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観念する女

「だから、私は死ぬべきだったんだよ!」


先輩は僕の服の裾を握りしめながら、叫ぶように言った。自分には帰る場所がない理由を説明しながら、十秒に一回は、僕の服に顔面をこすりつけた。涙を拭いているらしい。

僕は震える先輩の肩に手を置く。拒絶されるのではないか、と恐る恐る手を伸ばしたが、彼女は否定的な反応は見せなかった。


「もう分かりましたから」

宥めるつもりで言ったが、先輩は僕の胸倉を掴んで、激しく揺すった。

「何が分かったって言うの! 分かってないよね? 分かっているなら、今すぐ私を救ってみせてよ。頭の中、ぐちゃぐちゃでどうにかなりそう。分かっているって言うなら、何とかしてみせてよ!」


僕が黙っていると、先輩は脱力した状態で呟く。


「もう意味が分からない。 あいつのこと、嫌いなはずなのに、どうしてこんなに苦しいの? 私は広瀬くんと一緒にいれば、凄い楽なのに、どうして逃げ出したの?」


たぶん、先輩は僕といても楽なだけで、嬉しいわけでも、幸せなわけでもないのだ。きっと、僕は先輩を救うことはできない。その資格がないのだ。そして、その資格を持った人間は、先輩を救う気はない。どうして先輩は、そんな人間を想い続けているのだろうか。


「先輩が誰を好きであっても、僕は構いません。だから、今日は一緒に帰りましょう」

「……嫌だ」

「どうして?」


「広瀬くんと一緒にいると、自分のこと嫌いになりそうだから!」

「それくらい、好きなんですね…」


俯いていた先輩が僕を睨み付けると、強い力で突き飛ばした。そこには怒りと混乱が混じっていた。さらに、先輩は何度も僕の肩を手の平で叩く。


「私があいつを好きなわけ、ない! 嫌いだ! 殺してやりたい! 嫌い過ぎて、狂いそう!」


先輩から激しい感情をぶつけられ、少しだけ冷静になる。どうして、僕はこんな場所にいるのだろう。明日は月曜日なのに。それは、僕が先輩のことが好きだからだ。なら、どうして僕は先輩のことが好きなんだ。少しも愛してくれないのに。


そんな自問が、何かとつながった気がした。


「先輩は幸せだったころの想い出を忘れられなくて、さらに過去の自分も裏切れない…そういうことなんじゃないんですか?」

先輩は何か思うことがあったのか、息を止めるように押し黙った。

「先輩が今でも大好きで手離せないのは、昔の想い出なんだと思います。かつては、確かにあった美しい感情だけれど、今はもうない。それでも信じ続けたいのに、現状は裏切り続けるから、先輩は混乱して苦しんでいるのではないでしょうか」


先輩の視線が桜の木がある方へ流れた。しかし、夜の闇に包まれた桜は、彼女の目に映ることはない。彼女の瞳が映し出すのは、きっと過去に見た桜だ。それがどれだけ美しいものなのか、想像しながら僕は言った。


「先輩が好きだったもの、大事にしていたものは、もうなくなってしまったんですよ」

「そんなこと…」


先輩は言い掛けたが、また俯いてしまった。もしかしたら、闇夜で見えない桜のように、大事だったものは、今と言う時間の中に見つからなかったのかもしれない。だとしたら、彼女の中で再生された想い出は、いつのものだったのだろうか。


「変わらないものが、あると思った」

先輩は呟くように言う。

「それは、芽生えた瞬間から死ぬまで、ずっとあって、変わらないものだと信じていた。それなのに、ちょっとしたことで、何だって変わってしまう。だから、私はそれが変わらないように、手離すことがないように、必死だった」


当時の彼女は、一心不乱に関係をつなぎとめようとしていた。それは、僕も知っている。そして、それが上手く伝わらなかったことも。先輩は続けた。


「だけど、あいつは違った。私というものは必ずあって、なくならないと思っていたのか、大事にしようと思ってなかった。私と同じようには、思ってくれてなかった」


先輩は何かを諦めるような、呆れるような、深い溜め息を吐いた。


「……でも 、私も、そうだったのかな。大事にできてなかったのかな。やり方、間違っていたのかも。私って、短気なところあるし」


先輩が反省していることがおかしくて、僕は少しだけ笑い、首を横に振った。


「先輩は、優しい人です。だって、自分のことだけじゃなくて、僕のことも考えて苦しんでくれたじゃないですか。普通なら、そんな先輩の優しさに気付いて、大事にしようって思うはずです。だから、先輩に責任はありません」


先輩も少しだけ笑みを浮かべた。


「庇ってくれるんだね」

「ありのままを言っているだけです」


先輩が笑顔を見せてくれたことは、本当に嬉しいことだった。ここ最近、彼女が全く笑わなかった、というわけではない。でも、どこか自分を殺すような笑顔でしかなかったことは分かっていたから、それを見る度にどこか苦々しく思っていたのだ。だが、彼女が今見せた笑顔は、限りなく自然なものだった、と思う。


先輩は両手を天に向けて体を伸ばす。

「何だか疲れちゃった」

そして、踵を返すと僕の方に向いた。


「思い込んだり、意地張ったり、凄く疲れた。誰か優しい人に、思いっ切り甘やかして欲しいかも」

そんなことを言いながら、先輩は僕の目の前まで歩く。立ち止まった先輩に僕は頷いた。

「先輩は少し休んでください。今まで頑張ったんだから、僕が先輩を甘やかします。どこまでも」


このとき、僕は大きな覚悟を抱いた。絶対に、この人を悲しませたりしない、と。それが伝わったのかどうか、先輩は笑顔を見せると、僕の腰に腕を回して、体を寄せてきた。


「じゃあ、今すぐ甘やかしてよ」

僕も同じように彼女の腰に腕を回す。

「はい」


先輩がどんな表情をしていたのかは分からない。ただ、次の言葉は溢れる涙を我慢しているように思えた。

「大切にしてくれるよね?」

僕は答える。


「僕は少しでも先輩と離れたくありません。そのためにも、凄く大切にします」

「嘘じゃない? 裏切らないよね?」


それは念を押すようだった。これまで、彼女がどれだけの不安を抱いていたのか、きっと僕の想像も及ばないものなのだろう。


「裏切りません、絶対に。凄く大切にします。何よりも」

僕は少しだけ強く先輩を抱きしめる。すると、彼女は小さい声で言うのだった。

「分かった。信じる。信じてみる」




ここで話が終わったとしたら、僕の人生第一章は、とても綺麗なハッピーエンドだったはずだ。でも、そんな簡単なことではない。それが人生、というものらしい。僕の幸せな時間は、それほど長いものではなかったのだ。むしろ、このすぐ後に、とんでもないくらい最悪の事態に陥ることになる。


それは、一本の電話が始まりだった。電話を取らなければ良かったのかもしれない。電話を取ったとしても、話を呑まなければ良かったのかもしれない。そもそも、もっと早く先輩に事情やら経緯を話しておけば、変な誤解を生むことはなかった、とも考えられる。


だが、今更何をどう考えても遅いことだ。先輩は包丁を手にして、それを振り上げてしまった。過去の行いについて考えるよりも、それを何とか止めなくてはならない。


とは言うものの、少しだけ考えてしまう。あの電話に出てしまったとしても、僕はすべてを丸く収めるための、正しい行動があったのではないか、と。先輩が振り上げた包丁が、彼女の手に叩きつけるその瞬間まで、もう少しだけ思い返してみようと思う。

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