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県職員友田潤一郎の毎日  作者: 波辺 研心
3/8

(6月)

 6月 3日(月) 夏休なつきゅう 


“なつきゅう”、と読む。


 意外かも知れないが県庁にはお盆休みがない。その代わりとして、“夏休”という制度ができた。

段々と拡充や対象期間が幅広くなっていき、最近では6月から10月まで夏休を取得することが可能となった。期間も3日から始まって5日へと拡充された。


 日本人が働き蟻と揶揄されて久しいが、24時間営業で点灯している県庁舎を見るにつけ、公務員が率先してワークシェアリングを、そろそろ本気で導入する時期に来ているのではないのかとすら思う昨今である。


「メールが・・・なになに、今日から夏休みが取れる・・・か。」

 総務班から一斉送信された、夏休みに関する通達を読みながら、奥山は何やらブツブツと念仏のようなものを唱え始めた。

「土日と夏休、年休を寄せ集めると、何とこの休日のない6月ですら、まるまるお休みとなってしまうのだ!!」

 それから、奥山の暴走が止まらなくなり、

「そのまま産休に入ってしまえば、7月もまるまる休みになってしまうという、夢のような夏がやって来るのです!!」

 と言ってのけた。


 湿気の多いこの季節に、スッキリとしない奥山の冗談が耳をつんざき、もはや“男性は産休を取得できませんが”というツッコミすら、挿入する元気の失せた友田であった。



 6月 4日(火)「開示請求」という名の“テロリズム”その1 


 世にいう天下の悪法がいくつかある。『行政機関の保有する情報の公開に関する法律』などはその好例で、各都道府県にもこれに準じた条例があり、各位これに従って情報の開示に努めなければならないこととなっている。

 一般的には、

「行政の情報が公開されるのだからいい法律じゃないか」

 とお思いの向きもあろうかと思うが、国民すべからく善良な人間だけでなく、むしろ、このような制度を悪用した愉快犯や、老後の生き甲斐としてコミュニケーションを求める者が少なからずいて、これにより職員の精神的な苦痛だけでなく、行政コストの面においても、尋常でない出費を強いられているのが実態である。

 意外と知られていない実態として具体的に例示したい。例えば、

・ 情報開示の請求には、目的が不要!!

→ 目的は何だっていい。“興味本位”でもアリ。人の迷惑を気にしない人であれば、好きなだけ“公務員たたき”が可能となります。ちょっとその気になれば、2,3人の県職員は病院送りにすることができます。

・ 情報料はコピー代のみ。1面当たり10円と超激安!!

→ 閲覧だけなら無料!!交付を望むなら1面当たり10円~(カラーコピー30円~)。自分でコンビニに行っても1枚10円はかかるので、自分で図書館行って調べてコピーするより、この制度を利用した方が断然お得!!だって行政に頼むとコピーの失敗も不要で手間賃込みで10円/面~なのだから。

・ 情報開示の請求方法は至って簡単!!インターネットでポチ。

→ 開示請求したい行政機関のホームページから申請用のサイトに入るだけ。原則24時間365日対応!!郵送希望なら自動的にあなたのポストに!!

・ 開示の決定に至るまで、土日祝日を含め、請求日から何と15日間(国は30日)!!

→ 通常の行政のイメージではあり得ないスピードで、あなたのニーズに迅速に対応します。だって条例に締切期限が書いてあるのだから。

なお、行政に嫌がらせがしたければ、仕事納めの12月27日(金)に請求した場合は、決定期限まで、実働で5日間!!これではもはや物理的に不可能。延長は45日(国は60日)できるが、延長するだけの相当な理由が必要。

・ 開示情報は個人情報がある場合など限定的だが、不服申立てはいつ何時でも可能で、その審理は何と民間人が行う!!

→ 個人情報など不開示情報は墨入れのうえ個人情報等を保護することとしているが、これを不服として申し立てた場合、基本的に民間人で構成される審査委員会という外部機関において審議されることとなる。その場合、“何故不開示である個人情報なのか?”について、徹底的に説明を求められるので、その労力は計り知れない。

・ 求める情報は“うろ覚え”や“いい加減な情報”でもOK!!行政で推理いたします!!

→ 申請時、請求者は『支払いを記したもの』とか、『給与みたいなもの』という直感的な表現でもOKで、担当者が申請者の望むものを推測のうえ、それを用意してくれる。それはまるで、“タダで何でもしてくれる有能な秘書”を雇ったようなもの。県庁には大体の情報が詰まっているので、思い立ったら迷わず情報開示請求へクリック!!

以上がこの制度のあらましである。くれぐれも念を押して申し上げるが、行政サービスの一環としての“見える化”は、今後の公共サービスとして必要欠くべからざるものであり、望ましいトレンドでもある。

 しかしながら、この制度の“悪法たるゆえん”は、制度そのものの存否ではなく、「請求者は常に善人で、必要最小限の情報を合理的且つ端的に請求するに違いない」と信じて疑わない条文の書きぶりと、「行政は常に悪人で、隙あらば情報を隠蔽し、極力都合の悪い情報や有益な情報を外部に発出したがらないはず」と信じて疑わない条文となっていることにある。



 6月 5日(水)「開示請求」という名の“テロリズム”その2 


 統計学的に国民の約1%(約100万人)はアウトローであり、滞納者であり、非常識人である。何度も言うが、その約100万人のうち約1%(1万人)がこの制度を利用して“憂さ晴らし”や“腹いせ”、“ストレス解消”をした場合、通常の業務が滞り、これによって公共サービスが受けられなくなる者がいたり、これに公務員が(残業等により)対応するため、毎年現に、残りの99%の国民の大切な税金が投入されているという“哀しい現実”を考えると、“悪法”振りが御理解いただけるのではないかと思う。

 冒頭の“テロリズム”とは、『政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義(大辞林)』をいい、その語源となった“テロル”とは、『暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること(大辞林)』をいう。 現時点において、愉快犯の犯行などを未然に回避することができない制度である以上、“条例”を後ろ盾として “絶対善たる請求者”が、“ストレス解消”や“腹いせ”という明らかな故意の目的達成のため、“膨大な量の資料の提供”という見えない暴力により、行政に対し脅威に訴えるという行為は、果たしてテロリズムの定義に外れたものでないと誰が言い切れるか?

 なお、住民票の請求は、1枚当たり300円程度のコストがかかるが、発行に要する行政側のコストは10円に満たないので、行政側は請求して貰えばそれだけ“得をする”ことになる。

 また、裁判所に嫌がらせのように訴訟を申し立てたとしても、1件当たり約1万円程度の証紙貼付けを、また弁護士に依頼しようものなら、1件当たり50万円程度要するので、嫌がらせの前に破産してしまうのがオチである。

 さらに、警察署や自衛隊に嫌がらせした場合は、“公務執行妨害”で即時逮捕されるので決してやらないことをお勧めする。

 しつこいようだが、開示請求という大義名分により、行政機関に対する“嫌がらせ”や“ストレス解消”は、全国の自治体或いは国の行政機関において“可能”であり、この犯行を未然に排除することは現時点では“不可能”である、ということを言いたい。

「俺は県庁をクビになったら、腹いせに毎日のように1万枚以上の開示請求を求めていくつもりだ!!」

 奥山は、不敵に笑いながらそう言った。友田は、『この人なら本当にやるのではないか?』というおそれから身の毛もよだつ思いがしたが、後ろの窓際席で聞いていた橋本審議員は、『どうせ俺は、あと2,3年で辞めるから関係ないや』という顔でニヤニヤしていた。



 6月 6日(木) “批判”は“思慮深い” 


「それでは外部に対して説明が付かない。」


 いつものように経理係長の高橋は、そう口癖をいうと“さもありなん”といった憎たらしい表情で奥山を見つめた。自分の席に座るなり奥山が、

「あいつ、今日から徐々に弱くなれ!!徐々に弱くなれ!!」

  という、意味不明な呪文を唱え始めた。


“批判”は、県職員の常套句である。起案した担当者に対して、稟議すべき者は『なぜ』を連発したうえ、担当者が明快に説明できなくなると、上記の口癖を放ち、勝利するというシステムである。

 この組織では、“批判”は“深い思慮”であり、“提案”は“粗暴な挑戦”である。

 よって、さながら県庁には、“起案者”という、大それた変革を企む野蛮な荒くれ者がいて、街を荒らし回っているとする。

 そこに深い思慮をもった“批判者”という保安官がいて、正義の名の下にこの“起案者”という悪を成敗するのである。

 そして負傷したこの荒くれ者である“起案者”に向かって、この思慮深い“批判者たち”があざ笑うのである。


 実は、公務員が変革を求める、ということは“悪”なのです。昨日と同じ明日を望むのが、思慮深い“批判者”たちの“あるべき姿”なのだ。

 そして、“負のスパイラル”は公務員の責任でもなければ想定すべき事態でもなく、“社会の停滞”は“この国の美しい姿”なのである。


 嗚呼、斜陽万歳!!



 6月 7日(金) 県職員の“ラブ事情” 


 今日は、出先からやたらと来客が来ると思っていたところ、果たして今日は金曜日であった。

 県内各地の勤務地に散らばっている県職員たちは、大抵県庁所在地周辺のベッドタウンに“我が家”を構えているため、“異動命令”によってやむなく単身生活を余儀なくされている者も多い。特に離島の多い県などは、這々の体で都落ちし、霞を喰う生活をする者も少なくない。

 また独身で遠隔地の県の機関に勤務することとなった者は、妻帯者を“現地調達”する者もいて、反対に県庁所在地から遠方の地方都市などでは、こういった県職員を獲物とした“狩人臨時職員”も数多く存在するという。

 結果、県庁周辺にて居を構えた愛妻家で単身赴任の職員は、金曜日がくるのを指折り数えて待ち、当日になると落ち着きがなくなったうえで、大量の洗濯物を土産に『打合せ会場』がある県庁へと飛び立つ。

 自然大部分の者が浮き足立っているため、当然のように会議に身が入らない。

 昔は、会議に伴う出先機関から本庁への出張は、しっかりと“旅費の対象”になっていたので『ダブルでおいしい』状態だったそうだが、現在帰省に伴う出張は、“どうせ帰省するつもりだったんでしょ”という理由で支給されない、とベテラン職員が嘆く。


「お土産は 無事でいいのよ お父さん」

 かつて聞いた、ある交通標語が友田の心にしみ入った。



 6月10日(月) お前も働け!! 


 今日は朝からとにかく電話が鳴った。用件は大したものでなく、「送った書類を確認してくれ」といったものから、「街路樹の枝が邪魔だから何とかしてくれ」、といったクレームまで様々で、その対応に友田も大わらわになっていた。

 そのとき、課長席で電話が鳴り、近くで座っている庶務班長が一向に出る雰囲気がなかったため、仕方なく友田は自分の席からピックアップを取った。

「○○だが。課長はいるかね?」

 実に横柄な口調で、電話を受けた友田を困惑させているにもかかわらず、反対に苛立ちを隠さず、“俺が分からないのか?”といった口調で、

「君は誰かね?」

 と凄み(そもそも覚える気など毛頭ないはずなのだが)、狼狽する友田をひととおり楽しんだ後、

「まあ元気で頑張ってくれたまえ。」

 と言って悠然と電話を切る者がいた。

「○○先生だろ?あの人はいつもそうなんだ。」

 忙しい時に存在感を無くしていた橋本審議員が突如、満を持して登場のうえ、某県議について、聞かれもしないのに『彼の選挙区がどこか』から、その風貌や議会での彼の伝説に至るまで子細に説明し始めた。それからどんな用件で何の意図があったかまで推測し、最後に、

「まあそんな人もいるもんだ。大変だから気をつけなさいよ。」

 と締めくくった。友田は心の中で『暇だったら、あなたが対応すればいいのに』と呟いた。



 6月11日(火) 「法律」と「条例」の関係その1 


 一般的には、「法律」と「条例」を区別できる人は意外と少ない。県職員も「法令等」と括って言うことがあるので余計ややこしい(県職員でも違いの分からない者がいるかも知れない)。

 常識的な話から雑駁に言うと、法律は国が作って、条例は県が作る。やや細かく言うと、法律案には大きく分けて、省庁から挙がる法律案と議員立法案とがある。省庁から挙がる法律案の数が圧倒的に多いのはある程度仕方ないとして、議員立法は、若干“情熱に過ぎる”面があり、しばしばキャリア様から、

「あー、あの法律ね。議員立法だったからね。」

 と、いかにも“あとのフォローが面倒だったんだよねーパッションだけで中身が詰まってないから”と木で鼻を括った雰囲気で揶揄される。


 要は、プロの立法屋と政治屋では如何せん質、量共に及ばないという意味であり、これを政治家や政党に同質を求めるのは酷という意味である。

 だからといって彼らが“法律は俺たちに任せておけばいい”と言い切ってしまうと、如何にも長老(官僚)政治的で、如何にも三権分立軽視な物言いとなってしまうので自重している。

 参考までに、キャリアは“事実上の立法屋”だが、本来は行政府の職員であり、モンテスキューのいうガチガチの理屈では、法律を作るのは本来立法府(国会)がすべきである(キャリアはあくまで法律案作成の“お手伝い”をしているのだと思う)。

 そして行政府(国)は、立法府(国会)で作る法律を粛々と動かし、司法(裁判所)は、立法府で作った法律を解釈のうえ紛争を調停していく。

 最近この関係が歪んでいる事例が散見されており、件の行政府(内閣法制局)が作る法律案がその“ブランド”の名の下に国会で素通りされたり、最高裁判所判決の傍論が法律改正の暗黙のプレッシャーとなったりしている。


 条例は、基本的に県議会議員が案を提案するということはない。もしかしたら、制度上議員が条例案を提案できないのではないか、とすら思う(そんなことはないはずだが)。


「県議会議員は、行政のやっていることをしっかりとチェックするよう務めていく。」


 ニュースでとある県議のコメントがあった。一見間違っていない。県民も当然にそう思っている。・・・でも県議はいつ何時も行政行為を変更できる権能がある。それが県議会(=立法府)の力である。つまり県民は、その権能を彼らに付託しているのだ。


 一方“チェックとは何ぞや?”という定義の命題があるが、監視し指摘するだけなら、監査人、外部監査、オンブズマン、パブコメへの御意見などその役割を担う者は星の数ほど存在する。月100万円前後のお給料を貰っておきながら、ボランティアでやっているオンブズマンと同じ事をやるんですか?ということです。要は。



 6月12日(水) 「法律」と「条例」の関係その2 


「○○については、いかがなものか。」


 というのが口癖の県議がいた。“いかがなものか。”とはいかがなものか。何がしたい?どうなればよいのか?貴方は望めば何でも出来る権能を有している。ヤル気さえあれば。

※但し、委員会審議など議運関係については、細かくてややこしいので別の日に論じる。


 話を戻すが、条例である。条例は行政法上法律が認めているものを否定できず、法律で禁止していることを認めることはできない。あくまで“法律の範囲内で”決めることができるのである。

 だから、全国には、地方自治体に対して、法律に逸脱した条例を制定している自治体を相手取って訴訟を提起する弁護士も少なくなく、名誉欲か売名行為かは定かでないが、彼らはなかなかの正義漢であり、誠に面倒臭い。

 そういった制約もあって、戦後“条例”というものは、専ら国がその制定について各自治体をリードしてきた。


『標準条例』というものがある。いわゆる“条例のお手本”である。

 各自治体は、そのお手本を参考に各議会に提案する。法律の条文において、“各都道府県知事が定める”という規定があった場合など、条例を作って法律を補完しなければならないのだ。自治体にすれば“寝耳に水”であり、主体性がない中で勝手に国から無茶振りされる行為である。

 よってこの場合は、国から親切に、件の“お手本”がもらえる仕組みとなっている。各担当者は、国が作ったお手本の空欄に自分の自治体の名前さえ書けば提案ができるようになっている。そのため、条例案上程の手間(知事決裁や法令審査会の付議など)さえかければ特に造作もない。

いわゆる“平成12年問題”が起こるまでは、各地方自治体は実に牧歌的だった。そう言わざるを得ない。

 では、この“平成12年問題”とは何か?これに関してはなかなかボリュームがあるため、次に論じたい。



 6月13日(木) 平成12年問題その1 


 平成12年問題とは何か?地方自治体の職員であれば、必ず身にしみている問題である。要は“地方分権が法律上なされた日”をいう。

「おいおい、今は中央集権の世の中真っ直中だぜベイビー」

 そう思っている諸兄、ある意味貴方の直感は正しい。そしてあなたの認識については一部が不足している。

 以下は、その認識不足な部分や何が問題なのか、について解説する。


 解説の前にまず、“中央集権”と“地方分権”の定義から明確にしたい。


 行政法上の“中央集権”とは、国が行政としてすべき仕事を地方にさせず、自ら行っている様をいう。そして“地方分権”とはその逆で、地方が国に代わってその仕事を行うことをいう。

 実に明快な答えだが、実は1つの解説と1つの闇が潜む。


 まず“一つの解説”だが、行政が行う仕事には、“本来国がすべきだが地方にさせる事務”と、“地方ですべき仕事”の2種類が存在する。

 具体的には、前者の分かりやすい例が“生活保護”である。国民は、憲法第25条に基づき、健康で文化的な最低限の生活をする権利があり、生活保護法は、この規定の上に立脚している。

 生活保護の事務は、一定規模の大都市は“市”、郡部は“都道府県”が行っており、法律にそう規定されている。

 これを平成11年土以前は“機関委任事務”と呼んでいた。

 これまでは、国は何となく地方に押しつけており、かつ地方もこれに甘んじていたので特に問題はなかったが、地方のこの“何となく国に倣う病”を克服するため、平成12年度以降法律に規定して、“国が行う事務の地方への委任”を明確にした。これを“法定受託事務”と呼ぶ。

これまでと何が変わったか?というと、名称が変わったのである。まあ学者の批判は多々あると思うが、著者は学者でないので、詳細は別途各学会で論じていただきたい。


 後者の分かりやすい例が「体育館(国立体育館は除く)の使用料徴収」である。体育館を造る必要性の是非は、専らその自治体で決定し、いくら取るとかの話も各自治体で自由に決める。この場合別に国から依頼されることもなければ、国にお伺いする必要もない。これを“自治事務”という。

要は地方分権とは、この“法定受託事務”が国から地方に移譲しました、ということなのだ。



 6月14日(金)平成12年問題その2 


 次に“一つの闇”について述べたい。闇とは即ち“金”である。

ご存じのとおり、国や地方公共団体の財源は、税金又は借金(国債、地方債など)であるが、国は事務量の割に税収がとても多いので、実に潤沢である。

 国は通常、この潤沢な資金を用いて、「都会と地方の冨の平準化」を行うため、公正な再配分を行う。これを“地方交付税交付金”という。これがなされないと、地方は疲弊し、都会にのみ冨が集中する事態となる。国のこの再配分の手続きは絶対に必要な事務である。

 しかしながら、これのどこが“闇”なのかというと、配分してもなお、国は潤沢にその資金を持って離さず、地方の自主財源(地方税)の乏しい自治体は、この“おこぼれ”を貰ってもなお、“焼け石に水”というのが実態である。


 地方の首長が“権限を地方に”といっているのは、とりもなおさず“事務に見合う金をくれ”と言っているのに他ならない。

 企業のない地方は、コストが嵩み特に利潤を生まない“教育経費”を自主財源で支出した後、優秀な若者を都会に奪われ、その優秀な者達により成功した企業が都会で “税金”という形で冨を還元する。そしてその冨を活用して都会は、更に便利な都市にレベルアップさせる・・・そういう『都会の好循環』と『地方の悪循環』を長年続けてきた。

 先に述べた“自主財源”とは、主に“地方税”のことであり、地方が自由に使用できるものをいう。


 ただし、話が簡単でないのは、“税源を国から地方に移譲すれば万事解決する”とはならない点である。巷間では、『官僚が税を握りしめて地方に金をやらない。官僚制の悪弊だ』という者もいるが、これは30点の回答であり、70点は不正解である。


 税の話は奥が深いので別の日に言うが、ここで言いたいのは、“地方分権が進まない”とは“税源移譲が進まない”という意味で、仕事が地方に降りない、と言う意味では決してないといいたかったのである。


「そろそろ俺の出番かなと思ったけど、そんな難しい話をまだ続けるつもりか~っ!!」


 奥山がよく分からない方角に向かって叫んでいる。何だか気色が悪い、と思った友田であった。



 6月17日(月) 本庁と出先その1 


 県庁には、県庁所在地にある“県庁舎”と、その周辺や各郡部にある“出先機関”というものが存在する。各郡部の主要な市町村には、通常その市町村の役所のほか、県の出先機関と国のそれ、裁判所のやつなど色々な出先機関が存在する。

 また電力会社や電話会社の出先を含めると、意外と結構な数の“役所的なもの”が存在していて、それが周辺の飲食店の経営の柱となっていたりもする。


 国の出先機関は通常“合同庁舎”といわれ、税務署をはじめ各省庁の出先機関が終結している。一方県の出先機関は、通常“総合庁舎”と区別しているが、知っている地元の人は殆どいないというのが現状である。

 たまに外国に行くためにパスポートを取得する必要がある場合や、飲食業などの届出のために保健所に行く必要がある場合に、普通の人は一生に数度総合庁舎に行くことがあり、その時、

「この薄汚い建物は普段何の施設か分からなかったが、なるほど県の出先機関か。」

と初めて知ることとなる。


 そのような一見用なしとも思われる総合庁舎でも、大抵“地元県議会議員” が自分の城という錯覚をもって出入りしている。彼らは一般的に郡部単位または主要市単位区で選出されるのでそういう錯覚を覚えてしまうのである。

 因みに各出先機関の長などは、その地域選出県議の“御用聞き”となって日参するのが主要な用務となっている。



 6月18日(火) 本庁と出先その2 


 一般的に、本庁より出先機関の職場環境の方がより人間的な生活を送ることができる。

また、一般的に本庁より出先機関の方が県民と身近に接する機会が多い。そのため、対人関係が不得意なコンピテンシー“0”の役人は、出先機関においてよりトラブルを抱える確立が急増する。

さらに、本庁は偉い人の溜まり場であることから、中途半端に偉い人が威張るチャンスがない。その点、出先機関の長になると大抵県庁よりも高い位がもらえるので、ささやかながら威張ることができる。

そのため多少出世から遠ざかったとしても、地方で肩で風を切って闊歩することを欲する者も少なくない。


 なお、何故だか理由は分からないが、本庁で同勤した同僚とは通常年賀状のやり取りなど職場外で戯れることは殆どないが、出先で同勤した同僚や先輩とは結構な確立でその後親交を重ねることが多い。

 つまりは、本庁では横と戯れ合う暇がないということか。


「出先ではバイトのお姉ちゃんと戯れていたが、本庁に来るとなかなかそんな暇がないぜー(涙)」

 奥山が職場に何をしに来ているのかがやや不明であるが、出先を一度経験している友田からすると、奥山の言っている意味が分からないこともないだけに、しみじみと往時を懐かしむ友田であった。



 6月19日(水) 脇の下でクルミを割る男の話 


 人が話をする場合、大別して、①人から聞いた話、或いは文物により得た知識を引用して話す場合と、②それらを踏まえて、或いはある程度飛躍して自分の考えを述べる場合の2種類がある。

前者は基本的にその話の所在が明確であり、通常話の冒頭に、「○○によると・・・」という接頭語が付随する。

 一方後者の場合、当該接頭語がないか、又は「俺が思うに、・・・」や、「○○と思う。」という言い回しとなるのが普通だ。

 県庁の場合、仕事上は無論、雑談に至るまで、後者を使用することはまずない。なぜなら、後者の場合、発言の責任者は「自分」であり、その話の根拠や波及した効果に至るまで、これをおもんぱかる必要がある。「○○と思う。」と発言することによるリスクは、大小実に様々だが、前述した「“加点”はカウントしないが、“失点”はカウントする」という人事評価システムに基づけば、自分の考えを表明することは、まさに「百害あって一利なし」なのである(ただしその話し合いなどの場の中で“最も偉い人物”のみは例外であって、その者は通常その集団において何を言っても許されるのである。)。


 よって、会議などでは、まず自分の考えを言うことはなく、ただただ上司の意見に迎合するか、または他人の発言を批判するか、権威のある情報を引用してひけらかすか、である。

そこへきて、会議では、これを統べる座長(課の会議では課長、部の会議では部長など)が「ざっくばらんに思ったことをドンドン出し合っていこう」

 とお決まりのコメントを冒頭に言うのが習わしとなっている。これがトラップであることに気づかない者は、迂闊に自分の考えを述べて周囲から火だるまになるか、エビデンスの不存在又は不備に失笑され、失点を重ねて自爆するのがオチであろう。

 なお、県庁には、「審議員」のなかでも部に一人しかいない「政策調整審議員」という者がいて、通常筆頭課(部を統括する課のこと。)に配属されている。

 この政策調整審議員の主な仕事は、まさに部長と各課長を「調整する」のが仕事で、併せて議会と部との「調整」や「部内の人事の統括」をも任されている「審議員のくせに大忙しの仕事」なのである。

 こう聞くと、何だか大変そうで面倒臭そうな仕事と思われるが、将来の部長への登竜門として候補者は避けて通れない道であるし、“将来を約束された者”というフラグの立つ大変分かりやすい職階でもある。

 その「政策調整審議員」は、まさに県庁数十年のキャリアで培った「失点の少ないエリート」であり、“脇の締まった”者である。無駄なことは一切言わず、自分の考えも求められなければ言うこともない。

 かかる失点の少ない彼らの“脇”は鋼のように堅く閉ざされており、イナバの社員が100人乗っても開くことはまずない。歴戦の強者になると、

『脇の下でクルミを割ることができる』

といわれている。


「俺の脇の下は、タングステン超合金で出来ており、たとえバールをもってしてもこじ開けること能わない。」


奥山は、そういって鼓舞するが、普段の歯に衣着せぬ毒舌ぶりから察するに、豆腐の角でも容易に御開帳する、蟻酸の香りのする“あまーい脇の下”に違いない、と確信する友田であった。



 6月20日(木) シャビーな人たち 


「実にシャビーな話だけど」

 総務省帰りの野村参事が口癖の業界用語を炸裂させている。「シャビー」とは、些末な、あるいは大したことはない、的な意味合いで使われる霞ヶ関の俗語で、洋行帰りのこの方の自慢の一品でもある。

 他に「規定」を「きさだ」と、「削る」を「さくる」と、さらに「除く」を「じょく」など、通常の国語の問題で出題されたなら、全問不正解となるであろうこの読み方について、敢えて普段の会話にぶっ込んでくる。

 要は、法令改正などの最終チェックの際、「読み合わせ(2人1組で言葉一語一語に誤りがないように、読み手と聞き手が取り組む儀式のこと。)」を行うが、言い回しの語弊(「きてい」には、「規定」と「規程」の両方の言葉があり、読み合わせではどちらの漢字かが分からないため)を避けるため、敢えて予め申し合わせている用語である。

 奥山もそんな野村の口癖が妙に気に入っていて、「橋本をさくるぞー」と好んで誤用を嗜んでいる。



 6月21日(金) 「たたき」と「案」 


「これは“たたき”です。」

 そう言って、奥山は、課長に説明するための資料を手渡す。

“たたき”と称している書類は、あくまで“仮の案”という意味である。なお、“案”と“たたき”は仕上がり具合に於いて雲泥の差がある。


“たたき”とは、“案の案”くらいの完成度の書類と定義されるが、これは実際の完成度を意味するのではなく、“未完成のため上司が自由に修正可能”という上へのアピールのための意味で用いられる。

つまり、“たたき”を持って相談に行く担当は、上司からサンドバックになるために、丸腰で戦場に赴くドMである。


 一方、“案”とは、シャバでは決定前の書類と定義されるが、県庁では“ほぼ確定したもの”という意味で用いられる。

 よって、課長に相談する書類を持っていく際に、

「“案”ができましたので見てください。」

 などと言おうものなら、“既定路線のごり押し”と受け取られ、必要以上の些細なダメ出しを喰らうこととなる。

 先の例えで言うと、“たたき”がドMなら、“案”は、全裸で戦場を疾走するド変態である。


“たたき”は、上司が自己顕示欲を満たす有効なツールであり、また部下をいじめる舞台である。

上司に気に入られている部下は、“たたき”がほぼ無修正のまま“案”に移行するのに対し、気に入らない部下の“たたき”は、文字通り“たたく”ための絶好のストレス発散場である。

なお、基本的に“たたき”から“案”ができあがった場合は、“起案書”と呼ばれる書面で稟議され、この書類は、殆どの場合修正されることなく決裁される。

 因みに決裁された書類は“施行”され、通知など各方面へ発出される。



 6月24日(火) 税金のお話その1 


 税金に関する事務は、役所の根源的な仕事のひとつである。


 税金には、国、都道府県、市町村それぞれに税目があり、国税(所得税、法人税、消費税など)は税目毎の法律を、都道府県税(自動車税、軽油引取税など)と市町村税(固定資産税など)は地方税法を根拠にしている。

 余り知られていないが、国税は旧大蔵省、地方税は旧内務省がもともと有していた特権であり、それぞれが独自のプライドを持って各法を維持、継承してきた。

 「根源的な」と上述したが、それが根源的である証拠の一つに、税目の改廃の困難さがある。税を新たに設ける、または税を廃止するという行為は、それはそれは気の遠くなるような工程が必要で、国民のコンセンサスを得ることはおろか、各省内の合意すら困難を極める。

 であるから、政策上の判断により、税率などを変更する場合には、税法上“期限付きの特例措置”として当座運営し、附則改正による延長でもって延々と凌ぐのである。


 かつて、自動車従量税(国税)の税率が約30年の永きに亘り"特例扱い"されている、とマスコミ等により非難されたことがあるが、まさに税法が硬質的であるが故の弊害である。

 なお、技術的な話をいうと、期限付きの特例として国税が変更される場合は、『租税特別措置法』という法律を変更して対応する。

 例えば“消費税”は『消費税法』、“所得税”は『所得税法』にそれぞれ書いてあるが、両方の特例の変更は、まとめて『租税特別措置法』に書くのである。さらに、ほんのちょっとの間(2年間とかの時限的措置等)だけ変える時などは、『租税特別措置法附則』を改正するので、誠にややこしいことこの上ない(附則とは、法律上の「因みに」みたいなもので、一時的な措置とかに使われる)。


 一方地方税は、全ての税目を地方税法に収めた、と先に述べたが、特例の変更は、通常地方税法の附則を改正することで対応する。

 国税に比べて比較的シンプルではあるが、それでも全ての税目が一つの法律に詰まっているので、現行の地方税法を網羅した『地方税六法』は、広辞苑よりぶ厚い、実に壮大でスペクタクルな法律となっている。


 余談だが、ある官僚から聞いた話によると、官僚はとにかく縦社会であるので、先輩の言動は絶対である。また、天下り制度が瓦解する前の近年までは、後輩官僚が先輩官僚を追い抜く“下克上”は殆ど存在しなかった。

 ゆえに、先輩の作った法律を改正するなどは遠慮を通り越してタブーに属する問題なのだ。

 例えばそれが社会情勢の変化であれば致し方ないが、抜本的な改廃は、先輩の“面汚し”のため行われず、マイナーチェンジの繰り返しとなる。

 そのため、つぎはぎだらけの条文の言い回しが次第にパソコン内のゴミデータのようにハードディスクに蓄積のうえデータ容量を圧迫し、結果法律条文そのものが膨れあがっていくこととなるのである。



 6月25日(水) 税金のお話その2 


 税のアカデミックな話として、「申告納税方式」と、「賦課徴収方式」というものがある。

前者は、例えば確定申告のようなやつで、税務署に行って何か書くと後日お金が返って来るというもの(補足すると、“還付金”というものは、そもそも“源泉徴収”という“あらかじめ給料からざっくりと徴収されたお金”があって初めて発生するものであって、源泉徴収されていないのに還付金が発生する、ということは絶対にない)。

 後者は住民税のようなやつで、ある日突然『お金を払え』というハガキ(お知らせ)が来るというものである。


 皆さんによーーく思い起こして頂きたい。

 税務署(国)で取り扱う税目のほとんどが前者の方式であり、地方自治体の税務課(県)でする税目のほとんどが後者である。

 前者のやり方でいくと、究極的には“申告者あなたの自己責任”であり、税金の過誤納は則ち申告者あなたの“申告ミス”となる。

 よってテレビのニュースで、有名人が所得税の申告漏れを指摘されるケースなどは、善意悪意に関わらず申告者のミスとして処理される。

 因みに悪意の場合は、いわゆるマルサが動いてごっそり利子を付けて納税をとられる(追徴課税)か、最悪の場合逮捕(脱税)ということになる。

 反面、後者(賦課徴収方式)の場合は、全てが都道府県知事や市町村長など“課税権者の責任”において行われるので、法改正による制度変更の遺漏は、全てが役所の“ミス”になる。

 だから、課税ミスで市町村長が謝罪することはあっても、所得税の課税ミスで税務署長が謝罪することはまずない。それは税務署がミスをしないからではなく、国の税制度は“ミスをしない制度”だからだ。


「俺は昔税務課の職員だったが、ミスをして上司に恥をかかせることがないように、なるべく税金をかけないように配慮したものだww」


 奥山は自慢げにそう語った。

 要は『仕事をしなかったというだけではないか?』という疑念が湧いたが、面倒臭いので敢えてスルーした友田であった。



 6月26日(木) 税金のお話その3 


 税金には、"課税"と"徴税"という事務がある。“課税”とは税金を課することであり、“徴税”とは文字通り税金を徴することである。地方自治体の税務課には、大抵この課税と徴税にセクションが別れている。

 課税係の主な仕事は、地方自治体が『地方税法』という法律の名の下に、“『税金』という債権”を生み出し、それを対象者(納税義務者)に通知することであり、かつ、一端課税された税金を免除又は控除などの手続きを行うことである。

 一方徴税係の主な仕事は、課税係が指定した期限までに納税しなかった者を“滞納者”と呼び、カード(これを『滞納整理カード』という。)を発行のうえ督促を行うなど納税を促したり、納税額に相当する金品を押収(差押)する事務を行う。

 一般的に滞納者の数は、税目毎に差異はあるものの、成人人口の1%程度とされており、さらにその中で最終的に不能欠損(徴税不能)となる者がその滞納者の約1%と言われている。よって大まかに言って、1万人に1人は、とにかく国民の義務である“納税”の枠外の者であり、どうしようもなく困った奴である(因みに、固定資産税における被災者や自動車税における身体障害者、住民税における生活保護世帯など経済的な理由等により納税が困難である者については、そもそも納税義務が免除されているので滞納者とはならない。)。

 なお、いわゆる“カード発行の常連さん”の中には、例の“指のない方々”が多く含まれる。新米の徴税職員は、その実態が分からないまま家庭訪問(業界用語で“隣戸”という。)するので、虎の尾を踏む者が後を絶たない。逆にベテランになると、次第に“税金を取れない者”が臭いで分かるようになるので、無駄な労力をかけなくなり、徴税経験が増すほどにモチベーションと徴収率が下がっていくというギャップに悩まされている。


 税務課は、課税と徴税という仕事上の棲み分けがなされていることから、次第に互いの仲が悪くなる。正確にいうと、徴税のベテランになると、そのプレッシャーから、カードが減らない(徴収率が上がらない)原因は、そもそも課税をするからだ、という八つ当たり的な論理が横溢するようになり、のほほんと室内で課税の業務を行っている職員を、外回りがメインで汗濁のを徴税職員が嫌悪するようになる。

 逆に課税職員は、年々政策的な観点から控除や減免が猫の目のようにクルクル変わるうえに、上述したように、ミスをすると逃げられない地方自治体の課税環境に置かれている。よって、おびただしい数の納税義務者に対し、夜な夜な新しい法令改正の勉強と課税資料の二重三重のチェックの毎日に、のほほんと法律もろくに勉強せず外回りでリフレッシュ(徴税職員は、自分のペースで仕事ができる営業職のようなものなので、公務員らしくない自由な外回りが楽しめる)している様を見ると、歯軋りを覚えるようになる。


「俺は課税職員だったけど徴税職員から人気があったなあ。だって納税して良いか微妙なやつは俺の判断で全部握りつぶしてやってたからな。いわゆる“推定無罪”というやつだww」


 そういって元税務職員を誇る奥山だったが、一歩間違うと総務部長が謝罪しかねない職員であったことは言うまでもなく、よくぞ無事で今此処にいるなと感心する、或いは悪運の強さにただただ感服する友田であった。



 6月27日(木) 税金のお話その4 


『租税法定主義』

 というものがある。要は、“税金という国家の根幹に関わる大事なものは、地方自治体のような『また者』にはさせてはならず、国の頭の良い一部の官僚が握っておくべき”という意味である。よって、税目や各税率は当然として、細かな控除や免除の規定に至まで100%網羅されており、判断や解釈の余地はない。

 とはいえ、シャバの世界で“100%”と言い切れるものは皆無であり、公言する者は痴れ者である。税の世界もご多分に漏れず(本来漏れてはいけないのだが・・・)、解釈の問題で課税か非課税か、はたまた控除対象者か否かなど、悩ましい案件が多数存在する。

 この場合は通常、総務省へ照会を行うのが常套手段だが、大抵はお国様から(といいつつ、実際は都道府県職員が“研修生”という名の下に下働きされているのだが)あしらわれるか、吸い込んで(受付)も吐き出す(回答)までに半年から1年はゆうに経過するので、お話にならない。

 そこで通常各自治体の担当者は、悩みながら他自治体の同じ境遇の者に聞いてみたり、担当者連絡会議などの年数回の各県持ち回りのブロック会議(概ね道州制の区割りで催される会議)で宴会などを活用して情報交換を行っている。このような会議の場では、各自治体の税目毎(または徴税)の担当者が自腹で宴会の費用を捻出のうえ、円滑なる実務の運用を期すべく、ノミュニケーションにより積極的にサロン活動を行う。そこで成功した者だけが、翌日以降の隣県への電話照会等を行う際に、“いちげんさん”扱いをされずにいきなり本題に入ることができるのである。

 また、本庁において、そのような横の連絡以外でも、県内における事例蓄積を行う必要があり、これが事実上の“行政実例”となる。この作業を怠ると、移動の際に後任に引き継がれることなく、実績が振り出しに戻る。前任の脳みそとカンバンは置いていけないので、結局威光と情報を再構築する地道な作業が後任に課されるのである。



 6月28日(金) 税金のお話その5 


その顕著な例が『家屋評価』である。

『家屋評価』とは、資産税のひとつである『固定資産税』や『不動産取得税』の算定根拠として不可欠のもので、主に税務職員によって、いわゆる「家」に値段を付ける事務を行う。

「家は買った価格があるから、わざわざ役所で評価しなくてもいいじゃないか」

 と考える方もいるかもしれない。確かに一理ある。ただし資産税という税の考え方の根本にあるのは“普遍性”であり、そのときの物価、景気等の変動要因や、需給関係に左右されない価値の創造が必要である、という考え方である。その家屋がある限り、永久にその税に影響する根拠となるため、情緒的な市場価格などにより軽々に価格の設定をすることはできない、という誠に勇ましいスタンスなのである。

 よって、壁材や床材の一つ一つに国が設定した値段が付いており、日進月歩の建材市場に対応すべく、日夜関係者が研鑽を続けている。

 しかしながら、シャバの世界はそう甘くなく、国の設定した値段が100%網羅されているはずもなく、結局既存の価格に“当て込む”作業が発生することになる。ここに経験と勘を活かした担当者が、鉛筆をなめなめして、屁理屈をこねて当て込み、補正率を駆使して自由な価格設定をしているのである。

 結局、その先輩の“経験と勘とやら”が誤ると悲惨というほかなく、あまつさえそれが伝統となってしまうと、金科玉条のようにうやうやしく継承されてしまうのである。

こういった租税法定主義の落とし穴に生きる職員が、その行間を埋めるべく四苦八苦している、というのがリアルな世界のお話である。


「俺は家屋評価の伝説の男と言われていた。家を見たら、脳に価格が飛び込んでくるんだ。そう、なぜ飛び込んでくるのかって?それは分からないが、そんな能力を持っている男は、俺の他にはいないんだ。」

 ハードボイルドなタッチで奥山がカッコを付けてそう言った。要は“ろくに計算や調べもせず、思いつきで仕事をしていたんでしょ?って思った友田であった。

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