初恋の人、包丁を振り上げる
「死んでやる」と沙耶先輩は言った。
「え?」
沙耶先輩の言葉は確かに聞き取れていたが、念のため聞き返した。
それが、僕の聞き違いであると信じたかった。
しかし、先輩はキッチンへ姿を消し、すぐに戻ってきたかと思うと、その白い手には包丁が握られていた。それは自らの切れ味をアピールするように、照明を反射して銀色に輝く。
「お前が私を裏切らないって言ったんだ。絶対に、裏切らないって。だから信じた。時間はかかったけど、最後に信じようって思えた。それなのにこの様だ。もう死ぬしかないだろう、私は!」
先輩は左の手の平をテーブルに乗せると、逆の手に握られたナイフを振り上げる。どうやら左の手首に、ナイフを振り下ろすつもりらしい。
たぶん、そんなやり方では上手く手首なんて切れないのだろうけれど、実際に目の前でそんなことをされたら、慌てずにはいられなかった。
ここは男らしく、圧倒的な腕力で先輩の腕をガシッと掴み、軽く捻ってからナイフを取り上げたら、優しく安心できるような加減で、彼女のことを抱きしめるべきなのだろう。
そうすれば、きっと彼女も僕という人間に頼りがいを感じながら、馬鹿なことをした、と涙を流して、この人と一緒に人生を歩んで行こう、と決意できたかもしれない。
しかし、実際に僕ができたのは、情けなく震えた声で叫ぶことだった。
「待ってー!」
ただ、その情けない叫び声は、意外なことに効果があった。
先輩が高々と振り上げた銀の輝きは、天井に向けられたまま、停止したのである。
だからと言って、彼女の怒りを収める、決定的な言葉を持ち合わせているのか、と言えば、そうではない。次の一手は、なかったのだ。
「なに?」と先輩は僕を睨み付けながら言う。
もしかしたら、先輩も決定的な言葉を待っていたのかもしれない。急かすような目で、僕の言動を促した。
「あの…理由を、経緯を、話させてください」
問答無用にナイフを振り下ろさず、少しでもいいから耳を貸してくれ、と僕は視線にも気持ちを込めて、必死に乞う。
「理由? 経緯?」
先輩は僕の発言が正気なのか確かめるように繰り返した。
話を聞いてくれるなら、誤解は解ける。
僕はそう信じていたが、先輩はそうは思っていないらしい。
「そんなことはどうでも良い。お前があの女…新条玲奈と一緒いたってだけで、私にとっては裏切りなんだよ!」
「待ってください。確かに、僕は新条先輩に会いました。でも、それはあの人に好意を持っているとか、そういうことじゃないんです。事情があったんです。信じてください!」
僕は引き続き潔白を証明するチャンスを求めたが、先輩は考え直してくれるどころか激化していく。
まるで、彼女の中の鬼がゆっくりと人格を支配しているかのようだった。
「私とあの女の関係を分かってて、そんな言い訳が通用すると思うな。死ねぇぇぇー!」
先輩は殆ど叫びに近い声で言い放つと、今度こそナイフを振り下ろした。
死ね、と僕に向かって叫んでいるが、実際に傷付けようとしているのは自分自身の手、という点は意味不明だが、それだけ彼女は昂っているのだ。
こうなったら、もうイチかバチかだ。
僕の腕が切り付けられてしまう恐れはあるが、それでも先輩の手首を掴んで止めるしかない。
僕は先輩に飛びかかるように、思いっ切り床を蹴った。
そのとき、すべての動きがゆっくりに見えて、色々と過去が頭の中を巡った。
走馬燈、というやつだろうか。腕が切られる。それが死と同等の恐怖に感じたのかもしれない。
とにかく、この限りなくスローになった時間の中、どうすればこんな最悪な状況にならなかったのだろうか、と過去を振り返った。この状況を避けるために、考えられる方法はたった一つ。
新条玲奈。
彼女に協力すべきでなかった、ということだ。どんなに甘い声で囁かれても、どんなに必死な顔を見せられても、断固として拒否するべきだった。ただ、あのときの僕にはその選択肢はなかった。だって、僕は沙耶先輩と再会できるなんて、微塵にも思っていなかったのだから。
本当にタイミングが悪かったのだ。でも、本当にどうにかならなかったのだろうか。先輩が振り下ろした包丁が、僕の手を切り付けるその瞬間まで、もう少し考え直してみたいと思う。