九 西四宮(三)
「いいえ。王の命令に背き王宮に忍び込んだのですから、姉が罪人であることはまぎれもない事実。わたくしも一緒におとがめを受けますゆえ、どうぞ獄舎へ入れてくださいませ」
深々と頭を下げる芙蓉の背後で、巽茉梨はぼんやりと蓮花を見つめた。
「獄舎獄舎って、こんなに獄舎に入りたがる人をわたしは初めて見ましたわ」
呆れ返った様子で蓮花が言うと、稜雅も頷いた。
「俺もだ」
「そんなに居心地が良いところなのでしょうか?」
「すくなくとも、巽家よりはましなのだろう」
隼暉の妃だった巽茉梨を取り巻く状況は稜雅の想定外だったらしく、戸惑った表情で巽茉梨を見遣った。
「じゃあ、とりあえずふたりとも獄舎に入れてあげてはどうしょうか。罰のはずの獄舎収容で罪人の希望を叶えてあげる羽目になるというのは妙ではあるけれど」
「病人として施療院に入れるという手もあるが。心を病んでいるように見えるしな」
心ここにあらずといった巽茉梨は、とても数日前まで後宮で妃として傅かれていたとは思えない姿だ。襦裙の汚れだけではなく、後宮を出たのち数日で病的なまでに痩せこけ、正気を失いかけているような様相だ。
それが巽家に戻った際に近所の住人たちから受けた愚弄が原因なのか、廃墟と化した金秋宮での潜伏生活が影響しているのかは不明だ。
「施療院ですか?」
蓮花が頬に手を当てて悩む素振りを見せた時だった。
ぐるぅ、と獣の鳴き声が闇の中から響いた。
衛士たちがぎょっと顔を引きつらせると同時に、躑躅の茂みの陰からのそのそと甯々が出てきた。
「甯々! 良かった! 帰ってきたのね!」
簀の子縁に膝をついて屈み込んだ蓮花が甯々に両手を差し伸べる。
しかし甯々は蓮花のところには戻ろうとせず、巽茉梨に向かって歯茎をむき出しにして唸り続けた。
「甯々、どうしたの?」
巽茉梨に異様な身なりに甯々が反応するとは考えづらく、蓮花はもう一度呼びかけた。
「甯々。こちらにいらっしゃいな」
手招きをして蓮花は甯々を呼ぶが、やはり愛猫は巽茉梨が気になるらしい。
「どうしたの? そのひとに精魅の臭いでもするの? それとも、幽鬼が憑いているのかしら」
まるで巽茉梨の襦裙に木天蓼の匂いが染みついているような軽い口調で、蓮花は甯々に尋ねる。
稜雅は顔を引き締め、衛士たちに視線だけで巽茉梨を取り囲むよう指示を出した。
芙蓉は背後を振り返り、姉の様子を窺う。
ぐるぅ、と喉を鳴らす甯々の牙の間から、涎が垂れて地面を濡らした。
「金秋宮って、精魅や幽鬼がたむろっているって話でしたわよね。もしかして、巽妃は幽鬼にでも気に入られてしまったのかしら」
ふふっと楽しげに蓮花が微笑む。
その姿に、いまなぜ王妃が笑ったのか理解できないし西四宮でたむろするほど精魅や幽鬼がいるなど聞いていない、と衛士たちは心の中で叫んだが、彼らの血の気が引いた顔色は暗がりの中で国王夫妻に気づかれることはなかった。
衛士の中には、かつての巽妃を知る者もいた。前王の寵愛は少ないものの、仙女のように美しいと評判で、彼女が無事に後宮を下がり巽家に帰ったことを喜んでいた。まさか荒廃した西四宮に戻っていたとは、誰も想像だにしていなかった。しかも目の前の巽妃は数日前まえの仙女の面影などかけらもない姿だ。
「もし幽鬼に憑かれているのなら、そのまま王宮から放り出すわけには行きませんわよねね。しかるべき方法で祓ってあげるべきですわ。かといって、いまの状態のまま彼女を内官の宿舎に入れてなにか起きても困りますわよね。もし彼女に精魅が憑いているとしたら、いつのまにか精魅が女官たちをこっそり食べでもしたら一大事ですわ」
うーん、と頬に手を当てて蓮花が考える素振りを見せる。
「そんな恐ろしいことになるのなら、倖和殿内に置いておくことも危ういのではないのか?」
稜雅が不安げに尋ねる。
「でも、いまのところおとなしそうですよ? とりあえず、幽鬼に憑かれているかどうかははっきりしないけれど、もし憑かれていたとしていつ豹変するかはわからないから、芙蓉の希望通り、獄舎の独房に入れて獄卒に見張っておいてもらうのが一番良さそうですね。近々高名な方士に彼女を見てもらって、お祓いが必要かどうか確認してはどうでしょう」
「獄卒たちは幽鬼に対応できるかどうかはわからないぞ?」
獄卒たちは特別な訓練を受けた武人ではない。獄舎で囚人を管理する役目を担った役人だ。そもそも獄舎は幽鬼や精魅に憑かれた者を収監する場所ではないので、幽鬼に憑かれた囚人が暴れた場合にどのように対応するかは獄舎の規則や手引書などがまったくない。
「そこは、臨機応変に頑張ってもらうしかないですわね」
さらりと蓮花は獄卒たちに丸投げした。
「じゃあ、小火騒ぎは落ち着いてきたようですし、わたしはそろそろ寝ることにしますわ」
襦の袖で口元を隠しながら小さくあくびをした蓮花は、「甯々、おいで」と愛猫に声をかけると、ようやく駆け寄ってきた甯々を抱き上げくるりと襦裙の裾を翻しながら部屋へと向かう。
慌てて芹那がさっと部屋の扉を開けた。
「みんな、ご苦労様。おやすみなさい」
ひらひらと片手を振ると、蓮花は微笑んでから部屋の扉を閉めた。
「――――――あ」
ぱたん、と王妃の部屋の扉が閉まったところで、蓮花を見送った稜雅は声を上げた。
衛士や避難してきていた女官、役人たちも心の中で「あ゛っ」と声を上げた。
しかし、王妃の部屋の扉はすでにきっちりと閉め切られており、再び開く気配はない。
芹那も部屋の中に消えており、王妃はそのまま臥所へ直行したのか、耳をすませても部屋の中からは物音ひとつしなかった。
王が王妃の部屋から閉め出された――しかも初夜に。
部屋の前に集まっていた人々の間に気まずい雰囲気が流れた。
王はしばらく口を開けたまま固まった。衆人環視の中でどうすべきか、考えているのだろう。
衛士や女官たちは、黙ってその様子を見守った。
巽妃を獄舎へ連行しようとしていた衛士も、下手に動くことができず、囚人の腕を掴んだまま息をのんでいる。
「――――皆の者、ご苦労だった」
深夜にもかかわらず役目に勤しんだ衛士や女官、役人たちを振り返って労った王は、いささか表情に疲労をにじませながらすごすごと隣にある自室へと向かう。
常に冷静沈着な侍従の周暎吾が、心得た様子で王の部屋の扉を開け、王が中へ入ると静かに扉を閉じる。
それを目撃してしまった人々は、口を固く閉じたまま、業務に戻る者は戻り、宿舎へ戻る者は戻って布団に潜り込んだ。
東の空が藍色からにじむように曙色に染まり始めた頃、ようやく倖和殿は落ち着きを取り戻した。