三十四 長春宮(二)
蓮花が着替えて朝餉を済ませるのを待って、博と轟が控えの間から妃の居間へと通されたのは一刻ほど後のことだった。
「これを持ってきた」
挨拶は一切なく、博は轟が持っていた包みを円卓の上に置く。
部屋の隅に控える女官たちは「いくら兄とはいえお妃様に対してあの態度は――」と鼻白んでいるが、芹那は特に驚く様子はない。
博は蓮花が王妃になったからといって口調を変えられるほど器用ではないのだ。
「あ! これ、持ってきたかったのだけどお母様に反対された精魅図鑑! ありがとう、博兄様!」
包んであった布から出てきた書物を手に取り、蓮花は声を弾ませる。
蓮花の膝の上に座る甯々は、胡乱な目つきで轟を睨んでいる。
無表情で轟はその視線を受け止め、妃の愛猫のふりをしている甯々を冷ややかに観察していた。
「あと、これも」
博は自分の背後に立つ轟を振り返りもせず指さした。
「連れてきてくれて、ありがとう。まさか博兄様が轟を連れてきてくれるとは思いも寄らなかったわ」
「家の裏にいた」
まるで犬猫を拾ったような言い草だ。
おとなしく博の後ろで従者のふりをして立っている轟が一瞬だけ目を剥く。
「そうだったのね」
「僕は父上と兄上に面会を申し込んだが、忙しいの一言で追い返された。用事はお前に伝えておけとのことだ」
宰相とその補佐官は、蓮花が妃として王宮に入ったことを忘れているようだ。
そうでなければ、いくら身内の用事とはいえ妃を伝言係にするような非常識な真似はするまい。
「僕の用事は二つだ」
女官たちが宰相家の貴公子とは思えない博の振る舞いに唖然としていることに気づく様子はなく、淡々と喋り出した。
「一つ目は篤学館の再開がいつになるのか。できるだけ早く再開して欲しい。これは僕だけの希望ではなく、篤学館の学生、教授や講師たちの多くが望んでいることだ」
「伝えておくわ」
篤学館が隼暉王の代になって閉鎖されたことは蓮花も記憶している。
新しい王の代になったからといってすぐに再開できるものではないが、閉鎖された学館を開放するくらいはできるはずだ。
教育が民にとって大切であることは蓮花も承知している。
篤学館のような潦国最高学府だけではなく、市井の私塾も徐々に再開することだろう。
「二つ目は塙国へ留学した楪の消息だ」
「楪さん?」
「篤学館の学友の楪樹だ。塙国へ算学を学びに行った。あの国の算学はかなり発展している。算学に関する書物をたくさん持ち帰りたいと言っていたからもしかしたら荷物だけが先にこちらに着いているかもしれない。篤学館に送ったかもしれないが、閉鎖されているから自宅に届いているかもしれないが」
「博兄様のお友達が、塙国へ留学していたの?」
「そうだ」
蓮花が興味を示したことに驚いたようだが、博は途中で話を遮られたことを気にした様子はなく生真面目に頷いた。
「本当は二年前に帰国する予定だったが、その前の年に隼暉王の息子が塙国に留学するからといって世話係を命じられて、一時帰国も許されずそのまま塙国に残ることになったと手紙には書いてあった」
「隼暉様のご子息の会稽殿なら、もう束慧に戻られているわよ。わたし、昨日お目にかかったもの」
「そうらしいな。では、楪も帰国したのだろうか」
「どうかしらね。その点はお父様か透兄様に調べるようお願いしておくわ」
游隼暉の名前が出たところで、轟は眉間に皺を寄せて蓮花に視線を向けた。
「そういえば博兄様は、游会稽殿にお会いしたことはあるの?」
「ない」
即座に博は否定した。
「そうなの? でも、塙国に留学したってことは、会稽殿も篤学館に通っていらしたのではないの?」
「篤学館には通っていない。隼暉王の息子の留学は、かなり変則的なものだった。篤学館に通っていない学生を推薦しろと教授のところに王命があったらしい。仕方がないので推薦状は書いたらしいが、篤学館からは王の息子の学友となるような学生を出していない。楪はすでに塙国に留学していたから世話係を命じられたらしいが、その後どうなったかは手紙が届いていないのでわからない」
「まぁ、そうだったの。もしその楪さんが束慧に戻られているなら、わたしも話をしてみたいわ」
「話? 留学中の話か? まさか算学について講義を受けたいわけではないだろう」
「会稽殿について聞きたいの。潦国ではどんな風だったのか。なにを勉強していたのか。どうして帰国することになったかといった事情を知っているか、とか」
「算学しか興味がない男だから、どれくらい覚えているかは保証できないぞ。あいつは備忘録代わりに書いたものを手紙として送ってくるような奴だ。塙国で勉強を始めてすぐの頃に手紙を送ってきたと思ったら、算学の公式だけがずらっと書いてあった。多分、なにかの書物を書写したのだと思うが」
「さすがは博兄様のお友達ね」
ふんふん、と蓮花は相槌を打つ。
「そういえば、隼暉王の息子が到着してすぐの頃だと思うが、一度だけ楪から手紙が届いた。確かあれが、最後の手紙だった」
「どんな内容?」
「手紙というか、似顔絵だ。楪は文章を書くのが苦手なんだ。目に映るものを書き写すことはできても、文章に整理して言葉として書き出すことは難しいらしい」
博は懐に手を突っ込むと、書物なのか紙束なのかよくわからないものを取り出した。
それはいつも彼が持ち歩いている物で、なにかを思いつくと書き付ける帳面だった。
ぱらぱらとその帳面をめくり、墨でたくさんの文字が書かれた頁の中から栞のように挟んであった紙切れを指先ですくい上げて掴むと、精魅図鑑の上に置いた。
「紙の隅に『公子』と書いてあるから、多分隼暉王の息子の顔だろう。楪はなかなかこれが人の特徴を掴んで似顔絵を描くのが巧いんだ」
手のひらよりもすこし大きめの粗末な紙には、ひとりの青年らしき顔が描かれていた。その顔はほっそりと面長で、目尻が垂れ、いかにも気の弱そうな表情を浮かべている。髪は薄く、額が広いのが特徴的だった。また、唇は薄く、耳が大きく、耳朶が下に延びている。耳飾りと首飾りをしており、どこかおっとりとした育ちの良さが顔全体に漂っている。
人物の特徴を誇張したような描き方だが、わかりやすいといえばわかりやすい。
「これが、会稽殿の顔?」
紙切れを手に取り、蓮花は目を見開く。
その手元を覗き込んだ芹那もまた、目を疑った。
「わたしが会った会稽殿と……まるで別人ね」
「さようでございますね」
卓上に前脚を置いて紙切れに顔を近づけた甯々もぐるぅ、と同意を示す。
「そうか。隼暉王の息子の顔ではないのか」
ふうん、と博は呟いた。
『公子』としか書いていないので、楪樹が描いた公子が游会稽なのか別人なのかは確かに定かではない。




