三十 西四宮-墨泥
がしゃん、がしゃん、と鎧が揺れてこすれるような音が辺りに響く。
新月の闇の中、墨色の靄が傷んだ鎧を纏って地面を這うように彷徨っている。
眼窩だけは虚ろだ。
なにかを探すような仕草をしながらゆっくりと這い回るその靄を、殿舎の屋根の上から眺めている痩身の男がいる。煙管をくわえ、たまにふわっと煙を口から吐き出しては、地面を這うものを黙って見続けている。
蓮花は甯々を抱きしめたまま、それをじっと観察していた。
――あれは、轟だ。
屋根にいる男の姿は影にしか見えないのに、なぜか蓮花にはそれが轟だとわかった。
轟が吸っている煙草の匂いは独特で、精魅や幽鬼が嫌う薫りを放っている。しかもめっぽう不味いのだ、と甯々が教えてくれた。
いつものように唸っていないのに、なぜか甯々がそう語っているのか蓮花には伝わってきた。
――地面を這っているのは、なに?
暗闇の中でも、なにかが這っている場所が壊れた建物の周辺だとわかった。
ここは、西四宮の中でも正妃に与えられる殿舎、長春宮だ。
まだ蓮花は見たことがない場所だったが、なぜか長春宮だとわかった。
甯々が知っているからなのか、それとも靄がそのように呟いていたのかは定かではない。目の前の光景のすべてが曖昧で、蓮花は自分がいまどうしてここにいるのかもわからなかった。
――精魅? それとも幽鬼?
がしゃん、と鎧が音を立て、ずずっとなにかを引きずるような音が響く。
――なにを探しているの?
ずっと昔に失ったものだ、と甯々が答えた。探したって見つからないのに、見つけようがないことを忘れてしまってずっと探し続けているのだ、と。
――見つからないことを、教えてあげないの?
教えたところで、理解できない。あれは、もう自分で考えることができない妄執の塊だから。精魅のような知恵はなく、幽鬼のような魂もない《《もの》》。あれに探しものがここにはないことをわからせるためには、ここにはないことを見せつけるしかないのだ、と甯々が残念そうに答える。
――どうやって?
それは…………するしかない、と甯々が答える。
――え?
肝心な部分がよく聞き取れなかった蓮花は聞き返すが、甯々は同じことを二度は語ってくれなかった。
突然、靄がどろりと泥のように流れだし、地面に染み込んで消えた。
鎧だけが残り、その鎧から鮮血が流れ出す。
どくどくと音を立てるように血は鎧から溢れ、やがて地面に血の池ができあがった。そこからぼこっと沸き上がるようにして、人の形が現れる。
それを確認した轟がゆっくりと夜空に向かって煙草の煙を吐きながら、醜悪だ、と呟いた。
――あれは、さっきの靄と同じもの?
蓮花が甯々に尋ねると、違う、と返ってきた。
ここで犠牲になった者たちの血が、あの妄執をここに捕らえている。ここから逃がさないよう、あれを血の池に沈めているのだ。この辺りの土に染み込んだたくさんの女たちの血が、あれをここに縛り付けている。呪物のひとつが後宮から持ち出されても、あの獣のような妄執はここから放たれることはない。暝天衆の連中は知らないのだ。游一族の血を絶やしたところであれは甦らないことを。いまでは化け物でしかないあれは、砥を復活させる布石とはならないことを。
――砥?
聞き慣れない名前に蓮花は首を傾げる。
目の前で繰り広げられる光景は不気味なはずなのに、なぜか蓮花は怖いと思わなかった。
甯々がそばにいるからなのか、それとも轟が近くで見張っているからなのか。
轟は無表情のまま血の池を見下ろしている。
鎧はゆっくりと血の池に飲み込まれるように沈み、やがてたぷんと音を立てて消えた。
あぁ口うるさい奴が睨んでいる、と甯々がぼやいた。あいつは本当は暝天衆なんかよりずっと厄介な奴なのだ。真性の腐れ外道なのだ。
――芹那以上に辛辣ね。
蓮花が笑うと、甯々は喚いた。自分ひとりでこの面倒ごとを背負い込みたくないから、俺をこんな姿にしてまで生き長らえさせたのだ。そんな奴が外道でないはずがないだろう。
――でも、わたしも芹那も、甯々が帰ってきて喜んでいるのよ。
わかっている、と甯々は答えた。こんな姿でもあの腐れ外道と縁が切れれば悪くない生活だ。王宮で妃の飼い猫として安穏と過ごせればこんな幸せなことはない。あぁ、游一族の生き残りの若造が王にならなければ、皆で都からおさらばして地方の貴族の奥方の飼い猫としてまったりと過ごしていたはずなのにな。
ぶつぶつとぼやく甯々の愚痴を聞きつけたのか、轟がこちらを見た。
あぁ見つかった、と甯々が呻き、蓮花の視界を塞ぐ。
するりと黒い布をかぶせられたように、蓮花は暗闇に引きずり込まれた。




