プロローグ的な
「はあ、異世界いきたい」
これは旦那の口癖だった。
旦那は筋金入りの異世界行きたい勢である。
多感な時期に「クリス・クロス 混沌の魔王」を読んだ事を切っ掛けにフルダイブタイプのゲームに憧れ、そうした機能がこの世に実装されるのを今か今かと待ち続けていた。
旦那は世の中に異世界転生ラノベが流行り始めてから、これも大いに楽しんだ。
転生してもいいし、今の身そのままで飛ばされてもいい。
「俺もいつか、異世界に行ってみたいなあ」
麗しの女神にチート級の超能力を授けられて、現代知識で無双しちゃったりなんかしてね。
しかし、旦那に奇跡は起こらない。
旦那は普通に嫁と付き合い、そして結婚し、嫁の尻に敷かれたり嫁をおちょくったりしながら日々を営んでいる。
「旦那ー! もう目覚まし鳴ったよ、朝だよ」
今日も代わり映えしない毎日が始まる。
嫁の不機嫌な声で目が覚めて、嫁が用意したちょっと端っこが焦げたトーストを齧って、ほどほどに腹を満たしたらワイシャツを着てネクタイを締めてスラックスを穿く。
ちゅーる欲しさに寄ってきた飼い猫の頭を撫でてやれば猫は「ナーン!」と鳴きながら旦那の足に身体をこすり付けてくる。
旦那はそうして猫を構った後に、スラックスにべったりと付いてしまった飼い猫の毛をはたき落として、愛車のクロスバイクを駆って出社する。
(あっやべ、昨日の内に見積もり出すんだった……お客さん忘れててくんないかなあ)
昨日のやらかしを何とかしなければ。
旦那はのそりと身体を動かし、キッチンで何かを焦がしている嫁に「おはよう」と声を掛けた。
嫁は珍しく随分とご機嫌な声で「おはよー!」と挨拶をしたので、旦那は少しだけ驚く。
嫁は低血圧で朝に弱い。いや、それは旦那もなのだが、嫁は旦那より数倍朝に弱い。嫁の朝いちのご機嫌は大体ドン底で、旦那は虎の尾を踏まないように気配を消しつつ嫁の機嫌を窺うのが日常である。
(なんかおかしい)
旦那は惑った。
今日は別に給料日でもないし、嫁の推しがライブをするのはもっと先の日だし、良いことがあったにせよ、朝飯に目玉焼きが付くのは相当ご機嫌がハイレベルなのだ。
嫁の上機嫌の理由を考えながら朝食の席に着けば、旦那に倣うように嫁も着席した。
二人で手を合わせて目の前の食事に「頂きます」と合掌し、どちらからともなくトーストをサクサクかじる。
「あ、今日お弁当いる?」
「え? 要らないよ。今日外回りだし」
「ふうん? 大丈夫?」
「いつもどおり吉牛に行くか、コンビニで買うからいいよ」
「分かったよ~」
旦那は営業マンである為、決まった時間に飯が食える職業ではない。旦那の昼飯は早ければ11時、遅かったら16時を回る。
そんな状況なので、嫁が昼食としてお弁当をもたせてくれても季節によっては腐らせてしまいかねない。
嫁だってそんな事はとっくに知っている筈なのに、何故弁当の有無を聞くのだろう?
2つ目の違和感が重なりながらも、旦那は朝食を片付けて皿をキッチンの水おけに漬けた。
目玉焼きは半熟で美味しかったけれど、下に敷かれていたベーコンがまあまあ焦げていた。そうした嫁に焦げの才能がある事に『いつもどおり』を感じつつ、ちゅーるをせびってくる猫の頭をかいぐりかいぐりし、身支度を調え、旦那は出立の準備を整えた。
「んじゃあ行ってくるね。帰りは分からんけど帰る時には連絡するわ」
「は~い」
嫁がニコニコとしながら靴を履く旦那を見守っている。
旦那はドアの施錠を開けて、愛車に跨がるべく一歩を踏み出し、
「………………」
すぐに家に引っ込んだ。
口をぱくぱくさせながらたった今見えた景色と、嫁とを見比べる旦那。
旦那の動揺に対し、嫁は悪戯っ子が悪戯を成功させたかのような笑顔でにぱっと笑っている。
そしてリュックサックを背負ったまま呆然とする旦那にこう言った。
「驚いたあ~?! なんかね、ここね、異世界らしいよ!」
◆◆◆
自宅のドアを開けば、まず目に入るのは玄関ポーチ。階段を二段下りた所にうちの表札付きのポストがある。
玄関ポーチには屋根があるので、僕の愛車のクロスバイクもここに置かれている。
僕ん宅は35年ローンで買った建売住宅で、僕と嫁がここに住み始めてそろそろ3年程経つ。2階建て3LDKの僕らの城だ。
道路を挟んだお向かいさんはなんとカレー屋さんで、朝からいい匂いがするんだ。嫁と一緒にたまに食べに行く。
緑を基調とした小洒落たお店で、萎びたこの街じゃまあまあ流行っている方のお店なんだけど。
「ない。カレー屋さん、ない!」
「そりゃあ無いよ。えーと、ここはうちを移動させてくれた神様のお膝元だって話だったかなあ?」
そう、本来あるべきアスファルトで舗装された道路は無く、その向こうにあったカレー屋さんも無くなっていた。
代わりに見えたのはなみなみと水を湛えた、透明度がやばい感じの湖だった。
雰囲気は……雨季のウユニ塩湖のような感じだろうか。いや、僕ボリビアに行ったことないから本当の所は分からんけど。
ドアの外から見える景色は荘厳だけど、一般家屋がウユニ塩湖にぽつねんとあった所でただひたすらに浮いている。
扉を閉めて、にまにましている嫁をキッと睨む。
「どこの誰?! 嫁はいつそんなやべえ存在と交信したの?!」
「昨日……今日かな? の夜中だよ。ソシャゲのチャットで出会った」
「おっま、またクソゲーしてたの!? 僕には夜は早く寝ろって言う癖に!」
「すまなんだ」
トンネルの向こうは不思議の町でした、なんていうキャッチフレーズがついた映画を思い出すが、スマホの向こうに高次元の存在が居るとは思うまい。
とりあえず僕は嫁の肩を掴み「知ってる事を喋りなさい!」と怒りつつガタガタ首を揺らしながら、どうしてこんな事になったのかを嫁に喋らせた。
「えっとね、旦那よく異世界に行きたいって言ってるじゃん?」
「……う、うん」
「それをね、ソシャゲのチャットで相談したんよ」
「すんな」
「まあまあ。そしたらね、「ウチくるー? ^^」ってリプがついてさあ」
「今どき^^だと……」
「^^の使い手最近見ないからちょっと気になって、個チャしてみたんよ」
「すんな」
「まあまあ。そしたらね、リプくれたのなんちゃらって世界のうんぱかって神さまらしくて」
「……」
「滅多に人が来ない聖域にダンジョン出来ちゃって困ってたから、遊びに来るついでにダンジョン破壊してくれたら助かるんだって」
「…………」
「移動の時に持ってる資産はそのまま変換してくれるって言うからさ!」
「えっ、これマジ? 嫁のほっぺた抓っていい?」
「嫌だよ、お尻ぶっ叩くよ」
「…………マジでえ?」
全然ろくな情報が集まらない。
嫁は割合適当な人間性なので端から情報精度に期待はしていなかったけれど、流石にどうにかなりそうだ。
まさか今いる場所が『なんちゃらって世界』で『うんぱかって神さま』が『聖域に出来ちゃったダンジョンを破壊して欲しい』という願いと引き換えに僕らを家ごと異世界に引き込んだなんて情報が出てくるとは思わないもんね。
「え、これ、どうなるの?」
「ダンジョン壊したら帰れるんじゃない?」
「そういう約束なの?」
「ふわっと話した感じはそんな感じ!」
「ふわっとすな」
嫁のおでこをズビシと突いて突っ込むと、嫁は「痛い~」と悲しげな声を上げた。
結局嫁を宥めすかして吸い上げた情報によると、こんな感じだった。
ここは異世界『なんちゃら』。正式名称が分からないので仮称だ。
んで、この世界には神様が何柱か居て、点在する大陸を守護している。
その何柱かのうち一柱が『うんぱか神』で、嫁とソシャゲで仲良くなったトンデモ神様である。
僕らが移動してきたウユニ塩湖のような場所はうんぱか神の聖域とやらで、本来は不可侵の領域らしい。
人もいなけりゃモンスターもいないし、見渡す限り薄く水が張られた湖面しかない。
ここ、『なんちゃら界』には地球にない……魔素的な何かがあり、それが吹き溜まるとダンジョンが出来る。
ダンジョンは人やその欲望を喰らって育つけれど、人が来ないダンジョンは小さいままで成長しない。
じゃあほっときゃいいじゃん、と思ったのだけど、曰く「ダンジョンは魔素を散らすまで消えない。最悪固定化する」らしい。
深層にあるダンジョンコアを破壊=魔素を散らすという行為にあたり、それをしたらダンジョンは消える。ダンジョンがあると魔素の流れが淀むので早い所駆除して欲しい。
そして嫁が「旦那の異世界に行きたいって願いと、ぱか氏のダンジョンを消して欲しいって願いがマッチングした感じ!」と言った事から、異世界移動あるあるのチートは貰えなかったっぽい。
見た目からして僕は僕のままだし、嫁は嫁のままだ。
「萎える。こんな異世界移動やだ」
「エーッ!? 旦那はわがままだなあ」
「そもそも武器も無いし、周りに施設が無いんじゃ転職もできないし、異世界の醍醐味ゼロじゃん。冒険者ギルドに行かせろよせめて」
「こりゃあひでえ……ほんとゲーム脳だよね、旦那って」
「ソシャゲで神様引っ掛けたお前に言われたくないよ」
「まあまあ、旦那がそう言うだろうと思って準備はしてあるんだなあ!」
「何を?」
腕を組みながら嫁をじろりと睨むと、嫁は何故か尊大な表情を作り、両腕を広げた。
「力が……欲しいか……?」
「…………」
「旦那よ……私は今、あなたに直接語りかけています……」
「見りゃ分かるわ」
「ノリ悪いなあ」
ちぇ! と唇を尖らせながら、嫁は右手で空を切る仕草をしながら「すてーたす・おーぷん!」と微妙な発音でその単語を発した。
それと同時に、音もなく半透明な何かが嫁が空を切ったあたりにぼんやりと浮かび上がった。
「こ、これは……ッ!」
「……分かるだろう、旦那よ。そうッ! ステータスだよッ!」
「やっべえな?!」
「やってみ、やってみ! 右手を上から下に動かして、すてーたす・おーぷん! だよ」
「よっし、やるわ」
僕は気合いを込めて右手を上から下に勢いよく振り下ろし「ステエタスッ! オープンッ!」と叫んだ。
何かはよくわからないけど手応えのようなものがあり、僕が切った空間には半透明の何かがぼんやりと浮かび上がった。ゲームにありがちな半透明ウィンドウには僕でも読める文字列が並んでいる。
「なんかね、ここの世界に転職屋みたいなのはなくって、みんなステータスを自分でいじるらしいよ。資質によって選べるものは違うらしいけど」
「早く言ってよ~! ちょっとワクワクしてきた」
「へへっ! 私も旦那と一緒にステータスいじろうと思って詳しくは見てないんだ。一緒に見てみよう!」
こうして僕らはお互いのステータスウィンドウを覗き込む事にした。
まず僕である。
名前:だんな
職業:▼
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【称号】
異邦人・彷徨う者・ド近眼
【技能】
話術・交渉術・お見積もり・狙撃術・鷹の目
【固有能力】
沈黙は金、雄弁は銀
うん、意味がわからない。
職業については選択の余地があるらしく、▼を押してみたら職業がずらりと並んでいた。
職業選択による変化は後で考えるとして、称号や技能、固有能力とやらの検証が先だ。
大体のゲームにおいて称号には2パターンある。何ら意味を持たないお飾りの名誉称号と、その称号を持っているとステータスに変化をもたらす称号だ。
説明文とかは出てくるのだろうか? と首を傾げながら『異邦人』の文字に触れてみると、小さな画面がポップアップした。
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【異邦人】
ここではないどこかから訪れた者に与えられる称号。
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……まんまや。
という事はこれは名誉称号という事だろうか?
まあ、ステータスウィンドウからある程度の情報が得られると分かったのは僥倖だ。説明ウィンドウは2回ダブルタップしたら消えるらしく、異邦人についての説明を消した後に【彷徨う者】にそっと触れる。
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【彷徨う者】
ひとところに留まる事を許されず、常に動き回る事を強要された者に与えられる称号。
この称号を与えられた者には『スタミナ強化(大)』がもたらされる。
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へえ。これは僕の仕事経歴が影響しているんだろうか?
営業マンって確かにひとところに留まる事は許されないし、日がな色々な顧客の元を回るし。
スタミナ強化とやらがどんな効果をもたらすか分からないけど、何かが強化されるっていうなら大変ありがたい。先立つ物は多い方が良いしね。
そして何となく嫌な予感を抱きながら最後の称号である【ド近眼】に触れる。
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【ド近眼】
はい、これの穴が空いている所はどこですか? ふむ、ふむ……うーん、視力は0.1以下ですね。
この称号を与えられた者には『視界悪化』がもたらされる。
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「デバフじゃねえか!!」
思わず声を荒らげてしまった。
確かに僕の目は悪い。小学生から眼鏡生活だし、社会人になった頃にはハードコンタクトを愛用している。それらが無ければほぼ何も見えないレベルで目が悪いという自覚がある。
しかし、だからといって地球でのデバフをそのまま異世界に持ち込まなくたって良いと思うんだけど!
怒りのままに説明ウィンドウをダブルタップして消し、次に技能の欄に並ぶ文字に触れる。
ざっと確認できた効果は以下だ。
話術……巧みな話運びで、相手と交渉する権利を得る。ただし効果は技能主と同じ言語を用いる相手に限定される。
交渉術……技能使用者が提案した問題について、相手と話し合う事ができる。だし効果は技能主と同じ言語を用いる相手に限定される。
証憑作成……証憑を作る事が出来る。お見積もりはこれでバッチリ。
狙撃術……弓・銃の使用において、着弾率に補正が掛かる。
鷹の目……一定時間、視界を俯瞰的に見る事が出来る。
所々ツッコミを入れたい技能があるので少々ストレスを感じたが、概ね内容は理解できたので良しとする。
じゃあ最後に、固有能力とやらだ。
「沈黙は金、雄弁は銀、ねえ……」
出処は覚えてないけど、これはそこそこ有名な諺だったと思う。
沈黙が素晴らしいんじゃなくて、黙るべき所で黙る事は多弁に喋るよりも効果がある、だったっけかな?
営業用語にはゴールデンサイレンスなんて言葉もあるくらいだし。
さてさて、一体どんな有用な固有能力なのだろうと逸る心を叱責しながらその文字に触れる。
ぽぅん、と浮かび上がった説明ウィンドウには、こう書いてあった。
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【沈黙は金、雄弁は銀】
最高に空気が読めるようになる。
発動条件:固有技能名を発する事。
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「……ドブガチャであった」
僕はそっとウィンドウをダブルタップした。
そもそも弓・銃補正が掛かるような能力が備わっているけど、家には弓も銃もありゃしないんだ。
物理的な攻撃能力が上がる技能が何一つない事に大いに不満を感じながら、僕は隣で真剣に考え込んでいる嫁のステータスウィンドウを覗き込んだ。
名前:よめ
職業:魔女
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【称号】
異邦人・焦がす者・神託を得る者
【技能】
薬学・錬金術・調理・メシマズ(軽)・鑑定
【固有能力】
居城の守護者
「えっ、嫁もう職業決まってんの?!」
「そうだけど、旦那は職業何だったの?」
「俺は選べるみたいだよ」
「えー、なんで私魔女一択なんだろ? しかもさあ、見てよこれ」
不満そうな表情をした嫁が固有能力の文字に触れる。そして浮かび上がった説明ウィンドウを見た僕は卒倒しかけた。
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【居城の守護者】
能力保有者が自宅と認定した空間に居る限り、無限の魔力が与えられる。
認定空間から離れた時点で魔力供給は止まるが、認定空間へ戻れば供給は再開する。
発動条件:なし。常時発動。
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「私、どうにも冒険向きじゃなさそうなんですけど!」
「うーん、嫁までドブガチャとは……」
「しかも何! この称号! 技能もだけど!」
「……ソーダネ」
折角異世界に来たというのにドブガチャを引いてしまったらしい僕らは、顔を見合わせて落ち込むのであった……。