私の本心
毎年、満開の情報が出たら、次の日曜日は必ず桜を見に行こう。それが約束だった。
時間は決まって昼の十二時。コンビニの裏、川沿いの道にあるベンチ。そこで待ち合わせ。あいつが学生時代に住んでいたアパートのすぐ近くで、桜が良く見える場所を見つけてから、その約束はずっと続いていた。
去年、一昨年も約束は守られた。いがみ合ったり、呆れてしまったり、色々とあっても、結局は約束は守られた。これが守られる限り、私たちはまだつながっている。そうやって確認し合う日が、今年は今日だった。
昼の十二時、あの部屋を出た。もし、あいつが桜の下で待っていたら、私はどうするべきなのだろうか、と不安を抱きながら、電車に乗る。今年は、今年こそは、来ないかもしれない。だって、あいつはまだ新条玲奈を追いかけていたし、私はあいつの人格を強く否定してしまった。あいつが一番言われたくないと思っているだろう言葉で。
「お前に才能なんかねぇよ! いい加減、まともに働けよ、クズ! いくつだと思っているだよ」
そう言われたときの、あいつの目。たぶん、一生忘れない、かもしれない。そのお返しのつもりだったのか、数日後に返ってきた言葉は、私にとって一番言われたくない言葉だった。
「分かってないかもしれないけど、お前より、玲奈ちゃんの方がよっぽど良い女だよ」
あの女が許せなかった。男の庇護欲を刺激して、いつでも楽なポジションに居座っている、あの女が。でも、私はそんな女より下なのだ、と。はっきり言われた。比較されているだけで、吐き気がするほどムカつくのに。
「あっそ。だったら、二度と私の前に現れるな。あの女のところに行けよ。お前みたいなクズ、誰かに受け入れられると思うなよ!」
「お前みたいな、偏見でしかものを見れない女とは違うんだよ、死ね!」
「お前が死ね!」
あいつは、いなくなった。高校のときからの付き合いなのに。
今までだって、喧嘩はあったけれど。
今までだって、何カ月も顔を合わせないことはあったけれど。
今までだって、別の人と付き合う期間はあったけれど。
こんな風に、お互い触れずにいた部分について、罵り合ったのは初めてだった。その瞬間は確かにすっきりした。でも、すぐに後悔はやってきた。これも、何もかも美和子のせいだ。美和子が私を裏切るから…。
そこから、無気力になって仕事もやめてしまった。男も親友も、仕事も失った。そしたら、誰かを好きでいることに、疲れた。
家賃を払えるほどの貯金は、今月で尽きるだろう。そしたら、どうやって生きて行けばいいのか。それを考えながら、今までの人生で一番居心地が良かった時期を思い返した。それは学生時代のこと。私はあいつのことが好きで、不安になったり悩んだり、色々あったけれど、楽しかった。サークルの活動が充実していたし、仕事のストレスもなかった。後は…そうだ、もう一つ何かがあった。
「僕だったら…先輩のこと、もっと大事にできます」
分かった。あの頃は、愛されている自信があった。いつからだろう。それがなくなった。それからは、気付いてしまった。多くの人は、私を愛しているようなことを言って、自分の欲望を満たすために必死なだけなのだ、と。私のことを価値がある一人の人間として見てくれる。
あのときのように、そんな存在がいれば、私は生きて行けるのかもしれない。後何十年もある人生、諦めることなく。それは、自分の手で切り離してしまったものだ。もう一度、手を伸ばしたら…どうなるのだろう。
部屋の片付けを済ませて外に出ると、行く当てもないことに気付く。最悪のとき、助けてくれたのは、広瀬くんだったな、と鍵がかかっていた記憶を呼び起こす。もし、彼に会いに行ったら、手を差し伸べてくれるだろうか。学生時代、美和子と何度か訪ねたことがある、あの部屋。もう何年も前のことだが、場所は覚えている。彼が引っ越していなければ…再び会うこともできるはず。
でも、そんなところに逃げたら、帰ってこられないかもしれない。だったら、素直にあいつに謝って、もう一度やり直すよう、提案すれば良いじゃないか。
……謝る? 私は少しも悪くないのに? そんなこと、絶対にできない。絶対にできない…けど。
そうだ、賭けをしよう。最後の賭けだ。
広瀬くんの家に行ってみて、彼が引っ越していなかったら、あいつのことは忘れる。
広瀬くんが既に引っ越していたら、あいつに謝ってみよう。
初めてだけれど、私は悪くないけれど、謝ってみよう。もし、あいつが私を受け入れないなら…死んでしまえばいい。
半ば投げやりな気持ちで、自暴自棄に、私は広瀬くんが学生時代に住んでいたアパートへ向かう。きっと、広瀬くんは引っ越している。だとしたら、あいつに謝らなくてはならない。それは少しだけ勇気が必要だった。
私は財布の中を確認して、あとどれくらいお金が残っているのか確認した。残り僅かなお金で居酒屋へ。とにかく飲んだ。もう飲めないだろうって思うくらい。この勢いなら謝れるかも。いや、知らない人の家のインターホンを押せるかもしれない。
「あの、沙耶先輩…ですよね?」
それなのに、開いたドアから広瀬くんが顔を出した。あのときから、変わることなく、ここに暮らしていたのだ。呆気にとられた。この人、馬鹿なんじゃないか。そんな風に思った。とにかく、何日か泊めてもらおう。飽きたら、出て行く。仕事を探すか…やる気が出なかったら、死のう。そんなつもりだった。
案外、居心地のいいものだった。一方的に愛を受け取るだけ、という生活は。
多くの人は、見返りを求めた。口では無償の愛だ、みたいなことを言うのだが、何だかんだ見返りを求めてくる。時には、はっきりと言葉にして。時には、態度で表して。それでも、何も返さないでいると、大抵は理解不能な行動に出てくる。発言も暴力的だったり、自己主張が強くなったり。とにかく、相手することが面倒になってしまうのだ。でも、広瀬くんはそういうのがなくて、何だか楽だった。
なんだ、私…他の人と、やっていけるんじゃないの?
少しだけ、そう思った。嫌なこと、全部忘れよう。あいつとの想い出、忘れてしまおう。だから、広瀬くんを連れ回した。動物園。大きな公園や美術館、水族館、ショッピングモールなど。デートスポットと言えるような場所は全部。それは、全部あいつと一緒に行った場所。古い想い出は、新しい想い出で塗りつぶしてしまえば良い。そういうつもりだった。
でも、想い出を作ろうと思えば思うほど、昔が懐かしくなるだけだった。そうか、やっぱり…私はあいつと一緒にいることが楽しかったんだ。
それに気付いてしまうと、私は広瀬くんと一緒にいることが、窮屈で仕方なかった。一緒にいれば、愛情は抱かなくても、愛着は抱くかもしれない。そんな考えもあったが、あるのは同情だけだった。私に気に入られようと必死な彼を見ると、私が落ち込むのだ。
でも、きっとこれが正しい形だ、と思った。誰かを想い続けて、ぐちゃぐちゃになって苦しんで、不安で頭を抱えたり、選択を間違っていなかっただろうか、と自身に問いかけたり。そんなことを繰り返すよりは、自分を愛してくれる人の傍にいて、安心を安定して獲得し続ける。
楽な生活。私は、これを手放すべきではないのだ。そうやって、生きよう。私は家賃の支払い諦め、自分の部屋を引き払ったとき、賭けをしたのではないか。それに負けたのだから、貫くだけのことだ。
「安心してよ。私、広瀬くんのこと、好きだよ」
愛情を受けたのなら、その見返りを。それだけで、きっとバランスは保っていける。その言葉によって、広瀬くんの精神が安定していったことは、目に見えて分かった。
良い彼女になろう。そう思っているのに、私はときどき部屋を抜け出して、あいつのことを考えた。今は仕事もせずに自由で、凄く楽なはずなのに、何でこんなに苦しいのだろう。優しい目で私を見る広瀬くん。私は彼を裏切るかもしれない。いや、きっと裏切るのだ。そればかりは、やってはいけないこと。あいつがやったように、美和子がやったように、人を裏切ることだけは、やってはいけないことなのに。
春がやってきた。広瀬くんが仕事に言っている間、お昼に桜の満開を告げるニュースを聞いた。次の日曜日、行かなくちゃ。それが約束。今年で十年目になる、約束だ。でも、そんな約束…。
そうだ、と私の一番奥にいる私が言う。今度こそ。今度こそ、最後の賭けをしよう。約束の場所である、桜が続く川沿いの道に行く。もし、あいつが約束を守って、あの場所にいたら、私は自分を裏切ることなく、最初の誓いを果たせばいい。あいつと一緒に、最後まで生きる道を、もう一度選ぶのだ。それが、広瀬くんを裏切ることになったとしても…。
到着したのは、昼過ぎ。あいつは、いなかった。穏やかな風に桜が揺れ、舞い落ちる花弁が銀色に輝く水面を流れる。やはり、ここは綺麗だ。これまでの人生で見た、どんな桜よりも。
夕方。少し遅れているだけかもしれない。あいつだって、馬鹿みたいな夢ばかり見ていないで、働いていることだってあるかもしれない。そしたら、夜になるまで待たないと。日が落ちると、街灯もないので、桜は視えなくなってしまうが、約束が守られるかどうかが重要なのだから。
夜。辺りは暗くて、月明かりも桜を照らしてはくれなかった。少し疲れた。
日付が変わった。きっとあいつは終電に乗って、ここに向かっている。時計を確認する度、広瀬くんからの着信が目に入る。気持ちが暗くなるので、電源を切った。そしたら、あいつから連絡があったとしても気付けないことになるが、きっと大丈夫だ。私とあいつは、そんなものだけで繋がっているわけではないのだから。
でも、今は何時だろう。立っているのも、座るのもつらい。存在していることがつらい。
あいつはこない。私は、またも賭けに負けたらしい。それを受け入れなければならないようだ。そう言えば、賭けに負けたとき、どうするんだっけ。広瀬くんのところに、帰るべきだろうか。
いや、私は彼を裏切った。そんなことはできない。彼は私がいなくなった原因を知ることはないのだから、何事もなかったように帰ることもできる。でも、裏切った。私が去ったあと、彼が酷く傷付くと分かっているのに、自分勝手に逃げ出したのだ。
生きる意味を失って、大事にしてくれる人を裏切ってしまった。
そんな私が、こうして息を吸ったり吐いたりしていることは間違いだ。
このまま川に我が身を投げて死んでしまえ。
この世界に居場所なんてないのだから。