前編
7月の今朝も寒かった。毎朝ベッドから出るのが遅くて父さんに怒鳴られる。それでも、地図で見れば南極は近いのに雪が降るのを見たこと無いし、白熊だってみたことない。地球の裏側では、季節が反対になるらしく、今は夏らしい。僕はたぶん寒いのが嫌いなんだと思う。ここより寒いところはいくらでもあるし、暖かいところもある。もちろん、ここよりひどい場所だって。
大通りを挟んで『仕事』をする僕たちは、薄くもりの空の下でたむろって、カモの少ない目の前の大通りをぼんやり眺めていた。サッと盗ったら流れる車の中を抜けて反対側に逃げれば、ほとんどきれいに逃げれる。でも、暑い時季に比べて道行く人達はバッグとか貴重なモノ、金目のモノってやつをしっかりと身体に寄せて足早に歩いている。旅行者も少ない時季だ。そのせいか、僕らから離れたところにいる、この通りの顔の連中、いわゆる本格派の連中も簡単に手を出さないようだっだ。自転車に乗ってウロウロと簡単な獲物を探して巡回してるヤツもいる。暇をもてあそんで僕らにイチャモンをつけてくるやつらもいる。ジョルジがいないときだけだけど。
そんな景色を眺めていると、アントニオが仕事をしくじったときのことを思い出した。
その日、アントニオは自慢げに、手に入れたバイクで仕事をしようと横断歩道を渡る男の携帯電話を盗みにかかった。バイクを運転しながらアントニオの手が、男の手にある携帯電話を勢いよく奪った。しかしそれより勢いよく、なにより素早く男はバイクで走りさろうとしているアントニオにパッと飛び蹴りをかました。あんなに綺麗な蹴りを見たのは初めてだった。僕はカラテのすごさに感動した。加速して逃げようとしていたバイクはバランスを崩して交差点でひっくり返った。倒れたアントニオをすかさず男は何度も踏みつけた。そのとき、これまた勢いよく、通りの向こうで見ていたジョルジが走り寄り、すかさず男に飛び蹴りをかまし男を吹き飛ばすと、バイクを起こし、アントニオを後ろに乗せ、さっそうと走り去った。なんてクール! 僕らはそれを見て歓喜の声を上げた。
その日は一日中、アントニオは不機嫌に文句をぶつぶつ言ったり、道行くおとなしそうな人たちに露骨にケンカをふっかけたりしていた。いつも態度だけはリーダーのように振る舞うアントニオの失敗は、みんなの格好の笑いのタネになった。もちろんアントニオがいない時にだけど、誰かがアントニオがしくじったことを笑うと、ジョルジュは静かに、たしなめるように言った。
「誰だって、神様だって失敗はするもんだ。でなきゃ俺たちは生まれてこなかっただろ?」
と言うわけで、それ以来ビビったのか、アントニオはしばらく仕事から離れていたみたいだった。
寒い日、僕たちは立ち並ぶビルの日陰で冷えていた。それでも、このニュースを聞いたら少し体が熱くなった。
僕と同じクラスのちょっと太ったマルコが体を弾ませるように走ってきて言った。
「アントニオたちがやったぞ!」
「来いよ。ジュース飲ませてやる」
アントニオは見慣れないサングラスをかけていた。これも戦利品らしい。
僕たちはついていった。僕とマルコと同じクラスのエリスもいた。僕はコーラを買ってもらった。路地裏のいつもの溜まり場でアントニオたちは戦利品を確かめている。
通りで眺めていただけの僕らも、やりとげたその仕事に自分が参加したかのように興奮していた。引ったくった獲物であるバッグにアントニオが手を突っ込んで中身を取り出すたび、戦利品が目の前を飛び交った。見るからに女用のバッグからは女性が使うであろう道具がいろいろと出て来た。化粧ポーチはエリスに投げ与えられた。エリスは中を開けて品定めすると「あんまり良い暮らししてないおばさんね」と言って、アイシャドウを選んで塗りはじめた。僕は女の人が化粧をするとこを見るのが初めてだったことに気がついた。母さんが化粧をするところを見た記憶が無かった。エリスは片目でコンパクトで見ながら、閉じている方のまぶたの上に手馴れた感じでぐりぐりと土のようなものを塗っていった。初めて見る僕にとっては奇妙にも、器用にも見えるやり方だった。仕上がったエリスの大きい目は、丁寧に磨かれた歴史ある家具のように光なく深く輝いた。しっとり重い美しさをたたえた目をまじまじと見ていると、僕はエリスと目があった。エリスはニッコリ微笑んで僕に聞いた。
「どう? パウロ。わたしセクシーかしら?」
突然の問いに僕は思わず返事がどもってしまい、アントニオに鼻で笑われた。
戦利品のひとつであるタバコが回ってきた。僕も一本もらって吸った。もちろん仕事のあとの一服の気分で。もちろん、仕事をやりとげたジョルジのイメージで吸った。そのイメージを高めたいがために、僕はちらりとジョルジを見た。タバコ片手にジョルジとエリスは話をしている。エリスの兄さんのジョルジはいつもクールにタバコを吸うんだ。僕もああいうふうになりたかった。僕はタバコをきれいに指先ではさむことを学んだ。いつもより味が引き締まったような気がする。
アントニオは財布を調べて、たいした成果が無いことに悪態をついた。免許証を見ると、さらに悪態をついた。
「貧乏クジひいたもんだぜ!」
アントニオは価値のなさそうなそれらを投げ捨てた。僕らはそれに群がった。狩ったばかりの、まだ命の温もりが残っている動物の身体に触るように。みんなも、ババアだな、と口を揃えていった。僕の手にもその免許証が回ってきた。僕は手を止めて、見入ってしまった。
その顔写真は僕の死んだ母さんによく似ていた。
「パウロが興奮してるぞ!」と誰かが言ってみんなが笑った。僕は我にかえると慌ててそれを投げ捨てて言った。ババアだよ、と。
あとで1人で戻り、拾い上げてもう一度見た。
やっぱり母さんに似ている気がした。そして僕はそれを持って帰ってきてしまった。
なんとなくそのまま捨てておけなかった免許証は、手に入れてからは一度も見ることもなく、家に戻ると読みもしない聖書に挟んで隠した。僕はそのまま、みすぼらしい本棚に飾ってある母さんの写真を見た。母さんはきれいな顔で微笑んでいる。母さんが生きていたら、勝手に他人の免許証を持ってきてしまった僕のことを怒っただろうか。勉強もせずに、父さんが言う「あんな連中」とつるんでることを嘆いただろうか。それともうるさい父さんと別れて、僕を連れてこの退屈な街から出ていっただろうか。
写真の母さんが、悲しい顔で僕を見つめているような気がした。免許証の罪は、聖書で挟んだくらいじゃ中和されなかった。僕は免許証の写真を見たときから、母さんを裏切り、この手で傷つけてしまったような気になっていた。
その夜はなかなか眠れなかった。
さっさと起きろ!ねぼすけめ!
いつもの父さんの怒鳴り声で目が覚めた。7月の寒い朝はグズグズと、だいたいこんなことを言われながらベッドから出て、僕はお湯を沸かしつつフライパンを暖め、父さんのパンを焼く。パンがあるだけありがたいと思え、と、父さんの口癖を思い出しながら。
11歳になり、だんだんと世間と我が家の状況もわかり出してきたと思う。あっちではパンも買えない僕達が。あっちではメイドが朝食を用意してくれている、フルーツまで並ぶ食卓の僕達が。
「ちゃんと焼くんだ」
コックをしている父さんは料理にうるさく、焼きあがったパンに僕がバターを塗るところもじっと手を組んで見ている。僕の淹れたコーヒーを父さんが一口飲んで、うん、とうなずき、さあ、食べよう、と言ってから朝食になる。
今朝は父さんが昨日職場からもって帰って来たマンゴーが並んだ。お前は恵まれてるんだ、父さんの口癖を思い出しながら僕はそれを見た。父さんは、僕の目が普段は並ぶことのないそれに目がいっているのを見つけると言った。
「昨日、職場から持って帰ってきたんだ。すごいだろ。」
「うん、すごいね。あとはメイドがいれば完璧だね」
「それはお前の頑張り次第だな」
父さんも、これを黙って持ってきたんだろうか。やはり僕にも盗人の血が流れているのか。でも、こうでもしないと何かを手に入れることが出来ないのか。僕は牛乳を入れたコーヒーをスプーンでゆっくりとかきまぜながら思った。僕たちの罪も牛乳で中和できないのかな。
「ちゃんと進級できるんだろうな?」
「うん、ぼちぼちだよ」
進級は出来る、と思ってる。ギリギリだけど。でも、僕の友達には進級してない連中もいた。あるやつは言った。あんなのは俺たちにとったら時間と金の無駄使いだ、と。どうせ学校を出たところで、出来ることは今とほとんど変わらない。良い大学に入れるかなんてのは生まれるときに決まるんだ。男か女か勝手に決められるみたいに…
その手の課外授業を受けていた僕は、一生懸命に勉強をして進級することに意味を見出せなかったけど、父さんには意見はしないでおいた。父さんだって大学は出ていない。父さんは頭が良かったんだ、って話を聞いた。もちろん父さん本人から。でも大学には行かなかった。どこにだってある、いろいろな事情ってやつで。
母さんはなんでそんな父さんと結婚をしたんだろう? 母さんのことを考えたら、僕の心と脳みそは持って帰ってきた免許証を挟んでいる聖書に引き寄せられた。
「僕たち、教会へ行かなくていいのかな?」
僕は父さんに聞いた。父さんは僕を見つめたまま、真っ黒いコーヒーを一口飲んでから言った。
「そのときが来たら行くさ。…なにか懺悔が必要なことでもしたのか? 」
僕はタバコを吸いたかった。クールでいたかった。狼狽を押さえ込む僕の厚いディフェンスを、父さんの目は鋭く抜いてこようと揺さぶりをかけてきている。
「おまえ、まだあのしょうもない連中とつるんでるのか? 」
僕は友達のことを「しょうもない連中」と言われてムっとしたが、クールに流すことに努めた。クール。クールなジョルジ。そのミステリアスな瞳は常にサングラスで隠れている。僕もサングラスさえすれば、こんな程度のことは涼しい顔で乗り切れるんだろうか。クールさを求めて泳ぐ僕の目の裏には、そのジョルジの妹、エリスのことが浮かんだ。ジョルジとは反対に誰とも気軽に話すエリス。みんなエリスが好きなんだろうと思う。もちろん、マルコを含む、僕とエリスと同じクラスの連中も。でも、あのアントニオでさえ、ジョルジがいるから遠慮してるように思えた。
「いいか、お前もそろそろ考えなくちゃならん。わざわざしなくていいことをするんじゃないぞ。今が大事な時なんだからな 」
父さんは僕へ今日の分の給料を渡し、仕事へ出かけていった。学校が休みのあいだ、洗い物と洗濯は僕の仕事になっていた。
朝ごはんの片付けをして洗濯を済ますと、僕は机に向かった。20分ほどの時間の中でした事といったら、ただひたすら僕は両手で顔を挟んでいただけだった。それは20分が限界だった。
本棚の前へ行き、母さんと目を合わさないように聖書を手に取り、そこから免許証を出してポケットに入れた。
今日も外は曇っていたが、うっすらと太陽がのぞいていた。
昨日のちらかしたところに行ってみたが、もう何もなかった。
路地から出たら、ジョルジが一人で立っていた。サングラス越しに目があった僕はなんとなく気まずい気分でジョルジに挨拶をした。
「あんまり戻るな」
僕は小さくうなずいて、ジョルジの隣に並んで通りを眺めた。通りは相変わらずまばらな人。背の高いジョルジにはこの景色がどう見えるんだろう。いったい何が行き来して見えるんだろう。
「ねえ、ジョルジ。貧乏な人からも盗んでいいのかな?」
「昨日のことを言ってるのか?」
僕は何も答えることが出来なかった。先生に数学の問題を当てられて答えられないときみたいに、ただ黙ってうつむいてた。
「いま、お前のポケットに入ってる金額より少ない金のやつを探すほうが難しいな」
僕はポケットの中の全財産を確かめるように触った。指に免許証の角が触れた。
「パウロ、お前は自分に出来ることをやれ。」
僕はジョルジの顔を見上げた。ジョルジはサングラス越しに僕を見て言った。
「お前はここで俺たちみたいにつったっていたいのか? こういうことがしたいのか?」
僕はまた何も言えなくなった。すると、ジョルジは僕に離れろ、と合図をした。僕はそうした。ジョルジのところに一人、僕の父さんくらいの歳の人が来てジョルジと話し始めた。僕は、その仲良く出来そうにない感じの人から、通りから離れていった。
「おい、パウロ!」
昨日の獲物のサングラス姿のアントニオは女の人と一緒にベンチに座ったまま僕を呼び止めた。
「ショーバイはどうだい? 兄弟」
僕の知らない女の人の肩に手をまわし、ふんぞりかえってるアントニオに、ぼちぼちだよ、と答えるとアントニオは女の人と顔を見合わせ二人で大げさに笑った。
「可愛い顔してる子ね」
女の人が僕に言うとアントニオは軽く笑って言った。
「パウロはシブい年上好きだぜ。お前みたいな若い女が誘惑したって無駄さ」
そうだ、お前にこれをやるよ、と言ってアントニオは僕に昨日の獲物のタバコを投げてよこした。僕は、彼の気前の良さに軽くお礼を言ってタバコをポケットに入れると、彼らからさっさと離れていった。
ポケットの中にさらに罪が増え、僕はますます重くなった。収まりが悪くなった免許証を一度ポケットから出して眺めた。母さんに似た女の人の優しい微笑みが、よけいに僕を悲しい気分にさせた。
僕はタバコの箱もポケットから出すと、それらをきっちり重ねてからまたポケットに戻した。
ありがとう、アントニオ。君のおかげで僕のやることは決まった。
エリスが友達といるのが見えた。エリスは僕を見つけて手を振ると、友達と別れてこっちへ来た。
「どこか行くの?」
エリスが聞いてきたので、僕は言った。
「昨日の免許証を返しに行こうと思うんだ」
エリスはキョトンとした顔で僕を見つめてから、難しい顔で言った。
「ねえ、あんたほんとにあんな年増が好みなの? 」
エリスは少し離れたところの店の壁に張ってある服か化粧品か、綺麗な女の人が写ってるポスターを指差して言った。
「ふつうはああいうのが良いんじゃないの? 」
僕は慌てて弁解しようとした。母さんに似ているから、ってことを伝えるのは幼稚な気がして少し恥ずかしかったけど、うまい文句が浮かばなくて結局そのままエリスに言ってしまった。エリスはあきれたような顔で僕を見つめた。
「あんた、そんなに母さんのこと好きなの?」
「わからない。6歳のときに死んじゃったからあんまり覚えてないんだ」
「ふうん、あんたってほんと変わってるわね。で、どこまで行くの?」
住所を告げると笑った。
「アイ! 長いデートになりそうね!」
エリスはマルコを見つけた。確かに遠くからでもマルコのシルエットは良くわかった。
マルコは壁に寄りかかってバナナを食べていた。マルコにはバナナが良く似合った。
「わたしたち、2人で旅行するのよ」
エリスは僕の腕をとってマルコに言った。
どういうことだ? と言う目でマルコは僕を見たので、僕はエリスが腕にしがみついていない方の肩をすくめてマルコを見返した。
僕とエリスがデートをするのを気に入らなかったマルコは、俺もついていく、と言った。
バナナの皮を投げ捨てると、マルコは先頭に立ち、歩き出して言った。
「行こうぜ」
僕はまだマルコに行き先は言ってなかった。
「ヒクソングレイシーってすごいんだぜ。ナイフを持った男でもすぐにボコボコだろうね」
俺の従兄弟はグレイシー柔術をならってるんだ、マルコはそう言った。マルコは習ってないが。僕らはみんなお金が無かったから習いに行けないんだ。
そんなくだらないことでも、みんなでおしゃべりしながら見慣れないところにいるのは本当に旅行しているみたいだった。
そんなとき、道で”それらしき” 連中に出会ってしまった。連中の1人はマルコのことを知っていたらしく、僕たちに絡んできた。どこにでもアントニオみたいなやつはいるもんだ。エリスを見つけると「女なんて連れやがって」 と色めき立った。
1人がエリスに近づき、品定めでもするように顔に触った。エリスはその手を叩くように払いのけると言った。
「マルコ、こんなやつら柔術でやっちゃいないさいよ!」
エリスはけしかけた。マルコは露骨に戸惑った。連中は顔を見合わせてゲラゲラ笑った。エリスによって顔に泥を塗られた男は、生意気な女だ、と言い出した。一人が言った。「あいつはジョルジの妹だぞ」その言葉に、手を出そうとしてた男はためらった。
その隙を、天才的なタイミングでマルコは走って逃げ出した。それに続いてエリスも逃げた。それを見て僕も逃げた。それらを見て自動的に連中も逃げる僕らを追いかけた。しんがりの僕は、追いかけてくる連中の罵声を浴びながら必死に走る。先頭を走るマルコの背中がどんどん小さくなっていく。キリンみたいな脚のエリスが速いのはわかるけど、あんな体型のマルコがあんなに速いなんて考えられなかった。数学の法則なんかがおよばない自然の法則があることを学びながら僕は走った。