四十九 後宮(五)
重い頭をなんとか蓮花が上げると、すぐ横に長身の男が立っていた。
「――――甯々?」
朧になりつつあった記憶の中の芹那の父が立っていた。
死んだ当時とほとんど姿は変わらない。
「俺はこっちですよ、お嬢様」
背後でもうひとつ別の男の声が響く。
蓮花は驚きながらなんとか身体を起こして振り返ると、そこにはもうひとり甯々が立っていた。
「そいつは、轟です」
「轟? この人が?」
ひざまずいて手を貸してくれた甯々の腕にしがみつきながら、蓮花は最初に声を出した男を凝視した。
かつて方士をしていた甯々の相棒だという轟は、甯々とよく似た容姿の男だった。
「そっくり……」
「兄弟なんです。轟は俺の弟です」
「きょう、だい、だったの」
そうだったのか、と蓮花は納得した。
「でも、なぜ死んだ轟がここにいるの? それに、甯々だって人の姿をしているのはなぜ?」
「そりゃあ、ここが狭間だからですよ」
甯々は人だった頃と同じ軽い口調で答えた。
「狭間では、人だろうが化け猫だろうが、好きな姿になれます。生きていようが死んでいようが、ここならば動けます。まさかお嬢様が狭間までこの呪いを連れてきてくださるとは思いませんでしたが、大活躍ですね」
「まさかわたし、死んでしまったの!?」
狭間だと聞いて、蓮花は混乱した。
死んだはずの轟が動いており、甯々も人の姿に戻っているだけでも驚きだが、この場に自分がいるということは無事ではないということだと思えた。
「死んではいません。ただ、生死の境目に立っているだけです。あぁ、そんなに心配せずとも、お嬢様はちゃんと現世にお連れしますよ。彼の世までお嬢様を連れて行ったなんてことになったら、何十年かした後に娘に袋だたきに遭いますからね」
「……やりそうだな、お前の娘なら」
轟は甯々ほど軽口を叩かない性分らしく、ぼそぼそと呆れた口調で告げた。
「西四宮は彼の世に通じる狭間にあるんです。封印されている間は普通の宮殿なので、後宮がどれほど重要な場所かを知る者はほとんどいません。暝天衆の連中だって、上層部しか知らないはずです」
「そんな重要なことを、なぜ甯々は知っているの? 甯々は暝天衆ではないのでしょう?」
「違いますよ。あんな連中と徒党を組むなんて、死んでもごめんですよ。俺たちがこのことを知っているのは、いずれあの呪いというか、砥の妄執を彼の世に連れていくための手段として後宮に狭間があることを伝え聞いていたからです」
苦笑いを浮かべた甯々はたいしたことではないような口ぶりで告げた。
「狭間に入り込めれば、なんとか砥の妄執を捕まえることができるのはわかっていたのですが、後宮の封印をすべて解くというのはさすがに難題で、ここに後宮を建てた游の王を恨んだものですよ。游の王は砥の呪いを捕らえておくには後宮がうってつけだろうなんて考えたようですが、なんでさっさと始末しなかったのかは謎ですね。多分、当時の暝天衆の誰かが王に呪いは生け捕りにするよう馬鹿な進言をしたんでしょうけどね」
「でも、祓うこともできたのでしょう?」
「祓うこともできますよ。暝天衆の方士が総がかりになれば、方士と呪いが差し違いになりますけどね。いまの暝天衆の方士は以前より能力が劣っているって聞きますから、多分総勢百人くらいで祓えるでしょうね」
「そんなに……」
暝天衆がどれくらいの規模なのかはわからないが、百人となると犠牲は大きい。
小規模な戦闘のようなものだ。
「呪いが此の世で暴れたら、被害だって大きい。だから、俺たちは狭間に呪いを連れ込む機会をずっと狙っていたんです。最初に砥が游を呪ったときに祓っておけば、いまのように強大にはなっていなかったんですけどね」
「……まったくだ」
ため息をつきながら轟が呪いと正面から向き合う。
「隼暉様や、巽妃や芙蓉が呪いに飲み込まれてしまったの。助けることはできる?」
甯々と轟、どちらにということもなく蓮花は尋ねた。
「それは無理です」
あっさりと甯々が答えた。
「喰われたらおしまいです。死んだも同然だから。呪いと一緒に彼の世に行くしかない」
「どちらにしても、呪いと関わったら長くは生きられない。取り憑かれたり、呪物を使用したらおしまいだ」
素っ気なく轟も言い放つと、素早く呪いのそばへ駆け寄った。
「お嬢様は大丈夫ですよ。呪いと関わったといっても、呪いが鼻先をかすめたようなものですから」
「化け猫に保証されても不安になるだけだろうが」
ぼやきながら轟は懐から煙管を取り出した。
「あ――――」
それは、隼暉の息子でいまは『轟』を名乗っている青年が持っていた煙管だった。
「轟はあの煙管に憑いていたんです。といっても、さすがに煙管なので喋ったり動いたりはできませんでしたが、先祖から代々伝わるって言えば銘品のように聞こえますが、ただただ古いだけの煙管なんで憑くには便利な代物なんです」
「ただ古いだけではない」
憮然とした口調で轟が反論する。
煙管には煙草が詰まっていないが、轟がくわえると白い煙が煙管の先から流れ出した。妙な臭いのする煙で、それは『轟』を名乗る青年の衣服にも染み付いていた臭いだった。
白い煙は風がないのにゆらゆらと流れ、黒い靄を取り囲むように広がる。
そして、轟が煙管をくわえたまま手を叩くと、白い煙は黒い靄を捕らえてひゅっと煙管の中に戻った。
ほんの一瞬のことだった。
「え?」
こんなに簡単に砥の呪いを捕まえられるのか、と拍子抜けしたほどだ。
轟は煙管をくわえたまま不味いものでも吸ったような渋い顔をした。するとまもなく、彼の肌に黒い模様のようなものが現れた。
「うわ、悪趣味だな」
甯々が兄弟とはいえ失礼な言葉を吐く。
轟の全身の肌には、蔦が這う入れ墨のような模様が浮かんでいた。影のように模様は肌の上でうねうねとしばらく動いていたが、轟が煙管から吐き出した煙を身体に纏わせているとやがておとなしくなった。
「呪いを取り込んだだけだ。このまま、彼の世に連れていく」
「連れていくって……轟が?」
「そうだ」
まるで自宅に戻るような口調で轟は答えた。
「砥の妄執は、狭間に落ちた瞬間から気づいている。もう此の世には砥の居場所などないのだと」
「――轟は、幽鬼を説得するのがやたらと巧いんだ。幽鬼や精魅をすぐに誑し込むんだ」
「人聞きの悪いことを言うな。身体に流れる血と呪いの親和性が高いから馴染みやすいだけだ」
煙管を唇から離すと、轟はそれを蓮花に向かって投げた。
「これは、あの小僧に渡してくれ。受け取らなかったら捨ててくれていい」
慌てて蓮花は手を伸ばし、なんとか煙管を両手で掴んだ。
煙管の柄の部分には、家紋のようなものがついている。
「それは、砥の紋章なんですよ」
蓮花の視線の先に気づいた甯々が教えてくれた。
「この紋がどこの家のものかなんて、知っている者はこの束慧でも一握りですけどね」
「じゃあ、甯々たちは…………」
「流れ者の方士なんで、親父が勝手にどこぞの王侯貴族を自分たちの先祖だって言ってただけです」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、甯々は人差し指で蓮花の口を塞ぐ。
「こういう物って、妄執を捕らえるにはうってつけなんですよ」
使い込まれた煙管は、あちらこちらに小さな傷がある。
この煙管のかつての持ち主の気配が、砥の妄執を呼び寄せたのかもしれない。
「あとは任せたぞ」
轟は身体に白い煙と黒い靄を纏わせながら、甯々に告げた。
「あぁ。またいずれ、会おう」
「……断る」
甯々に対して、轟は素っ気なかった。
蓮花と甯々に背中を向けた轟は、闇の中に溶けるように姿を消した。




