第6話 王太子一行、ワーグナー領を視察する(前編)
ついに王太子一行は、婚約者であるリグレット居るワーグナー領に視察にやってきた。
ワーグナー領は直轄地であり、王家の土地である。
のんびりした田舎の風景を前に、都育ちの一行は驚く事ばかり。
今回初めてリグレットに会った側近達一行も、リグレットの奔放さに振り回されてばかり。
さて、どんな驚きと笑いが繰り広げられるのか?
王太子一行がワーグナー領を訪れたのは、初夏の頃だった。
王都から10日は掛かるであろう日程を、あの我が儘王太子がよく我慢したと思う程だ。
一行がワーグナー家の屋敷に着いた時は、夕方近くになっていた。
「よく来たな、殿下」
絹の組紐でキリリと結い上げた、肩を越える長い黒髪。父親譲りの紫水晶の瞳。
リグレットは何時ものように男装でアルバを迎えた。
「お前が来いと言ったんだろう?」
ムッツリとした表情でアルバが馬車を降りる。
「確かに言ったが、まさか本当に来るとは思わなんだ」
「父上が……、国王陛下が後学のために見に行って来いと言うからな」
どうやら、本人のノリ気はイマイチのようだったが、国王陛下の命令とあっては逆らえるはずがない。金髪をグチャグチャとかき回しながらボソリと言った。
「澄まぬが父上と兄上は領地を見回りに行っておるでな、戻ってくるにはもう少し時間が掛かる。先に風呂に入って埃を落としてくるよ良い」
「領主自らが見回りに?」
「殿下、何をたわけた事を言うておるのだ。ここは国王陛下から任された直轄地。いわば国王領だ。それをないがしろにする領主がどこにおるか?」
アルバの後ろに控えていた側近達は、2人のやりとりをヒヤヒヤしながら見守っている。王太子に対してこんな言葉使いをする貴族も居ないし、ましてやそれが婚約者の令嬢となればなおのことだ。
「屋敷は狭いが、これも直轄地を任される公爵家の習いだ。我慢せい」
そう言うとリグレットは長い黒髪を翻し、アルバの先に立ち屋敷の中へ案内する。
「本当に狭いな……」
通された客間を見て、アルバが呟いた。王都にある自分の部屋の半分も無い。
「仕方なかろう。この屋敷は本来、王家から貸し出されているものだ。広い狭いの文句も言えぬ」
「王家から貸し出されてる? 公爵家の屋敷じゃないのか?」
「殿下。お主は本当に何も知らんのだな。公爵家は爵位は確かに高いが、与えられた領地の屋敷も、王都の屋敷も全て王家の物だ。我々の財産などではない、財など殆ど無いようなものだ。ま、先ずは直轄地というのがどういう物か、明日からその目で確かめるが良い」
そう言うとリグレットはアルバやその側近が連れてきたメイド達と、ワーグナー家のメイド数名を残して去って行った。
「しかも2人1組で部屋を使うなど信じられない!これで客間と言うのか?!」
アルバは一番の側近、シルグと同じ部屋を使う事になった。
「殿下。ここは公爵家の屋敷で、リグレット嬢が言われた通り本来は王家の物です。それでもリグレット様や旦那様のお部屋より広いのでございますよ」
そう言ってメイドは静かに微笑んだ。
「では、簡単にお部屋の使い方をご説明いたします」
メイドが部屋の隅にある仕切り板を退ける。
「ここがお風呂になっております。ご自由にお使いくださいませ」
「風呂? こんな所に?」
アルバとシグルがバスタブを見ると、お湯を出すための蛇口が着いている。
「何だ、これは?!」
「この屋敷の地下に、お湯を沸かすためのボイラーがございまして、そこから各部屋にお湯が出るような仕組みになっております」
「いや、こんな物は見た事がない!」
「これはまだ試作品でございまして、この屋敷が小さいために出来る技術でございます」
アルバとシグルが驚いていると、メイドは次に枕元にある明かりの説明を始めた。
「こちらの明かりは、このつまみによって、点灯したり消灯したりが出来ます。いちいち火を使わなくて済みますので安全ですし、便利です」
「これだって見たことがない!」
「これもまた地下から魔石で作られた光が魔力を伝わる魔線によって繋ながれております」
「こんな素晴らしい技術があるのに、何故王都には無い?」
「先ほど申しました通り、この屋敷が小さいから出来る事でございまして、とても王城で再現するには無理な段階でうございます。詳しい話しは夕食の時に旦那様からお聞きくださいませ」
そう言うと、メイドは頭を下げ、部屋から出て行った。
「シグル、このワーグナーの屋敷というのはどうなって居るんだ?! お前は何か聞いているか?」
「いえ、何も聞いてはおりません。ただ、直轄地は特別な地だとしか……」
アルバは枕元の明かりと風呂を交互に見つめながら腕を組んだ。
「お食事の時間でございます」
メイドに呼ばれ、食卓に行くとやはりここもそれ程広い部屋ではなかった。だだ隅に方に大きな花瓶があり、珍しくもない生花が溢れんばかりに生けられている。
「殿下、そして皆様方、よくこそワーグナー領へ。大したおもてなしは出来ませんが、どうぞ王家の直轄地を見学なさってください」
ワーグナー家の領主、ブラッドがアルバ達を迎える。金色に輝く髪、紫水晶の瞳。そして何より穏やかで人なつっこい笑顔。
残念ながら兄のスピルは泊まりがけで領地を回っているそうだ。
いくらアルバが王太子とはいえど、今は公爵家の方が位が上だ。公爵を越えるには自分が国王になるしかない。
「まだ皆さんは未成年ですから、我が領地自慢のワインでおもてなしすることは出来ませんが、試作品の葡萄ジュースをご堪能ください」
晩餐に出された物は野菜がたっぷりと入ったスープ、パン、雉肉のソテー、そして黄色い桃のパイだった。
(随分と質素だな……)
出された食事を見てアルバは思った。王城での食事は毎晩のようにこれ以上に豪華なメニューばかりだ。
「殿下。パンは如何ですか? 王城で召し上がるのと味は違いますか?」
たっぷりとバターを付けて食べるパン。少し硬いような、乾燥しているような。
「硬いな。それにパサパサしている」
「そうですか。ならば、まだ改良しなければなりませんね。焼き方か、それともやはり麦自体か」
そう言ってブラッドは静かにパンを味わう。
「あの……、先ほどの部屋にありました風呂と明かりについてなんですが、お尋ねしてよろしいでしょうか?」
シグルが口を開いた。
「あれは、他の公爵領が考えた技術なんですが、まだ実験段階でしてね。一般の領民はおろか、他の貴族のお屋敷で使える程まで完成されていないんです。研究で出来上がった物を実際に使用した場合、どんな不具合があるか、どんな改良をしたら良いかを、我々他の公爵家で実験使用しているんですよ。これがもっと実用的にまで技術が発展したら、国全体が豊かになるでしょう」
「そのような事をどこで? 何のために?」
アルバが思わず食いついた。自分が王になった時に、この技術を国中に広げれば己の名声も上がるが何より国が発展する。
「それらの研究や技術開発は全て直轄地で行っております。研究というのはすぐに金にはなりませんからね。他の領地でやるには難しいでしょう。それと、我が国の国民は他の国と違って魔力が少ない。その魔力を補うためには技術開発が必要なんです」
「では……」
「そう。直轄地全てが研究施設のような物です。我が領地以外の直轄地をご覧になればお解りになると思いますよ」
ブラッドはニッコリと微笑んだ。これは暗に、他の直轄地も視察しろと言っているに他ならない。
次の日の朝の空は、真っ青に輝き高くどこまでも広がっていた。
「さて、馬の準備は良いか?」
リグレットはそれぞれの馬の前に立っている少年達を見る。
金髪、青い瞳の第二王子、ブルックナー。
赤い髪に茶色の瞳、騎士団長の息子、スピーク。
紫の長いストレートの髪、黒い瞳のクーパー。
若草色の長い髪に翡翠色の瞳のヴォイス。
それぞれ、王太子が幼い頃から将来の側近であり、遊び相手でもある。
そしてもう1人、名前は言わないが少しくせっ毛のある茶色い髪にコーヒー色の瞳の少年が、彼らの少し後ろに立っていた。昨日、アルバからは何の紹介もされていないため、ブラッドもあえて誰だとは尋ねていない。
領地の視察というため、貴族の服装ではではなく庶民らしい普通のシャツにズボンという格好をさせられていた。
リグレットもまた、普段通りに皮ズボンに綿のシャツという出で立ちだ。その姿を王太子のアルバがじろじろと見つめる。
「どうした殿下? 何か私に不満でもあるのか?」
「年下でしかも女に身長を越されるのは気分のいいものではないな……」
王城で会った時は気づかなかったが、こうして並んでみるとリグレットの方が2センチほど背が高い。
「では、殿下。これでは如何でしょうか?」
リグレットはアルバの前にひざまずくと、その手を取を取った。
「リグレット・ワーグナー。アルバ王太子殿下をお守りすることを誓います」
完全に騎士の誓いだ。
「止めろ! お前にそんな事をやられると気持ちが悪い!」
アルバは思わず手を引っ込める。
「で、殿下。リグレット嬢は婚約者で公爵令嬢ですよ。それをお前呼ばわりとは……!」
慌ててシグルがアルバを制する。
「ははは! 構わん。婚約者といえども男だか女だか区別が付かぬからな」
リグレットは令嬢とは思えない明るい笑い声を上げた。
「なあ……。本当に婚約者なんだよな?」
2人の後ろでクーパーとヴォイスがひそひそと囁く。
「婚約者というより、喧嘩仲間という感じだな……」
シグルも溜息交じりに呟く。
「まあ、仲が悪いよりいいんじゃないか?」
2人のやりとりをカラカラと笑いながらスピークは眺めていた。
「ではお嬢様、私は先に行っております」
リグレットが乳母から手が離れてた時以来、ずっと専属メイドとして仕えているリアンヌが、昼食を詰めこんだ馬車に乗った。
「後はシュガーがお仕えいたします」
「解った。楽しみにしているぞ、リアンヌ」
髪を三つ編みをほどこし丁寧に結い上げた茶髪のメイド、リアンヌは御者に何か囁くと馬車に乗り込んだ。
王太子と側近達は芦毛や栗毛の目立たぬ馬にまたがったが、リグレットの馬はひときわ目を惹いた。
頭から首、肩にかけては真っ黒い毛をしているが、そこから先、胴体に向けては小さなブチ柄によって少しずつ白い体に見せており、前足は黒、後ろ足は白、そして尾は完全に真っ白だ。
「お前の馬は随分と変わった柄だな」
アルバが珍しそう眺めながら言った。
「軍馬の血筋だが産まれた時は真っ白でな、王族用にと期待しておったが育つに連れて柄が出てきた。これではどこの貴族にも出せぬゆえ私の馬にした」
「魔族ではないだろうな?」
アルバはリグレットがジーノという大型の猫の魔獣を連れているのを知っている。今もリグレットの足下で座っているのだ。
「安心しろ。普通の軍馬だ」
リグレットはポンポンと馬の首を叩いた。
「さて、シュガーの方も準備は良いか? 行くぞ」
リアンヌの下でリグレットのメイドをしているシュガー。今回は途中で必要であろう水やらタオル等を馬に乗せて付いて来ている。まだ10を少し越えたばかりだが、随分としっかりしたメイドに育ってきている。
「はい、大丈夫です、お嬢様」
そう言うとシュガーはメイド服のまま、馬にまたがった。
またがると言っても、そのまま乗るのではなく、馬の鞍の前の部分に付いているホーンと呼ばれるグリップに右足ので膝裏で挟むように掛け、左足はそのまま鐙に乗せる。その乗り方だとスカートが馬上でも綺麗に広がり、姿勢は厳しいが前を向いたまま乗れる。
「ほお。お前の屋敷のメイドは馬にも乗れるのか」
騎士の息子であるスピークが驚いたようにシュガーを見つめる。
「我が屋敷で務めている男も女も、乗馬は必須だからな」
そう言うと、リグレットは先頭に立ち馬を歩かせ始めた。
狭い屋敷の敷地を出て暫く歩くと、目の前に一面の緑色の畑が広がった。
「これが我が公爵家一番の特産の麦畑だ。領地の平地、7割が麦畑になっておる」
「すげぇ、綺麗だ……」
第二王子のブルックナーが思わず声を上げた。
風に揺らぐ麦畑は波打つように美しい。
「今の王家がこの国を治めた時、この土地は麦の生産に秀でておってな。それを見て王家の直轄地としたのだ。ここで収穫される麦の3割が税として王庫に毎年治められる」
「これだけの広さで3割と言ったら、相当な量だろう」
「直轄地にした当初は、それでもこんなに畑は広がってなくてな、何代もかけて麦を改良し、土壌も改良してここまで広げたのだ」
「ここの麦だけで王庫を養ってるというのか?」
アルバがリグレットに尋ねた。
「まさか。ここの領地の畑で冷害や災害で収穫出来なかったらどうなる? 王都を中心とした反対側の直轄地でも麦は収穫されておる。それに、王庫の倉には何かあった時のために3年分の備蓄もある。その3年間、味の落ちない麦を作るのも領主の仕事だ。領民全体で、常に研究がされておる」
ざあっ、という風に揺れる麦が大きな音を立てる。
「リグレット嬢、あれは何ですか?」
クーパーが麦畑の先にある高床式の倉のような物に気づいて指を示した。
「あれは領民のための麦の備蓄だ。王家の了解を得て、毎年少しずつだが5年分備蓄された麦が入っておる。飢饉になった時の領民の食料だ」
「飢饉の時の食料?」
「当たり前だ。飢饉になっても収穫の3割は税として治めなければならぬからな。それで領民が飢えてしまっては元もこもない。王家に許可を頂いて農民と話し合い、ああして倉を作ったのだ。ここだけではない、領地の何カ所にもある」
リグレットは麦の入って居る倉を眩しそうに見つめた。
「昨日出されたパンは、あの倉の中の麦を入れ変えた時のものだ。いくら湿度や換気に気をつけて作った倉とはいえど、5年も備蓄されていた麦だからな、どうしても味が落ちる。それを何とかするのが、これからの課題だ」
(ああ、領地でもやはり同じ事をしているのか)
王都のワーグナー家の屋敷で出されたパンを食べた事のあるシグルが納得する。
「そして、あの低い山の峰に広がっているのが葡萄畑だ。陽当たりも良いし、良い葡萄が採れる」
その葡萄から作られるワインは、ワーグナー家の名産品の一つだ。
葡萄の生産は、ワーグナー家が直轄地としてから始めた。最初は輸入物には中々勝てず、どうしても海外産の物とブレンドするしかなかったが、今では100%国内の葡萄でワインを生産出来るようになっている。
これもまたワーグナー家と領民の研究開発の結果だ。
暫く馬を歩ませていると、畑の中で働いている女性が目に入った。
「おや、お嬢様! 今日はまた他所の領地の方々の視察ですか?」
貴族らしい服装をしていないアルバ達を見て、農家の女性は彼らを視察の一行だと思ったらしい。
公爵家の領地には、時折、他の公爵家や、貴族などが視察に訪れているため、それに慣れているのだ。
「ああ。まだ若者でな、これから領地経営を学ぶために来ておるのだ」
まさか、王太子ご一行様だとは言えず、リグレットは適当に答える。
「そうだ、済まぬがお主の家の玄関の明かりを見せて貰えぬか?」
「ああ、その位なら構いませんよ。是非見ていってください」
「ありがとう。お主も無理をせぬようにな」
「大丈夫ですよ。今日は午前中で終わらせますから」
領主とその令嬢とは思えないごく普通の会話を交わしている姿を見て、一行は驚いたように見つめた。
「お主の領地ではみんなこんな感じなのか?」
「そうだな。領民の声を聞くのは一番大切な事だ。下手に貴族ぶるより同じ目線で会話するのがよい」
麦畑の横にある細い農道を進んで行くと、一軒の木造の家があった。
「これを見ろ」
リグレットは馬から下りると、農家の家の玄関先に下がっている明かりのような物にそっと触れる。
「これは……?」
ガラスで四方囲まれ、それが玄関の軒先に下がったランプのような物だ。中には炎が揺らめいている。
「誰でもライトの魔法が使える訳ではないからな。こうして玄関の軒先と、裏側にある台所の出入り口に油を燃料とした火を点している。これがあれば、夜になっても家の中で明かりが灯せるし、台所では料理の火種になる。風が酷かったり大雨の時にはたまに火が消えてしまうが、そういう時は火の魔術が使える者が灯して回る」
「屋敷にあった光は使えないのでしょうか?」
ヴォイスが揺らめく炎を見ながら尋ねる。
「あれは光の魔力を貯める魔石が必要だからな。普通の農家ではその技術はまだ無理だ。まずそれだけの魔石が無い。研究はしているが、そう直ぐに実用化はされぬだろうな。それにこの灯りは家と家とが離れている田舎だから使えるのであって、王都のように建物が密集している場所では火事の危険もある」
「確かに……」
「必要とされる魔力が使えぬ者のために、どうすれば良いかを考え研究するのが直轄地の役割でもある。普通の貴族の領地では金も掛かるだろうし、実際可能になったとしても特許を取られたり、領地から出さなかったりで一般の住民ではそうは使えぬ。全ての公爵領は王国のための研究所でもあるのだ」
一同は驚いたような表情をした。今まで直轄地の役割は、王家の財産を保つものであって、その領地を管理するのが公爵家だと思っていたのだ。
「まあ。もう少し見て見るが良い」
リグレットが再び馬にまたがると、麦畑の中を進んで行く。
暫くすると、縄で囲まれた畑が見えてきた。
「リグレット嬢、あれは?」
「あれが我が領の研究施設のようなものだ」
そこに生えている麦は他の麦より少し色が薄く背丈も低い。
「直轄地は、王家だけの土地ではない。他の貴族の領地を考え、その土地にあった種類に改良するのも役目だ。今作っているのは王国のもっと北のほうにある領地に植える寒さに強い麦だ。以前から寒さで麦が十分に育たない領地があると王家から聞いておったのでな。ああして土地の一部を使って改良種を作っている」
「出来上がった麦の種は、その領地に売るんですか?」
「まさか。直轄地で作った物を売る訳がなかろう。ここは国領地で公の土地じゃ。改良された種は報告書を提出してもらう変わりに只で分けておる」
「そんな事して大丈夫なんですか?」
「だから、直轄地の税は3割で、我ら公爵家は国から給料を貰っておる。他の領地のように3割の国税に領主に治める別な税が無い」
「済まない……。今まで公爵家というのは、もっと優雅な生活をしているものだと思っていた……」
クーパーがリグレットに向かって頭を下げた。
「それは仕方あるまい。公爵といえば、貴族階級の中では一番の位だからな。だから公爵家というのは、どこも同じように国のために領地を使っている。父上が言うたように、王庫の食を担っているワーグナー領だけでなく他の公爵家の領地も視察してみると良い。色々と勉強になるぞ」
それからは、のんびりと昼食を取るための場所に向かって馬を進めていた。
柔らかい風、緑の香り。王都では感じられないゆったりとした時間が流れる。
その時だった。リグレットの横を歩いていたジーノの耳がピクリと動く。さすが猫型の魔獣だけあって耳が鋭い。
「リグレット。魔物だ」
「森から降りて来るか?」
「ああ。暴走している訳ではないが、このまま森から降りて来れば畑を荒らす」
「そうか。ならば魔物狩りと行くか!」
リグレットは馬の手綱を引き、頭を森の方に向ける。
「ちょっと狩りに行ってくる。慣れておらぬなら、ここで待っているといい。シュガー、ここは任せた」
「はい、お嬢様」
「レイヴン、ジーノ、行くぞ! 上手くいけば今日の晩餐に間に合う」
そう言うと、リグレットは生き生きと馬を走らせ森の中へ消えて行った。
「とても貴族の令嬢とは思えないな……」
リグレットが消えた森を見つめながらヴォイスが呟いた。
「兄さん。よくあの令嬢と婚約したね」
弟のブルックナーも言う。
「まあな……。父王にも考えがあったんだろう……」
婚約の見合いの時にリグレットが言った言葉を思い出し、アルバは呟いた。
「確かにワーグナー家の令嬢は少し変わってるとは聞いていたが、まるで野生児だな。だがメイド殿。いくら側近が付いて行ったとは言えど、魔物相手に大丈夫なのか?」
スピークが額に手をかざし、森の奥を眺めながらシュガーに尋ねた。
「ご安心ください。お嬢様は狩りの腕も一流でございますから」
幼さの残る可愛い顔で、シュガーがニッコリと微笑んだ。
「魔獣を連れて嬉々として率先して狩りに行くとは……」
「とんでもない未来の王妃様だな」
一行は溜息しか出なかった。
一時間ほどすると、泥と枯れ葉にまみれたリグレットが戻ってくる。
「山魔鹿が獲れたぞ。かなりの大物だ。今日の晩餐を楽しみにしておれ」
嬉しそうに微笑むリグレットだったが、着ているシャツに血が付いているのは見なかったことにしたい。
「シュガー、屋敷に戻って獲物の回収を頼んでくれ。腸は抜いて河で冷やしてはおるが全体まで終わってはおらん。目印は付けてあるから場所は解るはずじゃ」
「解りました、お嬢様」
そう言うとシュガーは急いで屋敷に向かって馬を走らせた。
「リグレット。最初に気づいたのはオレだからな、分け前は寄越せよ」
灰色の豊かな尾を振りながらジーノが言う。
「お嬢様、まだまだ獲物への絞りが甘おうございますぞ。血抜きと解体の腕は上がりましたがな」
まるで何ごともない日常のような3人の会話に、シグル達は唖然とするしかない。
(解体したの、リグレット嬢か……。それで、あの返り血が……)
「頑張れよ、殿下……」
隣にいたクーパーがポンとアルバの肩を叩いた。
少々青ざめているアルバをシグルは哀れな瞳で見つめる。
「さて、少し遅くなったが昼飯にするか」
馬を走らせ、その場所に着くと広々とした草原が広がっていた。
低くはあるが山の頂上のため、眼下に見事なワーグナー家の領地が広がっている。
「凄いな、これは絶景だ!」
「王都に居たらこんな光景お目にかかれないよ」
澄んだ空気と風の音。緑の麦畑が広がり、その奥には鬱蒼とした森が広がっている。
普段はめったに領地に戻らず、王都に住み続けている彼らにとって、この田舎の自然風景は特別な物に見えるらしい。だが、その彼らの後ろでリグレットがメイドのリアンヌに絞られていた。
「さて、茶も湧いた所だ。飯にするぞ」
美しい刺繍が施された大きな布をの上にリグレットがどかりと座り込んだ。
1人1人に、中にサンドイッチが詰まった竹で編んだ籠が渡される。パンの間に挟まれたハムもチーズも、どれも味が深い。
「これも、お前の領地で作ったのか?」
アルバがサンドイッチを眺めながら尋ねた。
「税の対象にはならぬ程度の生活に必要な牧畜をやっておる。いくら何でも麦と葡萄だけでは生きてはいけぬ」
答えるリグレットの横で、ジーノが「オレにも寄越せ」とサンドイッチに手を伸ばしている。
「王都も華やかでいいが、こういう田舎もいいもんだな」
ブルックナーがノンビリと体を伸ばしながら呟く。
「ここでの暮らしに慣れると、王都の生活は息苦しく感じる。人は多いし、お貴族様達の視線は邪魔臭いし、領地から出る気が無くなるの」
リグレットのその言葉を聞き、全員一斉に心の中で。
(いや、お前は出ない方がいい)
と突っ込んだ。
「リグレット嬢。先ほど出た魔獣だが、ここではしょっちゅう出るのですか?」
出された紅茶を飲みながらクーパーが尋ねた。
「魔獣なら、森の中に入れば普通におるぞ。ただ、ああして狩るのは森から出て畑や人に害をなす可能性がある物だけで、余程大挙して降りて来ない限り討伐はせん」
「そんなに普通に魔獣が身近に?」
クーパーだけでなく、全員が驚いた。
「都の者は魔獣を勘違いしておるのが多いな。魔獣というのは単なる名称であって人に害をなす存在ではない。この領地のように農耕を主としており、人と森、獣がすぐ近くで生きているような場所では魔獣は自然が生み出した特別な生き物だ」
「特別な生き物?」
ふと誰かの視線がジーノに向けられる。
「言っておくがオレは魔獣じゃないぞ。本来は神の眷属だ。説明が面倒だから魔獣と言っているだけで、大体魔獣なら契約者以外とは会話が出来ないだろう」
ジーノはむっとしたように灰色のフサフサした長い尾を振った。ジーノの体は魔獣と違い常に僅かな光を帯び輝いている。それが神の眷属の証でもある。
「ワーグナー領は農耕を主としているため、土と水の神からの加護を特に受けている。その加護が得られなかった小さな自然の力が原始の土地である森へ戻って行き、森に生きる生物の中に入る。その力を膨大に受けた生物が魔獣と言われる存在に変わり森の中で他の獣達と共生する」
「ではあれは、悪の存在ではないのですか?」
「ない。単に自然の神が宿っただけの特別な生き物だ。だから普段は他の森の生き物と同じように草や木を食み生きている。神の加護を得た土地から出た小さな神は、本来の土地の力を持った聖なる存在に近い。我々がああして魔獣を狩り食するのは、自然の力を体内に得た特別な獣の一種の加護を得ているようなものだ。土地神の加護は土地や作物に。自然の神は獣の中に戻り、食することで人間がその力を得る」
「では、よく世間で聞く魔獣というのはどういう存在になるんでしょうか?」
今度はヴォイスが尋ねてくる。
「あれは領地や土地にいる神々を崇める事なく、祈りもされず敬いもされぬ荒れた祠や小さな社から産まれてくるモノだ。人々から崇めらぬ神は穢れとなり、それが集まり生き物に取り憑いた場合、それが魔獣となる。本物の魔獣は人や全ての物に害をなす存在へと変わる」
「一種の善と悪、のような物ですか?」
「まあな。土地神や、その地を守護する神を崇めなければ魔獣が増えるだけでなく、土地も荒れ、疫病も増え、下手をすれば経済にも及ぼす。王都に戻ったら、その辺りの因果を調べて見るが良い」
これは一種の土着信仰だ。全ての自然に神や霊が宿ると信じられているアニミズムである。
王都に住む事が多く、自分の領地に行くことも殆どない彼らにとって、土地神の加護と経済が繋がっていると考えたことも無かった。王都が栄えるのは、そこに王が居るからであり、王がまた王都にある社を決して無下にはしないからだ。
王都には王都を守る神々がおり、それを王が敬っているからに他ならない。
リグレットからそんな話しを聞いた後、ワーグナー家の屋敷に戻る途中、道の端々にある小さな祠がやけに目に付いた。
そして屋敷で出されたその日に狩った山魔鹿の肉は、鼻を抜けるような自然の深い香りと味わいがしたのは言うまでもない。
To be continue
今回は魔獣について少し独特な世界観を出してみました。
まず魔獣枠であるジーノ自体が本来は魔獣ではなく、神の眷属という扱いなんですけどね。
この物語の中では、魔獣イコール悪、という考えではありません。
魔獣には善と悪の2種類が居て、その違いは自然と信仰によるものです。
ファンタジー物に出てくる魔獣の概念と少し違いますが、日本人だと少し肌というか感覚で理解頂けるのでは?
と勝手に想像して設定してしまいました。
そこの所を楽しんで頂けると嬉しいです。