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五 華燭(二)

 食後にすこし休息したのち、(れん)()は湯殿で湯浴みをした。

 部屋に戻ってくる頃には、(せき)()(ぐう)の軒下の釣り灯籠に明かりが(とも)っていた。

 肌触りの良い絹の寝間着を羽織り、臥所へ向かう。

 香炉からはかすかに甘い薫りの煙がたちのぼっていた。

 ふわぁ、と両手で口元を覆いながら蓮花があくびをかみ殺していると、(きん)()が目をつり上げた。


「蓮花様。まだ眠っては駄目ですよ」

「どうして? もう眠いのだけど」


 窓の外に視線を向けると、夜の帳が下りていることを確認できた。

 釣り灯籠のぼんやりとした明かりが点々と連なり、庭木がかすかな風で揺れている音が響く。

 廊下や庭の各所には衛士がいるはずだが、人の気配らしきものは感じられない。


「駄目です」


 珍しく芹那が強い口調で答える。


「陛下がいらっしゃるまでお待ちください」

(りょう)()がきたら、寝ていいの?」

「あとはご自由にどうぞ。あたしがとやかく言うことではありませんので」


 白湯と果物を運んできた()(よう)()(りん)は顔を引きつらせたが、芹那は平然としていた。


「あの、芹那殿。王妃様はこのあとのことはご存じ――」

「閨でのことですか? 入宮が決まってから準備に忙しく、奥様が蓮花様に細かいことは説明している暇がなかったので、ほぼご存じありません」


 芹那が答えると、芙蓉が続けて尋ねた。


「では、どのくらいはご存じですか?」

「夫婦が臥所を共にする、ということくらいです」

「共に……」

「あとは陛下に丸投げしてしまえ、というのが桓家の総意です」


 芙蓉と佳鈴は絶句した。


「ちなみに、蓮花様は恋物語は読まれたことはなく、軍記物を愛読されています。旦那様も奥様も、恋物語など淑女の毒にしかならない悪書だとおっしゃって蓮花様に読ませなかったので、恋愛などという概念は蓮花様の中にはほぼありません」


 胸を張って芹那が答えたので、芙蓉と佳鈴はそれ以上質問することを止めた。


「芹那。わたしちょっと横になっているから、稜雅がきたら起こして」


 さすがに朝から入宮の準備で忙しく身支度を調え、馬車に揺られて慣れない外出をし、始めての王宮で少なからず緊張をしていた蓮花の眠気は最高潮に達していた。


「え? 待ってください! 蓮花様、いったん眠ったら朝まで起きないじゃないですか!」


 芹那が慌てて止めようとするが、蓮花はすでに頭を枕の上に載せていた。


「おやすみなさい」

「蓮花様ぁ! 今夜は特別にいまからお菓子食べていいですから起きてください!」


 さすがに焦った芹那が絶叫したが、瞼を閉じた蓮花は、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。


     *


 どうしても今日中に片付けなければならない書類だけ署名と御璽を押して(こう)()殿(でん)へ戻ってきた稜雅は、赤鴉宮の廊下を歩きながらいつになくあたりが静まりかえっていることに気づいた。

 いつもは釣り灯籠に点す明かりの数は必要最低限としているが、今夜からは蓮花が赤鴉宮で寝起きすることもあり、すべての釣り灯籠に惜しみなく明かりを点けるよう命じてある。

 数日でなんとか体裁を整えた庭木もよく見えるほど、赤鴉宮は明るい。

 稜雅の姿に気づいた衛士たちが軽く会釈をする。

 常に人に囲まれ、見られている状態が続いている王宮での暮らしは、稜雅にとって窮屈だった。

 反乱軍を指揮している間は、ほとんど毎日野宿をしていたし周囲にはいつも仲間がいたが、息が詰まるようなことはなかった。

 侍従が背後を付いて回ることも慣れることができない。

 自分は空気のようなものだと思ってください、と従僕の(しゅう)(えい)()は言うが、人の気配を空気のように感じることはできなかった。

 自室で寝ていても、扉を挟んで従僕が中の様子を(うかが)っていることがわかった。異変がないか心配してくれていることは理解していたが、どうにも落ち着かない。

 享に(そそのか)されて王になどなるのではなかった、と稜雅は毎日十回は腹の中で愚痴っている。

 とはいえ、一年前に享からの手紙で、蓮花が隼暉の後宮に無理矢理入れられそうだと知ったときの、怒りで全身の血が沸騰しそうだった感覚はいまでも忘れられない。隼暉を倒す以外に蓮花を救う方法はない、という享の一文は、稜雅に行動を起こさせるには十分だった。蓮花を都から攫ってくるだけですむ話なら楽だったが、隼暉は自分に逆らった桓家を許しはしないだろうし、稜雅と蓮花を探し出していたぶることも想像できた。

 結局、稜雅は享の言うなりになって隼暉を倒すしかなかった。

 隼暉を討ったことは後悔していない。彼によって人生を狂わされた者は大勢いたし、稜雅もそのひとりだ。祖父の時代とはまるで違う嵐のような三年間が、隼暉の治世だった。

 もし、祖父があと数年長生きして、稜雅が地方のどこかの君主となり蓮花を娶った後に隼暉の暴政が始まっていれば、稜雅は叔父を討つことなど考えなかったはずだ。


(結局、俺だって身勝手な理由で叔父を手に掛けたのだから、血は争えないということなのだろうな)


 ため息をつきながら足早に廊下を進んだ稜雅は、蓮花の部屋の前で女官ふたりと侍女がうなだれて立っている姿に目を丸くした。

 まるで通夜のような静まりようだ。


「どうした? なにかあったのか?」


 声を掛けると、侍女がぱっと顔を上げた。

 それが芹那という名の桓家から蓮花に付き従ってやってきた侍女であることを稜雅は思い出した。彼が桓家で世話になっていた頃から、蓮花のそばにいた侍女で、当時は侍女というよりも蓮花の遊び相手だった娘だ。


「いえ、それが……その……」


 歯切れ悪く芹那が答える。


「すでに蓮花様はおやすみになっておりまして……陛下がいらっしゃることは伝えてあったのですが」

「なんだ、そうか。今日は一日忙しかったようだから、疲れているのだろう」


 蓮花が体調を崩したのかと心配した稜雅は、ほっと胸を撫で下ろした。


「陛下がいらしたら起こすようにと仰せつかってはいるので、少々お待ちいただけますか」

「別に無理に起こさずとも良い」


 稜雅は慌てて止めようとしたが、芹那は勢いよく頭を下げると早口で告げた。


「一応、起こすように仰せつかっているので起こします! 起こして起きなかったら、起きなかった蓮花様が悪いと思ってください! あと、起きたあとにまた蓮花様がすぐ眠ってしまったら今夜は諦めてください!」


 女官ふたりが「頑張って」となぜか侍女を応援している。

 そこまでして起こさずとも、と稜雅は思ったが、すごすごと隣の自室に向かうのは気が引けたので、仕方なく待つことにした。


(別に、明日も明後日も蓮花はここにいるのだから、初夜だからといって臥所を共にしなくても良いのでは?)


 蓮花が嫌だといえば、稜雅は無理強いするつもりはなかった。


(明日も明後日も、一年後も、十年後も――ここでこうして蓮花と過ごしていられるだろうか)


 ある日突然、骸になって屋敷に帰ってきた父の姿を思い出し、稜雅はじわりと脇に汗がにじむのを感じた。


()()は安全だ。誰も蓮花を害することはない。ずっとこの殿舎に閉じ込めておけば、俺が王でいる限りは誰にも傷つけさせない)


 もし起きなかったらせめて寝顔だけでも見てから部屋に帰ろう、と稜雅は考え直した。

 安らかに眠っている姿を見れば、温かな肌に触れられれば、この沸き上がる不安も抑えられるはずだ。


(大丈夫だ、蓮花は、俺のそばにいる)


 反乱軍の頭領として王都に攻め込んだときはこれほど蓮花の生死を気にすることはなかった。あの当時、もし蓮花が生きていなければ、隼暉を殺して自分も死ねばいいくらいに考えていた。常に死と向き合っていた日常の中では、死に怯えることはなかった。

 両手を強く握りしめ、稜雅は深呼吸をした。


「陛下、お待たせしました! 蓮花様がお目覚めになりました!」


 扉から顔を出した芹那が、早く早くと手招きする。

 すぐに行かないと、また蓮花が眠ってしまうからだろう。

 稜雅は慌てて部屋へと入った。


「あとは陛下の本懐を遂げるなり、お話をするなり、添い寝をするなり、お好きにしてください。こういうことはすべて夫に任せるものだと蓮花様は桓夫人より教わっておりますので!」

「え? それはどういう……」


 芹那に背中を押されながら閨房に転がるようにして入った稜雅は、振り返ると芹那の姿はなく、部屋の扉がぴたりと閉められていることに気づいた。


(――桓夫人、あなた絶対『こういうこと』がどういうことか説明していませんよね!?)


 かつて世話になった桓家の奥方のおっとりした顔を思い浮かべながら、さきほどの不安など吹き飛ぶ勢いで心の中で叫んだ。

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