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県職員友田潤一郎の毎日  作者: 波辺 研心
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(7月)

 7月 1日(月) 旅費のおはなしその1 


 県職員が出張する場合、「旅行命令」というお伺いを決裁権者に申し立てる。例えば東京へ列車にて出張する場合は、起終点間の正規往復運賃をベースとして、「日当」という諸費の対価を一律料金で支払う。一般的に出張は、このような一律基準料金支払いであることから、出張によって得をする場合もあれば、損する場合もある。日帰りの場合は以上だが、宿泊する場合は別途宿泊料が一律上乗せされることとなるので、出張者が宿泊するホテルのグレードによっては、その損益ラインがさらに乱高下する。

 なお、平成の始めくらいから、公務員の出張によるお小遣い稼ぎの実態が明るみになり、大幅な旅費の見直しがなされた。見直しそのものに異論はないのだが、その具体の制度が“人間の根源的な欲求”を無視するものとなっており、制度上甚だ脆弱というほかない。


 その名を“パック特例”という。文字通り、航空運賃と宿泊をセットにした“パック”に絡む旅費の支給の特例である。

 具体的に説明する。

 まず、通常地方の旅行会社支店などでは、“東京パックプラン”を設定のうえ売り出している。地方から東京へ飛行機で出張する場合、大抵正規の旅行運賃に比べ格安となっているこのパックを利用している。なぜパックが格安となるか、については経済学的な要因もあるのでここでは言及しないが、出張費用が半額以下となる場合もあってか、多くのサラリーマンが利用しているのが実態だ。

 この制度は、大体は個人にしろ法人にしろ、“コストダウンしたい”という利用者の意志が働かなければ意味をなさない。例えば会社が旅費を抑えたい場合は、会社がパックのチケットを購入して社員に配布する。また会社が出張地に応じて社員に一律料金を支給している場合は、個人はなるべく出張費を抑えたいので、個人でパックを購入することとなる。



 7月 2日(火) 旅費のおはなしその2 


 一方県庁の場合はというと、“パックを利用した場合は旅費を安く支給する”という制度になっていて、パックを利用するか否かは個人の判断に委ねられている。

 最初に、“人間の根源的な欲求”について説明したが、これがまさに原理である。即ち、県職員の“お小遣い稼ぎ対策”として始まった“パック特例”が有効に機能していないことが大きな問題なのだ。

 パックを利用しない場合は、県庁は職員に旅費を高く支払い(しかも日程変更ができる)、逆にパックを利用する場合は、県庁は職員に易く支払う(しかも日程変更ができない)。合理的に行動する者であれば、全ての県職員が“パックを使用しない”こととなる。

 実際は、県職員にもモラルのある者とそうでない者がいて、極力公費支出を抑えたいとする殊勝な者は自発的に面倒臭くてリスクの高いパックを敢えて選択し、モラルの低い者はいかなる場合においてもパックを使用しない。

 仮にこれが実態である場合、当初の“公務員によるお小遣い稼ぎ”の犯人は、“モラルの低い者”であることは間違いないし、その“モラルの低い者”に対する制度にはなっていないのである。


 県庁は、この問題の解決策としてどうしたいのか?二つの解がある。一つは“公費支出を抑えたい”、二つ目は“県職員が得をしない”である。

 少なくとも上の説明により“公費は抑えられていない”ことが証明された。また“意識の高い県職員は損して、モラルの低い者が得をする”ことも証明された。


 結論として、“旅費制度は改悪された”こととなったが、この制度は今も存続している。



 7月 3日(水) 絶対善と相対善、絶対悪と相対悪その1


 著者がいつも考えていることがある。情報が氾濫する昨今、全ての物事について30年くらい前と比べて、何とも善悪の判断がつきにくい世の中になった。見方によって善にも悪にも見える事が多い。マスコミなど大衆娯楽情報操作機関は、即効性のある情報を洪水のようにお届けするため、善悪の判断基準をより大衆迎合的に単純化して線引きをする。盲目的に情報を受け取る“大衆”という名のレミングス達は、そのような十把一絡げにした勧善懲悪の記事を読んで、与えられた少ない情報の中で“混沌”という名のクリフへとダイビングしていく。奈落の底にあるのは、退屈をしのぐ娯楽しかない。例えそれが従軍慰安婦問題であろうとも、安保法制論議であろうとも、憲法改正問題であろうとも。(この項では単に“マスコミ批判”というチープな議論をしたいのではないということだけは力説させていただく)


 導入部分が哲学的で本書に相応しくないため身近な話題に戻す。ここでは「公害病に伴う政府又は自治体への批判」について語りたい。


 この話題は大いにナイーブなものであるので、「誰が悪くて誰が悪くない」という主張は、ここでは極力避けていくつもりである。著者に主張すべき空間が用意されるのであれば、別途吐き出させていただきたい。

 では、本項において何を言わんとしているのか。以下に詳説する。



 7月 4日(木) 絶対善と相対善、絶対悪と相対悪その2 


 「公害病」というものがある。病名の特定はしないが、一般論として企業活動や社会生活により環境が汚染され、結果関係住民に健康被害を及ぼす、というものである。

 最終的に放置した国と自治体がその責を負い、大抵加害企業などは霧散するか永久凍土のように活動が封じ込められる。

 この問題の本質は、端的に言い過ぎるならば、関係者による危機管理能力の欠如と官僚化した企業と役人による場当たり的対応、並びに、補償に群がる有象無象と本質をはぐらかす報道体質である。究極的にはこれ以上でもこれ以下でもない。


 まず、危機管理能力の欠如については、紙数の無駄なので割愛する。

 次に場当たり主義的官僚体質についても、議論が尽くされているためここでは多くを語らないが、九州におけるある公害病の場合について補足すると、当時“超”優良企業(当時の大企業というものは、会社の玄関に鉄道の駅を持ってくるだけの権力があり、地元市町村長を下僕のように使用できる存在であったという。)であった化学製品製造企業と上層部で懇ろとなった国、地元自治体及び公害関係国家研究機関が、敗戦後の経営立て直しのため大幅なコストカットを行っていた同社に対し、環境保全を強く求められず、結果として原因不明の奇病患者を長期間看過することとなった。当時地元国立大学の無名の研究者によって、同社から排出される工場排水が原因とした研究論文が発表されたものの、責任の所在が確定するまでに相当の期間を要したという。


 強調したいのは、「補償に群がる有象無象」と「本質をはぐらかす報道体質」である。

 補償金目当てのため公害認定後全国各地から群がってきた自称“被害者”の跋扈により、一部の“本当の被害者”が取り残されるという悲惨な状況と、私利私欲のため“餓鬼”と“本当の被害者”を一緒くたにして祭り上げる“ヨゴレ弁護士”、さらには、相場観で落とし所を模索する国家と裁判機関、“本質をえぐる牙”をもがれたジャーナリスト達。彼らのアンサンブルによって、被害者の“絶対善”と加害者の“絶対悪”が形成される。善悪の絶対化した事象は、もはや茶番でしかない。無意味な議論や運動が繰り返され、無駄な時間と補償金が飛び交う。

 その結果最も大事な“現状への反省”と“今後の対策”が講じられることもなく、次の新たな“似たような事件(鬼胎)”を生んでしまう。東芝や化血研の事例は、体質的には公害病のスキームと何ら変わらない。



 7月 5日(金) 絶対善と相対善、絶対悪と相対悪その3 


 つまりは、この世の殆ど全てが“相対善”と“相対悪”で形成されており、“悪”の中にも仕方のない部分と責められない部分があり、善の中にも妄想と欺瞞が渦巻く。大事なことは、この世の殆ど全てにおける、この相対善と相対悪の中において、個別に問題点と対策を講じる“根気”と“勇気”と“時間”を社会が寛容する必要がある。にもかかわらず、情報の氾濫によりこれらが削ぎ落とされ、大衆が端的に且つ明快な善悪の存在を求める。これに応じて、マスコミは、単純な善悪の定義づけである“絶対善”と“絶対悪”という虚構を創造し、フィクションとしてお茶の間に届ける。


 確認的に申し上げるが、本項では絶対的な善悪を創造して大衆に提供するマスコミへの批判ではない。情報の氾濫という、ここ数十年で急速に進展してきた現代の病理(ここでは敢えてネガティブに論じるが、情報の氾濫は絶対悪ではない)により、単純化を求めるのは大衆の合理的帰結であり、マスコミが大衆に阿るため絶対的な善悪のサービスを提供しているのは企業努力である。

 他方、斜陽な企業が官僚化するのは世の必然であるし、強者に阿る役人は、古今東西“ことわり”である。全てが相対善と相対悪で形成されているのである。


 最後に言いたいのが、「絶対善」と定義づけられた被害者団体の長による億単位の着服と構成員との血みどろの裁判劇は民衆の知るよしもなく、「正義の代弁者」と定義づけられた弁護士は、金づるである被害者たちを焚きつけた、ひととおり儲けた後、また新たな金づるを探して奔走する。


 くどいようだが彼らもまた相対善であり、相対悪である。被害者は声を上げることにより社会正義を勝ち取るが、全ての者が系統立った組織作りや均等な補償金等の分配ができるわけではなく、また高い倫理観を有しているわけでもない、結果一部の者に不埒な着服があるのは仕方がないことであり、これをもって一部が万事とする必要もない。また、弁護士も2015年度現在約3万6千人いるが、高潔な者もいれば反社会的な者や不遜な者もいよう。ただ弁護士活動とは即ち営利活動であり、クライアントへの顧客満足度向上イコール社会正義への寄与とは必ずしもならない。


 そういった意味で、何をもって善悪とするかは、捉えた光の角度によって形(見え方)が変わってくるのだ、ということを繰り返し行っているところである。


 まことに分かりづらい世の中である。


「俺様は絶対善である。俺の言葉は善の声、俺の行動は善行である。ものども須く帰依せよ。」


 奥山がまた得体の知れない新興宗教のような呪文を唱え始めた。もはや言動が地公法に抵触するのではないか、とさえ訝る友田であった。



 7月 8日(月) 「裁量」とは?「処分」と「指導」の違いとは?その1 


 行政法の話。

 『裁量』とは、国語辞典によると、“その人の考えによって判断し、処理すること。”とあり、行政は通常、国民(県民)などから付託されたこの権限を有する。これを『裁量権』という。

また『裁量』には、“自由裁量”と“き束裁量”があり、前者を“与えられた権限の中で自由に決めていいもの”、後者を“一定の範囲の中で決めなければならないもの”に区分される。因みに、前者の例が“委員等の任免”、後者の例が刑法等に違反した県職員の免職処分である。

 最近は、行政が不利益の処分を行った場合には、一定の“言い訳”する機会を与えなければならないこととなっていて、その言い訳の“場の提供”などを設定しなければならない。

 よって、役所がいたずらに公権力を行使できなくなっている、という意味ではこの国は大変過ごしやすくなっているのであろう。

 反面、公権力の威光が小さくなっているという点も否めず、故に役所での仕事が大変やりにくくなっており、ひいては不届きな者を懲らしめることが困難となっている、という意味では国民(県民)にとって見逃せない実態である。


 ところで、先程“処分”という言葉を用いたが、行政法では、この“処分”という行為を大変重く受け止める。

 役所が処分するのは当然だろう、と思われる方もいると思うが、実は“処分”しない部署も結構あって、逆にそちらの方がより深刻な問題であるケースが多い。



 7月 9日(火) 「裁量」とは?「処分」と「指導」の違いとは?その2 


 具体的に言う。

 例えば、産業廃棄物を処理する業者がいて、ちょっと横柄な仕事ぶりであったとする。

 役所的には、『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』の円滑なる運用を統べる法の番人であるとともに、“綺麗な県土”を目指して邁進する壮士としての立ち位置についても県民から求められている。

 つまり、先の法律には反していないが、綺麗な県土を守るため、より良い廃棄物処理を業者に求めたい場合は、一般的に

「指導」

 という行為を行う。この“指導”と“処分”はどう違うのか?これが全然違うし、これを使い分けるのが県職員武器ともいえる。


 まず“指導”。これは端的にいうと、基本的に法的拘束力がない。つまり、何ら根拠となるものがない、ということである。実はこれは凄いことであり、巷間で“指導行政”と揶揄されるものである。

 一方“処分”とはその対義語であり、法的根拠に基づき行われるものである。


 では、何が凄いのか?結論をいうと、“処分には責任が伴い、指導には責任がない”ということである。

 よって、法律の条文には記載がないが、法律の趣旨に鑑みて“指導”を行い民を律する。

 聞こえは大変よろしいが、かいつまんでいうと『担当者次第』ということである。誠におぼつかないことこの上ない。


 では、不届きな県職員による乱発指導を抑制するため、一律指導を禁止するとしてはどうか。

 そうすれば当然法の精神が条文に100%網羅されているわけではないので、不届きな業者などを跋扈させてしまう事に他ならない。

 平成初期に不法投棄が社会問題となったのも、法制度の不備により処分業者が“モラルと正義”の名の下にビジネスを行った末路なのである。


 何が言いたいのかが段々分からなくなってきたが、要は役所がやっている行為とは、外には見えないそのような“内輪の葛藤”があり、その結果、結局“マンパワー”なのだということが言いたいのである。

「俺にひれ伏せ、という指導を行う。」

 奥山がまた愚かな指導を始めようとしている。最早その指導は、友田にすら通用しなくなっているということを知るよしもない奥山であった。



 7月10日(水) 県職員の世代構成図 


 戦後生まれた方々(「団塊の世代」という。以下同じ。)は昨今退職を迎えている。我が国は、高度経済成長を経て現在の成熟国家を迎えたが、この離職率の極端に低い地方公務員をみていくと、“採用の数”と“職員の質”がその時代を物語っていて実に趣深い。

 昭和20年代後半は最後の団塊世代で大量採用組である。日和見で主体性がなく、決断力に乏しい。楽しいことが大好きで、バブル期に不惑の年を迎えているので景気の悪い話が苦手である。職員の質は概ね悪い。

 昭和30年代前半は、オイルショックの影響もあって苦労人が多い。物事を詰めるコツコツ型でおとなしい人が多い。没個性だが概ね質はよい。

 昭和30年代後半から昭和40年代前半は、バブル世代である。彼らは一様に優秀な人材を民間に奪われてしまっており、かつ、就職もなめきっている世代でもあるので、基本的にピンチに弱い。

根アカな者が多いのは、バブル景気で貰った元気が未だ根付いている証拠か?ただ世代間競争では苦労知らずなため、存在感のなさを露呈している。職員の質は推して知るべし。

 昭和40年代後半~昭和50年代前半は、第2次ベビーブームで人口が多いにもかかわらず、就職直前でバブルが崩壊した世代である。受験戦争末期の子どもであり、競争を宿命づけられているため、一様に気性が荒く、すぐ“キレる”。不況後公務員人気をくぐり抜けてきた優秀な人材の宝庫にもかかわらず、如何せん上が支えているため、上にあがろうにもあがれない状態となっており、タダでさえキレ易い世代なのに、日常が既に一触即発の状態となっている。

 昭和50年代後半は、基本的に平成不況真只中であり、かつ、財政再建中のロストジェネレーションだが、「ゆとり教育」の影響もあってか、危機感は希薄。競争と論争を極端に嫌い、平和をこよなく愛する。質は案外悪くない。

 昭和60年代~平成初期は、採用枠縮減にもかかわらず売り手市場で、“のほほん”を信条としている。“知らない”ということに罪悪感はない。平和主義者だが組織への順応力がないので、上司は手を焼く。質は???である。

 以上の世代が逆三角形の人口構成比で分布している。よって偉い人(=使えない人、年寄り)がやたら沢山いて、一般職員(「兵隊」という。以下同じ。)が極端に少ない。最近では、偉い人のポストが余りにも多すぎるので、これを絞るために出世がだんだん遅れる傾向にある。

 財政難と職員の平均年齢上昇に伴い、支出予算額に占める人件費の割合が増加の一途を辿っており、抑制策として、数年前“県職員の給料があがらない”給与システム(出世しない人は昇級停止となるシステムのこと。)が誕生した。換言すると、一部のエリート以外は給料が年功序列にはならない制度である。

 一見すると民間では当たり前の制度のようだが、実力とは関係なく年齢が達しなければ出世できないこと、民間など営業成績のない公務員の出世基準が曖昧であることを踏まえると、極めて人事の判定基準が恣意的になる傾向がある。

 つまり、出世に繋がらない地味な仕事について、責任をもってやり遂げることが困難となる、ということである。

 これによって、県職員が受け取る生涯年俸は、退職金や年金の減少を除いたとしても、現役世代収入だけでも世代間ギャップは甚だしくなる一方であり、ましてや上世代の採用数が多いことによる“出世難”が生涯年俸減少に拍車を掛けている。

「ついに俺が入庁した時係長だった人の年齢になった。」

 未だに平社員の奥山がそうぼやいたが、友田はこれを聞かない振りで応じた。



 7月11日(木) ここは戦場 


 隣のシマにいた木野参事が今週の初めごろから来なくなった。いわゆるメンタルヘルスな方である。休職の理由は、極度の過重労働とプレッシャーによるそうだ。休職前に氏が最後に言ったコメントが印象的だった。

「ここは・・・戦場だ。」

 無論比喩表現ではある。だが決して非現実的な表現ではない。それが証拠に、休む直前まで彼の眼前には、実弾が飛び交う様子がまざまざと投射されていたという。


 県庁が所管する許認可業務は、通常申請者が“申請書”という書面を提出し、行政が“審査”というものを行い、“許可”などの決定を行う。

 例えば土木事務所では、通信事業者などが道路の地中に電線を埋設するための“申請”を行い、土木事務所において埋設の“審査”や道路工事に伴う交通規制が五月雨式にならないよう、水道事業者や電気事業者等と工事時期の調整を行い、“道路法第32条に基づく道路占用許可”を行う。

 しかしながら、申請者の申請技術レベルは千差万別であって、文字どおりプロもいれば名前しか書けない素人もいる。裁判のように弁護士又は司法書士による提訴が常識となっている申し出であれば、受け付ける行政機関は大変便利なのであるが、行政書士に頼むまでもない申請の場合などであって、申請者が毎月申請するなどルーティン化していない場合は、審査する側に多大な労力を強いられる。

「公僕なのだからそれぐらい親切にサービスして当たり前ではないか。」

 という御仁もいよう。一見ごもっともな御意見である。ただし、そのサービスは税金で賄われており、決して無料ではないのだ、ということを心していただきたい。

 著者がこれ強く主張する根拠については来週詳述するのでここでは割愛する。


 とまれ、申請者が30%の答案で申請をしてくる。その割に即座に許可証(回答)を求めてくる者も少なくない。今日びコンビニをもってしてもそのように迅速には物事は動かない。

 かような結果、審査する側に次第に書類が山積みになり、担当者の机には、回答期限として設定されている“標準処理期間”と呼ばれる見えないタイマーが点滅し始める。

 そして埋もれた時限装置(書類)が次々に発火(期限切れ)し、“懇ろの県議”という殺傷力のある武器を持った敵兵(申請者)が司令部(課長)目がけてトリガーを引く(クレームを言う)。

 前線の小隊長(係長)は、司令部からの檄を受け兵士(課員)を塹壕から蹴飛ばす。兵士は、包囲された敵兵による銃弾の雨の中、弾の尽きた自動小銃を持ったまま万歳クリフへと旅立つのである。

 なお、県庁組織における指揮系統の壊滅的な状況については、これまた来週詳しくお話しする。


 そういう訳で前線の兵士は、悉く銃弾の餌食となり戦場に散っていく。消耗品である彼ら兵隊は、御霊が祭られることなく“精神病”というレッテルを貼られたのち、組織の終末処理場へと搬送されていくのである。


「俺が戦場を歩くと、弾が勝手に避けていくんだ。不死鳥伝説“戦場の狼”とは俺のことさ。」

 鳥なのに狼って・・・という奥山のボケには敢えてツッコミを入れず、ただ彼ならば本当に弾が避けていきそうな気がしてならない友田であった。



 7月12日(金) 公務員不要論その1 


 著者の持論だが、この世に公務員は必要ないと思っている。では何故実際に公務員が存在するのか?それは即ち、国民が“面倒臭い”や“信用できない”と思っている作業や仕事が存在するからである。


 具体的に例示する。田舎にある野菜の無人販売所である。

 農家が陳列した野菜を客が買っていく。その際に、備え付けの貯金箱に予め決められたお金を客自ら入れる。このシステムが世界的にも珍しいビジネスモデルである。日本人である我々にとっては、特に違和感のあるものではないが、実は公務員制度を考えるうえで解となるものである。

 ではどのようなヒントが隠されているのか?以下に詳述していくこととする。


 まず行政サービスを例示しつつ大別してみる。

 第1に消防サービスがある。我が国には古来より“火消”というものが存在しており、現在の“消防団”のルーツである。制度の詳細は避けるが、これは言わば消防のアウトソーシング(外部委託)で、行政サービスが比較的民間に任せやすいカテゴリーである(これを「軽度サービス」と呼ぶ)。

 究極的に言えば、一見“消防士という公務員”は不要では?とも思われるが、大規模災害や高度救助という点において、民間には任せられない部分もあり、完全に民間に任せても困る分野である。

 第2に教育サービスがある。我が国では古来より“私塾”があり、現在の学習塾や私学のルーツである。これも部分的なアウトソーシングであるが、義務教育課程や教育のあり方(教育政策)という点において“国家”が管理すべき点があり、まだまだ民間に任せられない点が多い(これを「中度サービス」と呼ぶ)。

 最後に警察や防衛サービスがある。警察では駐車禁止の処理や警備などごく一部でアウトソーシングが行われているものの、大部分の業務は“治安”という国家の根幹にあたるため、民間人に任せることは困難である(これを「重度サービス」と呼ぶ)。

 いずれも“民間に任せる程度”と“リスクの大きさ”を見極めながら、このシステムは日進月歩している。


 次に野菜無人販売所の“手間”について考察してみたい。

 購入者は、“野菜”という商品情報や出荷元の情報、包装、集金、移送など全てを排除したこのサービスを事前に承諾のうえ購入している。その対価として“格安”で新鮮な野菜を手に入れることができる。

 一方このシステムでは、売手や買手は双方“リスク”を抱える。売手は“盗難リスク”、買手は“瑕疵担保責任リスク”である。

 では何故このビジネスが成り立つのか?それは即ち、双方にとって“費用対効果が大きい”からに他ならない。



 7月16日(火) 公務員不要論その2 


 これらを踏まえ本題に入る。現時点において何故公務員が不要にならないのか?それはつまり民間人が公的サービスを自らやりたくなく、かつ、できないからである。

 “やりたくない”とは即ち、冒頭の“面倒臭い”と道義であって、これは単純に“家事を家政婦に任せる”のと同義である。お金さえあれば世界中の主婦は家政婦に任せる筈である。では何故任せないのか?それはお金が勿体ないからである(或いはそのお金をかけるなら自分でした方が合理的と考えるからである)。つまり費用対効果の面から公務員は必然的に存在しているのである。


 他方、“できない”とは即ち“信用されていない”からである。民間人と一括りにしても千差万別だが、要は高いモラルの職人にやらせることが合理的だからである。つまり、行政サービスのレベル(上記サービスの軽度のものほど信用度が低くてもよく、重度のものほど大きな信用度が必要となる)に応じて公務員の数が決まってくるのである。


 では何故著者は「不要」とまで言ってのけるのか。それは即ち、「全ての国民が自分のことは全て自分で行い、全ての国民が信用に足る規律と節度をもって日々生きていけば済む」と思っているからである。

 これは理想論・空想論ではないか、といわれるかも知れない。そのとおり理想論であり空想論であると自覚している。


 では最後に言おう。

「だったら、“公務員要らない”という奴は空想論者だと認めるんだな。」


筆者の横から奥山が割って入ってきて、著者の一番美味しいコメントを奪っていった。



 7月17日(水) 強制募金制度 


「はい、一人100円でーす。」

 バイトさんが陽気に各係を回っている。手には緑や青や赤の色とりどりの羽を携えている。強制とは決して言わないが、拒否することは許されないという暗黙のルールが存在する。

「この募金の使途(及び決算報告)を我々募金者に報告する機会はないのか?」

 とバイトさんにアジって詰め寄ったとしても所詮は虚しいことであり、あまり言い過ぎると、バイトさん仲間たちから、せいぜい

「細かくて面倒くさいケチ男」

 というレッテルを貼られるのがオチである。横で奥山が大量の一円玉を持ち出しては、

「俺の募金が一番重い。」

 と専用の封筒にそれら一円玉の山を流し込んだ後豪語していた。ヤクルトのおばちゃんが職場を巡回して半ば強引においていく豆乳のおつりで積み重ねた一円玉、もう銀行に持っていっても果たして換金して貰えるか定かではない一円玉を“募金”として蘇らせることが、彼なりの、この切ない公務員による『強制募金システム』に対する“最大限のレジスタンス”であると友田は解釈した。



 7月18日(木) 年功序列 


 「年功序列」とは、年を取る毎に経験を蓄積させ、より滋味溢れる洞察により言動が可能となるはず、という古来より我が国で継承される儒教思想を色濃く反映された雇用形態である。

 公務員は基本的に年功序列である。よって、勤務年数により概ね職階が配置され、かつ、給与体系が定められている。

 よほど特出した事蹟のある職員を除き、ポストが空き次第勤務年数の長い者から順次あてがわれることとなる。

 ただし、最近はその伝統が崩れ、団塊世代の大量採用がイナゴのようにポストの大多数を食い尽くし、かつ、バブル崩壊後の右肩下がりの景気や無計画な新規採用減というコストカットにより、どの自治体も平均年齢が50歳代という信長が聞けば腰を抜かす年齢階層となった。

 さらに、“女性の社会進出”という俄にあふれ出た社会問題の安易な対応策として、一部の当たり障りのない中間管理職ポストについて、その場に偶然居合わせた適齢期の女性に対し、そのポストの適性とは無関係にねじこむ、という無策を講じた。

 その結果、我が国の公務員体系、特に地方自治体組織は、“良き伝統”もなければ、欧米の“プラグマティックな経営論”も存在しない、古今まれに見る歪な組織体となってしまった。

 その目まぐるしく変化する歪な現代社会の構図に、最も不利益を被ったのが団塊ジュニア世代の男達である。

 幼少から、多数いる同級生との熾烈な競争を宿命づけられてきた彼らが、社会人となってからは、団塊世代の年功序列の分厚い壁に阻まれ、ひたすら堪え忍んだ末、中年となった40代になって俄に襲ってきたウーマンリブの津波に木っ端微塵に溺死することとなった。


 年功序列には、ひと言で言うと功罪がある。メリットもあればデメリットもある。日本型経営は、個を殺して組織に順応することを美徳とし、組織もその滅私奉公に雇用確保と年功序列をもって報いる。右肩上がりの単純な成長モデルの場合、この方式は大変顕著な成果を残すこととなった。ところが、バブル崩壊以後、成長と物価の右肩下がりが常態化し、制度変更が“絶対善”と定義化される現代社会においては、年功序列は害悪の方が大きい。


 「個人の実力があるにもかかわらす、それが認められないというこの社会の仕組みは、まさに“構造ヒエラルキー”と言っても過言ではありません。私は、このような閉塞的な“機会不平等社会”に鉄槌を喰らわせるため、意を決して断固立ち上がることをここに誓うのであります!!」

奥山は、性懲りもなく新党旗揚げの党首のように、埋められることのない空気に向かってアジテートしていた。友田は、この癖が強く、またアルコール度数の高いこの“酒”を、水やお湯で割ってもどうやら飲み干すことは困難であると確信したところであった。



 7月19日(金) ご病気の方々 


 県庁では、席はあるけど仕事のない人が沢山いる。そういった方々を“枠外”と呼称するが、このような方々にも、より詳細なカテゴリーが存在するので、ここで掲出しておく。

(1) もともとご病気な方(以下「DQN」という。)

 入った時点で既に御病気であった者。『じゃあ何で採用したんだ?』と至極当然の疑問が湧くことだろう。結論は人事課の“採用ミス”である。

 ただし、最近までの採用は、市町村のように首長や地元有力者による“縁故採用”とは異なり、国や県庁は、“人事委員会”という試験の成績を重視した採用方式(中国の科挙制度のようなもの)となっていたため、仮に試験の成績さえ上位であれば、どんなDQNであったとしても採用されることがあったという。

 この採用方式をとっていた理由は、ただ単純に“統計学上、採用者の一定割合で必ず当たりがあるから”だそうだ。“ハズレ”は、出世に伴ういずれ淘汰されるから問題ない。ということだ。

 ただある時期余りにもDQNの採用確率が高くなったため、事態を重く見た人事課は、このままでは他職員がDQNをフォローしきれない数になると思ったらしく、後日『人物試験』なるものが採用された。以後明らかなDQNは激減したが、依然としてその時採用されたDQNは未だ在職のうえ録をはんでいる。

(2) 最後が見えてきてスローダウンした方

 入った時は希望に燃える若人だったが、運悪く上司に恵まれなかった者が思ったような評価が得られず、やがて同期の後塵を拝するようになり、次第にネガティブ思考となった者。まれに赤く(左に)染まる者がいるが、この場合県職員としては明らかな“終わり”となる。

(3) 頑張ったがオーバーワークした方

 もともとキャパに問題はあったものの、運悪くがむしゃらな上司(自分に優しく他人に厳しい者、或いは発言に責任を持たずすぐ部下のはしごを降ろす者)に出くわしたり、災害などの突発的な事務が大量に発生したことにより、つい一時的にオーバーワークしてしまい、結果としてメンタルとなってしまった者。

 いずれにせよ、県庁で御病気な職員を思いやる余裕などはなく、いつ自分がなってもおかしくないので、彼らを手助けすることもなければ、制度設計に反旗を翻すこともない。

 そのうち、ご病気名方々は、旧家の地下室で一生を過ごす精薄の御曹司の如く、ベッド(仕事の殆どない課や出先機関のこと)へと連行される。その後彼らは、大抵復帰することは困難で、そのまま退職までその余生を送る。

 昨今世知辛い世の中でもあり、現在“ベッドは満室状態”となっており、介護士(“ベッド”という名のその者が座る席の隣で彼らのお世話をする職員のこと)の数も慢性的に少ないため、この“患者”が間違っても、入院にあぶれて自分の隣の席に異動してこないことをただ祈るのみである。



 7月23日(火) 弘済会という人たち 


 「こうさいかい」と読む。この会社(?)が何時始まって、何をコンセプトに、どういう目的で存在しているかなど、この団体の実態は良く分からない。どこにでもいる。何でもやる。会社登記簿上『株式会社』となっているが、県とあまりにも距離が近いので、“団体職員だったっけ?”という錯覚すら覚える。

 昨今の不正支出撲滅の世相を踏まえ、地方自治法が近年改正され、これまでのように、支出担当者が「何となく委託(随意契約)」という技を使えなくなり、代わって「指定管理者」と呼ばれる制度下の者が「ハコもの」などを管理するようになった。

 自然行政に密着していた「なんとか団体」なども戦々恐々となっており、上記「なんでも株式会社」である弘済会なども生き残りをかけ、制度改悪で誕生した“電子入札による一般公募入札”制度で台頭してきた“価格至上主義でサービスそっちのけ”の、いわゆる“いちげん会社”とノーガードの攻防戦を繰り広げている。

 一方、弘済会は、県職員のお偉いさんの天下りを受け入れいているという見返りとして、県庁地下の売店やレストランなど福利厚生施設を独占的に使用しており、よって県庁の周りにこれといった飲食店がないことをいいことに独占企業となっているにも関わらず、商品の価格に還元することもなく、赤字経営となっているのだそう(一説には天下り職員の給料があまりにも高すぎて、黒字化できないのだともいわれている)

「県庁の地下に吉牛やマックを誘致してくれって要望しているんだがなあ」

 奥山の希望は、決して管財課に届くことはないだろう、友田は何となくそう思った。



 7月24日(水) 動員について 


 “○○県議”肝煎りの団体が主催する大会とかがある。これに参加する人が少ないと、呼ばれたパネリストなど誠に寂しい思いをすることとなる(勿論先生の立場もない)

よって、関連する部の筆頭課の庶務あて、「100人ほど用意しておけ」という命令が県議の秘書を通じて(又は議会事務局の担当補佐を通じて)降ってくる。

 すると庶務班長が各課庶務担当班長や市町村などに連絡をとりまくり、何とか指定の人数を確保するべく日中精を出す(まあこの方々は、いわゆる“通常業務”がないので、この手のボランティア要因というべきか)。

 たまらないのは市町村の総務課長で、県庁などのいろんなルートから同じ大会のオファーが来る。総務課長としては、“体は一つ”なので、どのオファーに出席の回答をしたらいいか、に困惑する。結果、全てのオファーに「出席」と回答すると、取りまとめの末、申込み数では満員御礼だが、職員が重複しているので、実際に集まってみたら“がらがら”、といった笑えない話もある。

 テレビのニュース映像などで、面白くなさそうなタイトルのフォーラムや、国のキャリア様が基調講演などをされる大会に参加している人たちがいれば、それは大抵“動員の公務員”だと言っても過言ではない。



 7月24日(水) 災害待機 


 「梅雨はまだ開けんのかいっ!!」

 窓際から曇天を眺めながら、奥山はそう吐き捨てた。一般的に太平洋側の地域では、6月から7月にかけて梅雨のシーズンとなる。これに伴い各自治体では、集中豪雨や台風など自然災害による人名財産を守るため、通常より厳戒態勢で備えている。

 表題の“災害待機”とは、この備えをシステマティックに行うための班編成であり、災害対策基本法に基づく公務員の務めである。


 県庁では、各部局単位で班編成を構成することとしているが、特に土木事務所など緊急対応が必要な部署では、個別に班編成が組まれている。

 また災害待機の班編成は、大抵各部の筆頭課庶務班がこれを取りまとめることとなっているが、仕事を振り切れない庶務班長などは、梅雨の間カンヅメとなって県庁で寝泊まりする羽目になる。

 ただし、恒常的に金欠な独身職員などは、100%時間外手当が支給されるこの待機を好んで行っており、例えば土日に夜通し待機するならば、ただ座っているだけで30代半ばで3万円程度の臨時収入が転がり込んでくることもあるという。

 逆に土石流などで川が決壊し、孤立集落が発生した際に、不運にも災害待機班となってしまった職員などは、夜通し緊張した対応や現場付近への視察、災害対策本部への連絡などを行った挙句、翌朝通常勤務をしなければならない状況もあり、まことに一喜一憂である。


 さらに、気象庁では、梅雨時期の大雨警報を解除しない傾向にあるため、2班体制の土木事務所などでは、100人程度の職員がいるにもかかわらず、一週間程度で一巡してしまう。


「一日中フリーセルしておけば残業がつくというこの災害待機、俺と一緒でまさに“待機マンセー(大器晩成)”ですな。」


 不謹慎かつ低俗な冗談にご満悦の奥山であったが、これまで待機したなかで、災害対応をしてこなかったのは、まさに悪運の持ち主なのだなと感心したともだであった。



 7月26日(金) 労働組合の中の人たちその1 


 公務員には労働3権がない。

 といっても平成の今頃になると、本気で労働権の保持に取り組んでいる人は民間でも殆どいない。むしろ政治団体と化して、政治との癒着や組合間での内輪もめ、組合内での内ゲバなどが繰り広げられている。特に“県職労”については、もはや旅行サークルか人事課の御用組合と化し、組合専従職員(一旦県職員を離籍して組合活動を行う者)などは、“県庁での出世の近道”と揶揄される状態である。

 組合費も月給の1%前後なので、年収500万円なら年間5万円というかなりの出費である。そのため、専業主婦の奥様方からすれば、バカにならない出費である。

 しかしながら、こういった組合組織は簡単に離脱することができない。例えば離脱をほのめかそうものなら、組合の委員長から直々に連絡があり、

「組合は決して人事上の報復はしないが、脱退するのであれば、せめて理由を聞かせてもらえないか?」

などと微笑みながら語りかけてくる。

 “人事報復はしないが”のくだりは、一歩間違うと(或いは間違わなくとも)

「理由次第では人事報復するからね。」

 とも聞こえるし、そもそも組合に人事権があるともとれる発言にも聞こえる。


 7月29日(月) 労働組合の中の人たちその2 


 財政再建の折、事件は職員のための福利厚生施設である“職員住宅”の値上げの際に起こった。

 まずは職員課の説明の説明があった。それによると、値上げの背景には、今の職員住宅が民間の賃貸相場に比べ安価であること、また建設に要した費用を現在の家賃で賄うためには、あと100年以上必要であること等を理由としたものであった。

 そもそも福利厚生を目的とした住宅の場合、国家公務員や大企業がそうであるように、上記理由で家賃が決定されるものではない。

 しかも、“100年以上の”という論理に至っては、当初の家賃設定の段階で判断すべき事項であって、社会的背景など他の要因が変化していない10年経過時点で改めて議論されるべきものではない。


 なおこれに関し、住人である職員から、当然に組合に対し福利厚生当局との交渉を要望した者がいた。本来組合は、こういった職員の要望を踏まえ“値上反対”の交渉を行う団体だ。ところがその組合の委員長は、要望してきた職員に対し、驚くべき次のようなコメントを発した。


 「こんなご時世だから値上げは仕方がないよ。実は僕は職員住宅管理団体の役員でね、住宅管理の適正運営をしなければいけない立場なんだよ。」


 組合の委員長は、そう言って穏やかではあるが威圧的に職員への説得を行った。


 余談だが、職員組合では常に元組合員である県議会議員や市議会議員を支援しており、統一地方選挙前などでは、職員へのケアよりも選挙活動を優先して行う。

 因みに、当該議員が出馬する選挙の際に県職員である若手の組合員は、各戸を訪問のうえビラ配りなどの政治活動を行っている。伝統的に当局からも黙認されてはいるものの、これはれっきとした地方公務員法違反である。

 県職労は、日本労働組合総連合会(いわゆる“連合”)の傘下であるので、議員はみな民主党系のとなるのだが、先日支援している県議が擁立母体である組合の支部総会に招かれた席で以下の仰天する挨拶があった。

 「県財政厳しき折、県職員も更なる綱紀の保持に向け、県民の厳しい目が注がれているところでございます。今後給与カットなど県職員にとって、益々厳しくなることが予想されますが、何卒“公僕”であるという自覚とプライドを持って、精進していただくことを望んでおります。」

 一瞬“総務部長訓辞”かと錯覚する内容である。現職の県議、組合から擁立された政治家が、まさかの当局目線である。

 県民に対し、公僕の自覚と公務員としてのプライドを持って仕事をすることは、地方公務員法の精神であり、矜恃であるのでそこは否定しない。ただし、

「お前が言うな!」

 である。何を勘違いしているのか。お前の顧客カスタマーは県職員であり、決して県民ではない。

 どれだけ変なことを言ったのか、を例示してみたい。


 農協推薦で選出された自民党の県議が、農協のある大会の来賓挨拶において、

 「農業関連におけるTPPの適切な妥結は、農業強化の不可欠な要素です。農家は、補助金漬けになるべきではなく、農協に安易に依存せず、各々が経営感覚をもって国際競争力を付け、消費者にとって優良な供給者とならなければならない。」

 と発言するぐらいぶっ飛んだ発言である。


 「要は、もう県職労は要らないんじゃね?」


 奥山の驚愕のコメントに、慌てて物品倉庫へ駆け込むしかない友田であった。


 7月30日(火) 7人のサムライその1 


 仕事上友田は出先機関へ電話を掛けることが多い。この日も所用で市内の出先機関へ電話を掛けた。電話が繋がると不機嫌そうな低音が友田の鼓膜を揺るがした。


「はい」


 友田も新採職員の頃、『接遇』という研修を行った。そして社会人としての対応を身につけてきたところだが、名乗りのない電話応答ほど不安なものはない。友田は、改めてそれを実感し、思わず聞き返した。


「管理課・・・ですよね?」


「・・・そうですが。」


 応答したその男は、電話口で怪訝そうに反問した。

 友田は湧き上がる不快感を抑えながら、目的の担当者名を告げた。しばしの沈黙の後、受話器の声は、聞き慣れた担当者のものと替わった。


「今のは誰ですか?」


「ああ・・・研修生ね。」


 最近人事課では、“仕事をしない者”を処分する英断に踏み込んできた。

 因みに公務員は、自らの職責においてなされた行為につき、重大な過失がない限り責任を追及されることがない。これについては一長一短あるが、とにかく公務員という職業における根源的なシステムである。“仕事をしない者”とは、これを逆手にとって、欠勤や暴言、着服など特に失態はないが、組織が希望する目標には到底達しない者をいう。

 今般、そのような者の中でも、職務怠慢が明白な者を調査のうえ、遂に“7人の職員”がリストアップされたという。

 友田が電話で応対した男こそ、業界内でまことしやかに流布されている、その“七人のサムライ”の一人なのである。



 7月31日(水)  7人のサムライその2 


 この職員には、所属長の監視のもと、更生のための一定のカリキュラム(研修)が課され(といっても、簡単な仕事や電話の応対などバイトさん以下の仕事であるが)、日々上司(係長)による成果報告書が人事課に送付される。

 実は“更生”とは名ばかりで、実態は成果が得られない場合は、容赦なく分限処分(民間でいう解雇のようなもの)を課していくというもの。しかしながら、何故このようなまどろっこしいカリキュラムを経ていくのか、というと、公務員の本質に根ざす問題が根底にある。


 公務員は、現在“仕事ができる”という尺度がないか、または極めて判定が困難な職種である。大企業の経理部局や総務部局でも同様のことが言えると思うが、営業成績など客観的指標で優劣を判断するものに比べ、“何をもって優れている”かを判断することが大変難しい。

 よって、いわゆる“使えない職員”を辞めさせる場合、人事課は、“何故この職員が使えないのか?”について、裁判などで立証する必要がある。

 つまり、この“更生カリキュラム”は、人事課が分限処分を行う際、裁判で“その職員のダメぶり”を証明するものであって、同時に更生カリキュラムをこなすことにより、対外的に“ダメではない”という証拠にもなる。つまりは“職員のリトマス試験紙”なのである。


 件のサムライも、まさか50半ばにして新人のような電話応対をさせられるとは思いもしていなかったであろう。


「あいつは新採の頃はサバける奴だったんだけどなあ。」


 サムライと同級生の課長(直属の上司)は残念そうに語った。

 友田は、サムライが現在も精神病院に入退院しながら、崖っぷちで電話対応させられているという状況を聞くと、まるでベトナム戦争で傷痍した軍人がアメリカ社会から阻害されている状況と重なって見えた。

 この平和な日本にあっても、サラリーマンという名の兵士たちが戦場で戦っているのだということを思い知らされる友田であった。

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