後編
マルコ! マルコ!
僕は必死に声を上げた。ランニングマシーンと化したマルコは弾丸のように突き進んでいる。
「止まれよ! もう追ってこないよ!」
マルコの天才的なタイミングで逃げたおかげか、エリスの兄さんのジョルジのおかげか、そんなに僕らをきっちり追うほどの興味が無かったか分からないが、とにかく連中は追うのを止めたらしい。
僕の声がマルコに聞こえたかは分からないが、エリスには聞こえたらしく、エリスは走るのを止めるとマルコに止まるように叫んだ。マルコはその調教師のような声を聞くとゆっくりと速度を落としていき、やがって止まった。僕は電柱で身体を支えて息を整えた。マルコはまだ気が張り詰めているらしく、いつでも走りだせそうなポジションであたりを伺っている。エリスはそんなマルコを見てゲラゲラ笑って言った。
「マルコ、あんたリオのオリンピック候補ね」
僕らは喉がカラカラになってしまったので、露店でコーラを買うことになった。
マルコはお金を持ってなかった。エリスもだ。父さんから給料をもらった僕が1番お金待ちだった。僕が買った1つを3人で分けて飲んだ。もちろん、マルコが一番飲んだ。
「いったいどこまで行くんだよ?」
マルコは聞いた。だいたいの場所を伝えるとマルコは目を向いて驚き、呆れたようにため息をついた。
なんとなく、空には黒い雲が集まってきていた。薄暗い日の下でマルコは帰ると宣言した。さっきの疲れが時間差で来たのか、たしかに疲れた顔をしていた。
「腹も減ったし」
たしかに僕も空腹だった。
気をつけろよ、そう言い残してマルコは帰ろうとした。
お前も気をつけろよ、言葉にしようかと思ったが我慢した。
「マルコなら逃げ足速いから大丈夫よ」
そう言ってエリスは僕に微笑んだ。
マルコは首を横にゆっくりと振り、神のご加護か何かを口にしながら帰っていった。
二人になった僕とエリスは、良い匂いと空腹に我慢できずにドーナッツを買って食べた。
マルコには悪いと思ったけど、暖かくて美味しかった。
ドーナッツのせいだろうか、強くはないけど雨が降ってきた。通り雨だと思ったので、二人でかつてレストランだったであろう店の軒下に入った。入り口のドアのところにだけある庇の下で、細かく舞うように降っている雨をかわすのに僕らは狭いテントの下でくっつくように雨宿りした。エリスは髪についた雨粒を払いながら僕に言った。
「ねえ、タバコ持ってる?」
僕はアントニオからもらったあのタバコをポケットから出し、エリスに渡した。箱には1本しか残ってなかった。アントニオの気前の良さに感謝しながら箱を握りつぶして投げ捨てた。エリスはタバコをくわえ、火をつけるとゆっくり吸い、細く細く煙をはいた。それから微笑んで僕にタバコを渡してくれた。僕もゆっくりと一口吸った。湿気を吸ったタバコ、雨に濡れた路面、肩に触れるほど近くにいる少し湿ったエリス、それらの匂いが混じり合いながらも別々のように感じる煙を、僕は口の中でゆっくり溶かしていった。そしてエリスみたいに細く煙を吐いてみた。煙はゆっくりと上ると、古く色あせた黄色いビニールテントに溜まり、そしてフェイドアウトしていった。
僕はタバコをまたエリスに渡し、2人で交互に吸った。
エリスの横顔はとても綺麗だった。ゆっくり閉じるまぶたの上には、エリスの黒めの肌より黒い化粧がしっとりと光っていた。
一瞬がとても長く感じ、目の前の雨音は遠くで聞こえる。細かい雨が、へこんだアスファルトに溜まっていく。エリスがそこに短くなったタバコを投げ込むと、じゅっと音がした。
エリスも僕も一言も喋らなかった。
砂時計のような雨は長くは降らなかった。僕たちは旅を再開した。
「あのアパートじゃないの?」
エリスは立ち並ぶ建物の中のひとつを指差した。きっとそうだ。僕らは行ってみることになった。他の建物同様、鉄の格子が入り口にあったけど、エリスが押したら空いてしまった。鍵は壊れてたのか、前の人が鍵をしなかったのか分からないが、エリスは振り返って僕に微笑んだ。
建物に入ると、もう一度部屋番号を確認した。3-C。建物は古く、エレベーターは無かった。僕が住んでいるアパートより酷いんじゃないかと思った。二人の小さな足音と薄汚れた灯りの唸るようなノイズがコンクリートに響いている。エリスも黙っていたので、僕も黙っていた。
重くよどんだ空気が漂う階段を登っていくと部屋のドアが見えた。3ーC。あれだ。
ドアの前に着くと乱れた呼吸を落ち着けようとした。テレビの大きい音がドア越しに聞こえる。もういちど免許証を見た。母さんに似てるその女の人は微笑んでいる。母さんじゃないことくらいは分かっているけど、その人がこのドアの向こうにいると思うと心臓は落ち着かなくなった。エリスを振り返ると、腕を組んだままの彼女は、ニコっといつものように微笑んでくれた。同じように微笑んでくれる母さんがこのドアの向こうにいるんだ。僕は深く息を吸った。
見た目は壊れてなさそうなブザーを押すと、ビーっとドアの向こうから聞こえたが、さわがしいテレビの音だけ相変わらずで足音はしなかった。少し待ってみても誰も出てこない。人の気配も無かった。戸惑っていると、後ろからエリスの手が伸びてきて、ためらいもなくブザーを押した。しかも2回も続けて。
ドアの向こうからテレビの音を掻き消すように、ドスンドスンと催促に抗議する怒りを含んだような音がこちらに近づいてくる。エリスはドアから斜めに離れた。僕は緊張した。めいっぱい「武器は持っていない、敵ではないのだ」ということを、ドアごしにテレパシーと無言の直立で訴え、女の人以外、通りでジョルジが話してるような強面の男の人が出てこないことを祈った。
少しだけ開いたドアからのぞく女の人は、写真の顔とは別人に見えた。女の人は僕らを見て少し驚いた表情をした。
「なに?」
あの、これ、と上手く言葉が出てこない僕は、喋るセリフを練習しておかなかったことを後悔した。
女の人は、差し出そうとしている僕の手にある免許証を見ると、奪うようにもぎとった。それを自分の顔に近づけてよく見てから「わたしの」と言った。
すると、女の人は免許証を僕の目の前に凶器を突きつけるように近づけて大きな声で言った。
「あんたがあのバッグを盗んだんだ!」
僕はその迫力にひるんでしまって、さらに上手く喋れなくなった。少し後ずさりもして、誤解を解くための言葉はなかなかに出てこなかった。間接的に盗みに加わっていたという自意識がそうさせたのかもしれない。僕はうろたえた。下手なサッカーでボールが急にまわってきた時でも、ここまでうろたえることは無いってほどに。でも、エリスは僕の後ろからさらっと言った。
「それ、拾ったんです」
僕を重圧で押しつぶそうとしている女の人はぴたりと止まって、ゆっくりと顔をエリスのほうに向けた。そして嘲るよう少し笑ってから言った。
「そんなことあるもんか! この嘘つきどもめ」
女の人の戦車みたいなエネルギーがエリスのほうに向いた。僕はあわてて叫ぶように言った。
「ほんとうに拾ったんです!」
いちおう本当の事だからだろうか、追い込まれたからだろうか、今度は上手に言えた僕の言葉に反応して、女の人の照準がまた僕に戻ってきた。
「そんな嘘は聞きたくもないね! おまえたちが盗んだんだ!」
ふたたび僕の顔の先に突きつけられた免許証は、揺れるたびに灯りが反射してナイフみたいに光って見えた。僕は両手を上げることも出来ずに固まってしまった。ヒクソン・グレイシーは本当にすごいんだなと改めて感心した。
「この泥棒め!」
そう叫ぶと、女の人は手を振りあげた。叩かれると思って反応した僕は息をのみ、直立のままさらに固まった。とっさに命令が出せない僕の代わりに、身体は勝手な判断で無謀にも硬さによって防御力を上げる作戦をとったようだ。エリスは彼女にと飛び掛ろうとしていたかもしれない。トラブルの中心はいつも女だ、と言うアントニオの言葉がめずらしく正しかったように思えた。でも、女の人は手を振りあげたまま、止まった。僕の怯えて固まっている姿を見て、我に返ったように手を下ろすと嘆くように首を振った。神さま…とか、口の中でぶつぶつ何か言いながら、悲しそうにドアを閉めて部屋の中へ戻っていった。
閉まったドアを見つめて、僕は神さまに祈ることも忘れていたことを思い出した。
外は少し暗かった。僕の気分も少し暗かった。
「あんたのママってあんな顔だったわけ?」
「もっと綺麗だった」
ふてくされるように僕が言うとエリスは笑った。
「写真だともっと綺麗だったんだよ」
「女ってそういうもんよ」
「エリスも大人になるとああなるの?」みんなが言ってるとおり女って怖いんだな、僕は思いながら聞いてみた。
「あら、わたしはならないわ。わたしはモデルになるのよ。この暮らしからサヨナラするのよ」
エリスは足早に僕を抜くと、しゃなりしゃなりと美しい猫のように歩き、クルっとターンをして立ち止まっている僕のところまでしゃなりしゃなりと歩いて戻ってきた。
僕は驚いた。僕は将来の事なんて何も考えていなかった。このままズルズルといってしまうのだと思っていた。嫌だけど仕方ない、これが人生だ、まわりの大人みたいに。エリスみたいに抜け出す方法が思いつかなかった。
「僕はどうしたらいいかな?」
「そうね、あんたどうせギャングにもなれないわね。強くも無いし、優しすぎるし。サッカーもダメよ。脚なんてマルコより遅かったじゃないの」
「あいつの逃げ足が速いだけだよ」
僕が反論するとエリスはゲラゲラ笑った。
「あんた勉強しか無いわね」
「僕が? 出来るかな」
「じゃあ歌は? わたしのために何か歌ってよ。わたし女優にも歌手にもなれるかも」
エリスはバレエを踊るようにくるくる回った。
「出来るんじゃない? 嫌なの?」
僕は黙って考えこんでしまった。
「やっぱり勉強しかないわね」
僕らの街に近づくころ、エリスは言った。
「キスしてもいいわよ」
突然のことに思わず僕は聞き返してしまった。みんなが言ってるとおり、女っていうのは何考えているのかさっぱりわからない。
エリスは立ち止まって大人っぽく肩をすくめた。僕はどうしたらいいか分からなかったけどキスをした。言葉は何も出なかった。エリスはニコっと微笑んで手を繋いで歩いてくれた。
通りでは、僕の父さんと、エリスの兄さんジョルジが話してるのが見えた。いや、話しているというより、僕の父さんがジョルジに食って掛かっているのが遠くからでも見えた。
「父さん!」
僕が呼ぶと、二人は僕らのほうを見た。こんな時間まで何の連絡も無しに外に子供2人きりでいたことに対する罪悪感が急にわいてきた僕は父さんに駆け寄った。父さんも僕に駆け寄り、僕を抱くと、大きいため息をついてから僕の頭をバシっとはたいた。僕は父さんに悪態をつかれながら手を引っ張って連れ帰られた。
「パウロ、おやすみ!」
エリスは大きな声で言った。僕は父さんにぐいぐい手を引っ張られ歩きながらエリスの方を振り返った。エリスは笑顔で手を大きく振ってくれている。僕は散歩中の犬がそうするみたいにぐっと身体をふんばり立ち止まったけど、上手く言葉も出なかったし何をするのが最善かも思いつかなかった。僕はとっさにエリスに大きい投げキッスをしてしまった。エリスはゲラゲラ笑った。エリスの隣であのクールなジョルジも笑った気がする。ふたたび、頭を父さんにはたかれて、また手を引っ張られ歩きだした。エリスの方を振り返ると、エリスも大きい投げキッスを返してくれた。僕は嬉しくなってまた投げキッスをした。エリスも返してくれた。振り返るたびに僕はエリスに投げキッスをすると、エリスも笑いながら返してくれた。僕が角を曲がってエリスが見えなくなるまでエリスはキッスを返してくれた。
さっさと起きろ! ねぼすけめ!
いつもの父さんの怒鳴り声で目が覚めた。今日もあいかわらず、7月の寒い朝だった。ベッドから出た僕は、いつもの食事準備、流れ作業をした。心なしか父さんは静かだった。昨日の空腹を思い出し、やっぱりパンがあるだけありがたいんだな、と思った。今朝は立派なデザートなんて無い。コーヒーを飲みながら父さんは言った。
「おまえ次第では、毎朝すごいのが並ぶことになるんだぞ。それを忘れるな」
僕は軽くうなずいてから、ミルクを入れ忘れたコーヒーを一口飲んだ。
「今度の休み、一緒に母さんのために教会に行くからな。ほかにどこか行きたいところはあるか?」
「ねえ、父さん。僕、大学へ行きたいんだ」
父さんはコーヒーカップを口から離して驚いた目で僕を見て、またカップを口に戻して一口飲んでから言った。
「金のことは心配するな。ちゃんと用意する。あとはお前次第だな」
父さんは仕事へ行った。僕は朝ごはんの片付けをして洗濯を済ますと、机に向かった。
僕なりに長時間の勉強に疲ると、背伸びをした。写真の中で微笑む母さんと目があうと、手を伸ばし写真を手に取った。
母さんはサンバチームで歌ってたこともあるんだ、父さんの言葉を思い出した。
僕は母さんの写真にキスをした。
なんだかエリスに会いたくなってしまったので、もう一度背伸びをすると今日の座学は終わりにした。
僕は少し歌の練習をしてから出かけた。
太陽がすっかり昇っていた。綺麗な空だった。