二十五 赤鴉宮-薄暮(二)
透が部屋から出て行くと、なぜか芙蓉と佳鈴は透が使った茶器を盆に載せて片付ける素振りをしながら一緒に出て行ってしまった。
芹那は部屋に残っているが、透の刺繍道具を入れた箱を櫃の中にしまうと、侍女の控え室になっている小部屋へ姿を消した。
稜雅の侍従は部屋の外で控えているのだろうが、開け放した窓の向こうからは人の話し声どころか気配すら感じない。
この殿舎はこれほど静かだっただろうか、と蓮花が戸惑うほど、外からは庭木の枝葉が風でそよぐ音と烏の鳴き声しかしない。
(……なぜ、皆部屋から出て行ったのかしら? この状況、ものすごく困るのだけど)
戸惑いながら蓮花が周囲を見回していると、ぐるるぅと膝の上でうなり声が響いた。
ずっと膝の上に載せていたのでその存在を忘れかけていたが、甯々が大きなあくびをしていた。
蓮花がそっと頭を撫でてやると、甯々はおとなしく目を閉じた。
甯々は基本的にいつも蓮花のそばにいる。芹那が用事で蓮花のそばから離れても、甯々はそばにいてくれるのだ。
以前、芹那の父の相棒を名乗る轟は、この甯々が芹那の父の成れの果てだと言ったが、最近は甯々が芹那の父だったのか最初から猫だったのかよくわからなくなってきた。ただ、話しかければうなり声で答えてくれるし、それなりにこちらの話を理解しているようではある。そして、自分は猫であるという顔をして、会話に聞き耳を立てていることがよくある。
桓邸では、庭先に現れた精魅を追いかけ回して捕まえては食べてみたり、幽鬼に噛みついたりしているので、それなりに方士だった頃の名残はあるようにも見える。
甯々のように数年で人から猫に変わったりするくらいだから、少年だった稜雅が立派な大人になるくらいは普通だ、と蓮花は自分に言い聞かせてみた。稜雅が桓家を出て行ってから八年ほど経っているから、あの当時の少年のままの方がありえない。ただ、蓮花の中ではいまでも稜雅は少年だった。彼が、父である游碇仆にそっくりな大人になったと言われても、よくわからない。
蓮花自身は、多少成長した自分が着飾ったり化粧をしたりすれば見栄えすることは理解していた。十人並みの容姿でも、桓家の財力で華やかな襦裙を身に纏い、装飾品で飾り、髪を結って美しい簪や櫛を刺し、おしろいと紅を塗れば綺麗になれる。
だから、妃として王宮に入るために着飾った蓮花を稜雅が仙女のようだと言うのも理解できた。
子供の頃と違い、潦国で手に入る一級品ばかりで身を飾った蓮花は、周囲から「さすが潦国王妃」と賞賛されなければいけないのだ。
綺麗だと言われることは嬉しい。だが、稜雅から言われると、なぜかあまり嬉しく感じなかった。
「蓮花?」
黙り込んだ蓮花が甯々の背中をなで続けている、というか背中の毛をわしゃわしゃと乱している様子から、どうやら機嫌が悪いようだと察した稜雅が声を掛ける。
「どうかしたか?」
甯々は顔を顰めているが、蓮花にされるがままになっている。
この猫は飼い主の機微に通じているので、風呂に入れられる以外は蓮花がすることを嫌がらないのだ。
「一刻ほど前に、御廟を参った際、游会稽殿に会いました」
いつまでも黙っているわけにいかず、蓮花は游会稽の名を口にした。
無理に話題を変えるつもりはなかったが、部屋の中でふたりきりになった途端に妙な空気が流れたように感じたのと、これ以上稜雅に容姿を褒められるとますます複雑な気分になりそうで嫌だったのだ。
「そうらしいな。君を護衛していた者から報告は受けている」
「どうしても父君のご遺体を返して欲しいそうです」
御廟の前に現れた游会稽の姿を思い出しながら、蓮花は甯々の背中の毛をていねいになでつけた。
「ご遺体は、なにものかに取り憑かれているので、父君の屍がなにかしでかす前に引き取りたいとおっしゃっていました」
「取り憑かれている?」
怪訝な声音で稜雅が問い返す。
「えぇ。隼暉様は取り憑かれていると会稽殿はおっしゃっていました。死してなお、いまだに」
反乱軍の大将である稜雅に首を切られ息絶えたはずの游隼暉が、なにかに取り憑かれているという話は稜雅は初耳だったはずだ。信じがたい、といった様子で黙り込む。
蓮花も游隼暉がなにかに取り憑かれているという話は游会稽から聞くまでは知らなかったが、彼の話を一笑に付すことはできなかった。
「甯々。あなたはどう思う? 隼暉様は、なにかに取り憑かれていると思う?」
蓮花が膝の上の甯々に声を掛けると、面倒臭そうに甯々が閉じていた瞼を開けた。
ぐるぅ、と唯とも否ともわからない声を上げる。
こういうとき、甯々が喋れればよかったのにと蓮花は思うのだが、残念ながら甯々はいまだに人語を喋れるようにはならない。たまに、喋れないふりをしているだけではないのかと疑うこともあるが、甯々の喉から出るのは常に獣の鳴き声だけだ。
「なぜ、猫に訊くんだ?」
稜雅は自分よりも甯々の方が頼りにされているような気がして気に入らないのか、蓮花の顔を覗き込んで尋ねた。
「甯々は怪異に鼻が利くんですもの」
実は甯々はかつて方士だったのだと答えるわけにはいかず、蓮花は誤魔化すように答えた。
「甯々。唯の場合はわたしの右手、否の場合はわたしの左手に顎を置いてちょうだい」
ほら、と蓮花が手のひらを甯々の前に差し出す。
憮然とした目つきの甯々は、仕方ない、といった様子で蓮花の右手にちょこんと顎を乗せた。
「あら。甯々は隼暉様がまだなにかに取り憑かれていると思うのね。それって、会稽殿がおっしゃるように、なにかをしでかすと思う?」
蓮花が重ねて尋ねると、甯々は蓮花の手から顎をあげてぐるぅと鳴いた。
「どちらからわからないってこと?」
「この猫、ちゃんと蓮花が言っていることを理解しているのか?」
蓮花が甯々とばかり話していることが気に入らないのか、稜雅が甯々を指さして不満を漏らした。
途端に、甯々がぐわっと口を開けて稜雅の指を噛もうとする。
「うわっ」
慌てて稜雅は手を引っ込めたが、甯々の牙がわずかに指先の皮膚を切り裂いた。
「甯々! 人を噛んでは駄目よ! 芹那! 消毒薬を持ってきて!」
慌てて蓮花が声を上げると、すぐさま薬箱を抱えた芹那が姿を見せた。
「いや、これくらいの傷はどうということはない」
稜雅は大騒ぎを始めた蓮花を落ち着かせようとするが、甯々は逃げた獲物を狙うように稜雅を睨んでいるし、芹那は「この猫はどこでなにを食べているかわかったものではありませんので」と口の中が雑菌だらけのような言い方をするので、仕方なく指を消毒してもらい、膏薬まで塗って貰う羽目になった。




