は僕の方を見た。

「たぶん私、今は誰よりも広瀬くんのことを信じたいんだと思う」


微笑む彼女を見て、思わず感極まり、涙が出そうになる。

「先輩……」

だが、先輩は笑顔を消して、急に冷たい表情で言うのだった。


「はい、ここから無視再開だから。話しかけてこないでね」

「そんなこと言わないでくださいよぉ」

「……」


それから、先輩がまともに口を利いてくれるようになるまで、一週間もかかった。




ここで話が終われば、僕の人生第一章は無事にハッピーエンドという形で終えられたのかもしれない。第二章では、先輩と結婚したり、子供が生まれたり、そんな幸せな日々がやってくるかもしれない、と思っていた。しかし、実際はどうだったのか。先輩と過ごした楽しい日々は、数年で終わってしまった。先輩は出て行ってしまったのである。


つまり、僕の人生第一章はバッドエンドで終わってしまった。第二章の序盤は暗くて、救いを求めてさ迷っても、ただ空を掴むだけの虚しい日々が続く。それは本当に、最悪な時期だった。

そんな第二章について、僕は語るつもりはない。もしかしたら、他の誰かが、僕とは別の視点で語ってくれるかもしれない。だとしたら、語り手となる人物にとって、何らかの光があるようなものであってほしい、と切に願うのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 陳腐な言葉でごめんなさい。すごく面白いです。 普通故に、必要とされる。そんな広瀬の独白が、とても丁寧で、けれどわざとらしくない。彼が生きている人生が、純粋な男性目線で語られているのが秀逸…
[良い点] ここまで拝読いたしました。 主人公の素直な語りに引き込まれました。 報われないとわかっていながら想い続ける恋模様がうまく表現されていて共感が持てました。 もつれた恋愛感情でありながら、…
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