第七十五話 天上世界に幸あれ
「くっ……!」
ハシヒトは、フォールディングナイフに歩を進めて行った。
そしてナイフを拾って右手に持ち、刃を自分の頭に向けた。
「いや……いやだ……!」
「ハシヒト……? 何やってんだよ! ナイフ持って……!!」
ハシヒトの行動を見ていた晃は、「まさか……」と呟いて青ざめた。
「社長の命令通りに、いなくなろうとしてるんじゃ……!」
晃の言葉でそのことに気づいた綺も、顔を青くした。
「なっ……! やめろ!! ハシヒト!!」
アナホベはハシヒトのナイフを取り上げようとする。
その時、「ふぅ」とため息をついた聖間が言った。
「邪魔しないでよ、アナホベくん」
そういった瞬間に、アナホベの動きが一瞬止まって膝をついた。
(なんだ……!? 体が……動かねえ……!)
次の瞬間、アナホベは吐き気に襲われてその場で四つん這いになって咳をした。
その時、アナホベから赤黒い液体が滴り落ちた。
呼吸が苦しくなり、アナホベは胸を押さえる。
「アナホベさん!!」
「大丈夫ですか!?」
綺たちは、アナホベに近づいた。
その様子を、ハシヒトは見ていた。
「ア、アナホベ……!」
ハシヒトの言葉に反応し、アナホベは叫んだ。
「やめろ……今すぐナイフを降ろせ!!」
そういった瞬間アナホベはむせかえり、先程とは比べ物にならないほどの大量の血を吐いた。
アナホベはゼェゼェと苦しそうに呼吸する。
自分の体が同じく制御できないハシヒトは、自分の頭を持っているナイフで刺そうとする右手を、左手で押さえていた。
アナホベは、顔を上げてハシヒトに言った。
「おまえには……いなくなっちゃ……困るんだよ!! 抗え!! 抗ってくれ!! 生きてくれ!! 頼む!!」
「アナホベ……」
アナホベに続いて、綺と晃も「頑張れと」声援を送った。
その光景に胸が温かくなり、ハシヒトは何とか命令に逆らおうと力をこめた。
「早くしてよ」
その時、無情にも聖間は追い打ちの命令を下した。
ハシヒトのナイフを持つ手に、力が入る。
「やめろ!! 玲良!! 死のうと……するな!!!」
「……アナホベ」
アナホベは思わず人間の頃の名前でハシヒトに話しかける。
ハシヒトはそんなアナホベを見て、クスッと微笑んだ。
「皇女玲良は死なないわ。死ぬのは……‘‘ハシヒト,,よ」
ハシヒトは涙を垂らしてから、右手を押さえていた左手を離した。
アナホベは目を丸くして、必死に手を伸ばした。
「幸せだったわよ。あなたのおかげで――」
ハシヒトの持っていたナイフが、ハシヒトの頭を穿つ。
辺りに血が飛び、ハシヒトはそのまま床に倒れた。
先程まで生きていた人が、一瞬で死んだ光景を目の前で見ていたアナホベや綺たちは、みな顔を青くしていた。
綺と晃は口を押えていた。
「ハシヒト……?」
アナホベは震えた声でハシヒトの亡骸に話しかける。
「おいどうしたんだよ……ハシヒトったら……」
アナホベはハシヒトの手首を掴んだ。
すると、力の入っていない手は、ダランと垂れ下がっていた。
「嘘だろ……? ハシヒト!! ハシヒト!! 起きろよ!!」
アナホベが大声を上げても、体をどんなにゆすっても、ハシヒトは何も反応しなかった。
顔にかかっていた髪の毛の隙間から、ハシヒトの顔が見えた。
その表情はまるでいつも通り眠っているようだった。
そんなハシヒトを見たアナホベの目に、涙が溢れてきた。
「ハシヒト!! 信じねえからな!! 目を開けてくれ!! 声を聞かせてくれ!!……息を…………してくれよぉ……!」
アナホベはハシヒトの体に顔をうずめて号泣した。
その様子を見ていた綺ももらい泣きして、涙を流した。
「ああ……ハシヒトさんが……!」
「そんな……」
「アンナニアッサリト」
「イノチッテ、ナクナルンダ」
「あの人……寝ちゃった……寝ちゃったわ……えいえんに……」
目の前で人が死んでいくのを見たのは綺と晃にはショックが強く、少しの吐き気を患っていた。
「皇女玲良は死なない、かぁ。ぶっちゃけ、バキュロになった時点で死んでるようなものなのにね」
聖間は腕を組みながら、ハシヒトを見下ろす。
その言葉に、綺と晃は耳を疑った。
「社長……!」
綺が聖間に話そうとした時、アナホベがハシヒトの前に立ち上がった。
「ふざけんじゃねえよ!!!!」
アナホベは叫んだ。
憎しみの籠った悲しい罵声を、聖間に浴びせた。
「ハシヒトは……ただの人間だったのに……。ご主人様……いや、お前が壊したんだ!!! ハシヒトの、玲良の……時間……を…………!!」
「あれま、随分と口が悪くなったね。反抗期?」
「うるせえ!! ハシヒトを返せ!!」
アナホベの言葉は、一言一句に怒りが込められていた。
アナホベの腕にビキビキと血管が浮かんでいっているのを見て、晃は切ない気持ちになった。
(そりゃ怒るだろうな……大切な人が、目の前で……)
晃はますます聖間が許せなくなった。
聖間はアナホベとハシヒトを交互に見てから話し出した。
「……そんなにハシヒトちゃんの事が好きなら……丁度いい。アナホベくん、ハシヒトちゃんのところに行きなよ」
聖間が言った瞬間、アナホベは勢いよく膝をついた。
「が……はぁ……!! い、息が……!」
過呼吸気味になりながら、アナホベは胸を押さえた。
「アナホベさん!?」
綺と晃がアナホベに近づこうとしたその時、アナホベは「来るんじゃねえ!」と綺と晃に叫んだ。
「あんまり……近づかねえほうが良いぜ……。お前らはまだ……お前らでいろ…………! ぐっ!!」
アナホベはその場に倒れこんだ。
倒れこんだままアナホベは顔を動かして、ハシヒトの方を見た。
(くそっ……玲良……!!)
アナホベはハシヒトに手を伸ばした。
(ごめんな……ごめんな……!! 俺は……お前の事、見殺しにしたようなもんだし……最低な野郎だよ)
アナホベは涙を流しながら、ハシヒトの手を掴もうとする。
しかし、既に限界が来ていた。
その時、伸ばしていたアナホベの手を、そっと、他の誰かの手が包み込んだような感触がした。
まさかと思いアナホベは自分の手を見た。
アナホベの手には、何も乗っていなかった。
(……)
アナホベはハシヒトを見た。
(お前は……こんな俺でも……良かったのかな……)
口に微かに弧を描きながらアナホベは、動かなくなった。
綺と晃は、呆然とアナホベを見ていた。
瞳を細かく震わせながら、微動だにしないアナホベとハシヒトを見る。
そんなところに、聖間はツカツカと足音を立てながら、ハシヒトに近寄った。
そして胸ポケットからハンカチを取り出し、ハシヒトのズボンのポケットの中を漁った。
「お、あったあった。はい、綺ちゃんたち。スタンプ」
聖間は何食わぬ顔で、ハシヒトのポケットから取り出したスタンプラリーのスタンプをハンカチの上にのせて、綺に差し出してきた。
「そうだ。これでスタンプ全部だよね? おめでとー!! 最後のスタンプまだ押してないけど、はいこれ!! 約束の品!!」
聖間はスタンプと共に、『ミホトケ』が入った木箱を綺の手に乗せた。
綺は聖間に対して、怒りを通り越して呆れていた。
「なんなんだよ……あの人……」
晃が聖間に聞こえない声量で呟いた。
怒りで唇が震えており、聖間を睨みつけていた。
「いやーいろいろあったけど、何とかスタンプコンプリート出来たね!! じゃあ次はどうしようかな? 綺ちゃんたちに脱出のチャンスあげちゃったりしようかな? まあ今はまだいいか!!」
聖間はクルっと後ろを振り向いて、綺たちが居ない方向に向かって声を発した。
「あー聞こえてる? この二人ちょっと連れってっといてー」
「御意」
突然誰の声かもわからない声が聞こえてきてからアナホベとハシヒトの前に影が現れた。
しかし、その影は一瞬で消えた。
その影が消えたと同時に、横たわっていたアナホベとハシヒトの亡骸も消え、床にはアナホベとハシヒトの血痕が生々しく残されていた。
「それじゃあ、さらばー」
聖間は、駅の奥へと歩いて行った。
聖間の姿が見えなくなったタイミングで、綺はバランスを崩してその場に倒れそうになった。
そこを、晃が支える。
「うおっと……綺……大丈夫か?」
「ごめん……ちょっと……気分が……」
綺は眼鏡を外して目をこすった。
晃も「ハァ……」とため息をついた。
そんな時、綺と晃の服を軽くヨウダイが引っ張った。
「くよくよ……しても……しても……変わらない……変わらない……」
その言葉に続いて、スイコとテンノも顔を出した。
「アナホベイッテタジャン」
「オマエラハ、オマエラノママデイロ、ッテ」
綺と晃は、チラッと先程の血痕を見た。
「おてて……おてて……合わせて……あげましょう……」
「……そうですね」
綺たちは手を合わせた。
(社長……お前だけは……絶対に……)
綺は手を合わせながらそんなことを少し思っていたが、深呼吸をして記憶を払拭させた。
そして、願った。
二人が、あの世で幸せに暮らしていることを。




