炎天下の僕は名前の知らない君を呼ぶ
その日は、とても暑い夏の日だった。
炎天下の青空。夏の日差しはジリジリと屋上のコンクリートを焼きながら、容赦なく僕に降り注いでいた。
野球部の部員達と先生の声が聞こえる。音楽室からピアノの音と歌声が聞こえる。
そんな昼過ぎの太陽の日差しによって一番気温が上昇する午後2時。僕は、屋上のフェンスの前に立った。
もしかしたら彼女がいるのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていたのは事実で、無事にその期待が木っ端微塵にぶち破られて、むしろ安心感さえ出てきてしまっている今日この頃だ。
もう一度彼女のことを振り返って、僕の気持ちを再確認して、本当に彼女に会いに行くか決めよう。そう思ってここに来た。
彼女、「屋上さん」のことを、もう一度思い返してみよう。僕は、ゆっくりと目を閉じた。
♢ ♦ ♢
僕にとって彼女は友達だった。
果たして、彼女が僕のことを友達と思ってくれているかは分からないけれど、僕にとっては、少なくとも友達だった。
いつも屋上にいた彼女の名前は知らない。いつもぶっきらぼうに屋上のポンプ上に座る彼女。彼女のことを、僕は「屋上さん」と呼んでいた。なんだか、そんな何の捻りもないネーミングを、僕は自分自身で勝手に気に入っていた。
屋上さんは、いつも屋上のポンプの上に座っていた。
黄色のペンキをぶちまけたような、パステルカラーな髪の毛をした屋上さんは、僕に呼ばれるとめんどくさそうにポンプの上から僕を見下ろしてきた。
ポリポリと頭を掻きながら「めんどくせぇ」と言って、それでもちゃんと僕のいるところに降りてきてくれる。
寝不足で狐目の下にクマを作っていて、いつも僕のことをその目で睨み付けてくる。
最初こそ怖かったけれど、最終的には僕にとってすっかりチャームポイントになっている。
そんな目つきの悪い屋上さんは、口も悪い。「あぁ?」とか「は?」とか、口癖のように言ってくる。なんだか、絵にかいたようなヤンキー女子だ。
僕にとっては、ヤンキーというのは恐怖の対象でしかなかったんだけど、屋上さんにだけは、そんな苦手意識は出なかった。
屋上さんには、当初からなんだか惹かれるものがあったのだと思う。
僕が初めて屋上さんに初めて会ったのは、今年の春だ。入学式から1年経ったゴールデンウィーク前のある日の放課後。
僕はいつも通り、クラスメイトのヤンキー3人に暴行を受けていた。
僕にとっては日常なことだから、もう慣れっこだったけれど、その日はちょっと痛かった。
口の中が切れたみたいで、殴られた拍子に口から血を出した僕に、ヤンキー達はただ笑っていた。その笑い声が、ただただ嫌いだった。
いつも通り、ある程度僕を殴って満足したその3人は、愉快そうに笑いながら屋上を降りて行ったのだけど、その屋上の入り口に彼女は立っていた。
3人のヤンキーはその彼女に目をくれず、屋上を後にして、彼女は彼女で、そんな3人に目線すら移さず、僕の方に歩いてきた。
特徴的なその明るい黄色の頭髪に自然と目がいった。
「……」
僕のそばまで来た彼女は、まだお腹を押さえて蹲る僕の前に立って、汚物でも見るかのような蔑んだ眼で僕を見下ろしてきた。
僕はそんな眼に多少の恐怖を覚えて、へへへ、と愛想笑いを彼女に返した。
「……なぁ。痛てぇのに、なんでお前笑ってんの?」
彼女はそう言って、スカートのポケットに入れていた水色のハンカチを僕の顔に落としてきた。
「口拭けよ、きたねぇから」そう言いながら、彼女は僕に背中を向けた。どこに行くのでもなく、ただ僕に背中を向けて、その場に立っていた。
僕は、そのハンカチを使って血を拭うのが申し訳なくて、ハンカチは使わずに制服の袖で口元を拭いた。
そしたら、その僕の様子をいつの間にか振り返って見ていた彼女は、何の手加減もなく僕を蹴り飛ばした。
「なにお前。人の気遣い無駄にしてんの?」
彼女は、苛烈で不器用な人だった。
♢ ♦ ♢
僕はと言えば、今の高校に入る前から、友達は少なかった。
僕は「陰キャラ」と言われる部類の人間で、学校に来ても机の上でいつも本を読んでいるような暗い人間だ。二人組の班を作るのが、一番嫌なタイプの人間だった。
そんな僕はこの高校に入って一年間、ものの見事にいじめの標的にされた。
元々からあまり頭の良い高校でもないため、頭髪を染めたヤンキーが普通にいるし、そいつらが竹刀を持って廊下を歩く姿も見たことがある。
そんなところに現れた地味で暗い僕は、いい的だったのだと思う。
毎日のようにいじられ、詰られ、殴られる日々。それでも僕は学校にだけは行き続けた。
そんな苦痛な毎日でも、僕が学校に行ったのは家にいるよりかはマシだったからだ。
家のことについては、割愛する。屋上さんを思い返すのにいらない情報だからな。
屋上さんと知り合ったその日から、僕は毎日屋上へ行った。
うちの高校は10年近く前に起こった女子生徒の転落事件から、屋上のフェンスが2メートルを超える高さに設置されているが、未だに屋上への出入りは禁止されていない。
殴られる以外屋上に行くことのなかった僕だけれど、放課後は、毎日屋上へ行った。
彼女は大抵、屋上のポンプの上に座っている。どれだけ早く僕が教室から出てきたとしても、彼女は先に座っている。
たまにフェンス越しに運動場を見たり、屋上の入口から陰になって見えない隅っこで寝ていたりするけれど、屋上には必ずいた。
僕は彼女を見かけると声をかけるようにした。彼女はイライラした口調と態度で僕の相手をするけれど、それでもちゃんと相手はしてくれた。
僕は、彼女に次第に惹かれていった。
彼女のことが気になりだした僕は、彼女が何年生でどこのクラスなのか、名前はなんというのか、質問が多くなっていった。
でも彼女は、そのどれにも答えることはなくて、やっと返してくれた言葉は、
「色々付けまわされるのはめんどくせぇ」
だった。
そんな僕を突き放す屋上さんに僕が、一気に距離を詰めることができたのは、すぐ後のゴールデンウィークの事だった。
あれはゴールデンウィークの最終日だった気がする。
夕方、もう日が暮れ始めていた時間に、学校の前を自転車で通った僕は、何気なく学校の屋上を見上げていた。別に屋上さんを探していたわけではなく、いつも僕はあそこで屋上さんと話しているのか、と、そんなどうでもいい些細な事を考えて見上げていただけだった。
この日ほど、僕は自分の視力が良かったことに感動したことはない。
学校の屋上のポンプ。その上にいつも通り、屋上さんが座っていた。
僕は、一目散に学校の前に自転車を止めて、階段を駆け上がり、屋上へ上った。
あの日の屋上さんが僕を見る呆れた顔は、今でも僕の印象に深く残っている。
♢ ♦ ♢
「屋上さんはいつも屋上にいますよね」
そんなことを僕はその時言った気がする。
以前にも同じようなことを言ったことがあったけど、今回はやや意味合いが深くなったはずだった。
なんて言ったって今日はゴールデンウィーク。祝日だ。学校に来る必要のない日だ。
そんなときにもう日が暮れるこんな時間に屋上にいる彼女は、どうみても不審だった。
屋上さんは、空を見上げて、ポンプの上から返事をする。
「ここが好きなんだよ」
初めてまともに僕の質問に返してくれた瞬間だった。
僕の気分はもうその場でバク転が出来てしまうんじゃないかと言うほど盛り上がった。
だけど、そんな感情を一部も出さずに、僕はクールな振りをしていた。あの頃の僕はばかだった。
それから他愛のない話をした。
屋上さんは、自分の事を聞いてくる以外の質問は、基本的になんでも答えてくれたし、僕の相談にもめんどくさそうな顔をしながらも答えてくれていた。
彼女は別に僕と話すのが嫌なわけでなく、自分のことが聞かれるのが嫌なんだ。
そういう風に解釈することで、僕は自分が屋上さんのそばに居ていい理由を作った。
屋上さんと話すのは楽しい。楽しすぎて時間を忘れる。
気が付くと、すっかり日も落ちて、スマホで時間を確認すると7時を回るところだった。さっきまで聞こえていたはずの野球部の声は、もう聞こえなくなっていた。
「屋上さん、そろそろ帰りましょう」
そう言う僕に、
「私はまだここにいるよ。先に帰れ」
そう答えて、またポンプの上によじ登っていく。
と言っても、もうしばらくしたら学校の正門も閉まってしまうだろう。でも、屋上さんは自分のことを言われるのを心底嫌うことをしっかり覚えていた僕は、もうそこには触れず、「また明日ね、屋上さん」とだけ伝えて、屋上を降りた。
学校の前に止めていたはずの自転車がなくなっていた。パクられたみたいだ。ちくしょう。
ゴールデンウィークが明け、梅雨入り前の時期、僕はまたいつものようにクラスのヤンキー達に連れられて、放課後屋上へ連れていかれた。
あの日、屋上さんと出会った日以来の屋上での暴行だったけれど、殴られることに対する恐怖より、屋上さんに見られてしまうんじゃないかってことの方が、なんだか怖かった。
屋上さんに弱い自分を知られたくない。そんな見栄が、僕の中に芽生えていた。
だけど、屋上には彼女がいた。いつも通りポンプの上に座っていた。ヤンキーに連れられる僕を、いつもの冷ややかな目で見つめていた。
それから数十分。いつも通りの暴行が終わり、うずくまる僕を笑いながら、ヤンキー達は屋上を降りて行った。
笑い声が遠ざかるのを確認した僕は、ゆっくりと痛む体を起こして、ポンプの上を見た。そこには屋上さんの姿はなくて、屋上さんは、いつの間にか僕の眼前にいた。
「……」
初めて会った頃のデジャブを感じた。
ふと、その時に貸してもらったハンカチの存在を思い出した。僕はまだあのハンカチを彼女に返していない。洗濯をして、確か僕の部屋の引き出しにしまったままだ。
そんなことを思い出して、僕は、また「へへへ」と愛想笑いを彼女にした。屋上さんはそんな僕を見下ろしながら、静かに言った。
「なんでお前は殴られてそんな笑ってんだよ」
最初の頃も同じこと言われたな。
そう思いながら返事をする。
「笑っていたら、なんだか、元気が出るんだよ」
そんな思ってもないこと言った。
「嘘つくな。私はうそつきが嫌いなんだよ」
屋上さんの視線にいたたまれなくなって、視線を屋上さんの目から地面に落とした。
「笑ってないと、やってられないじゃんか」
「……ばかなのか、お前」
僕の本音に屋上さんは言う。
「笑う余裕があるなら、やり返せよ」
「無理だよ!!」
思っていたよりも大声が出た。
視線をあげて、屋上さんを見上げる。目に涙がたまっているのが分かる。恥ずかしい。情けない。その感情がぐるぐると頭を巡っていたけれど、それよりも、僕を見下ろす屋上さんに縋りたい。そんな想いが強く僕の前に溢れていた。
「無理じゃねぇよ」
でも、屋上さんはいつも通りの声で、飄々とそう言った。
「無理だって!」
「無理じゃねぇ」
「無理なんだよ!!」
「無理じゃねぇっつってんだよ!? あ!?」
彼女はそう叫ぶと、僕の胸倉をつかみあげた。
ひっ、と情けなく声が出てしまう。怖い。奥歯がカチカチと当たる音が聞こえる。
彼女の眼光から逃げるように、目をぎゅっと閉じる。
「私のこと気づいてんなら、やらなきゃダメなんだよ、お前は」
「え、え? どういう――」
「いいからやるんだよ!! わかったな!!」
「はい!!!」
屋上さんはそう言うと、僕の胸倉から手を離した。完全に力抜けてしまった僕は、その場で尻もちをついてしまう。
屋上さんはその後、ポンプの定位置へ上ってしまって、いつもより不機嫌そうな顔をしていた。僕はいたたまれなくなって屋上を後にした。
屋上さんの不可解な言葉について考えることもできないまま、僕のその日は終わり、僕の学校生活の歯車が回り始めることになる。
♢ ♦ ♢
いじめから脱却するために、どうしたらいいのか。
その解決策は簡単には出ない。簡単に出せたら今の今までこんな惨めにいじめられ続けたりはしない。
でも、このままだとダメだと思った。
それは、僕自身がどうこうという話ではなくて、単純に「屋上さん」に愛想を尽かされてしまうことに対する不安が、僕の背中を押した。
もう僕はこの時から屋上さんに惚れていたのだと思う。好きだったんだ僕は。だから、いじめてくる奴らに歯向かうことよりも、屋上さんに嫌われてしまうことの方が、僕は怖くて仕方なかった。
僕は次の日、学校を休んだ。僕が変わるために必要な一日と割り切った。
外見から変えた。
髪の毛を切った。目まで隠れてしまうような髪の毛はばっさりと眉毛の上まで切って、横髪は刈り上げた。今流行りの「ツーブロック」とやらの髪形にした。
眉毛を整え、鼻毛の処理もする。今までないがしろにしてきた部分が浮き彫りになって、それを直すたびに、底知れぬ充実感があった。汚い部屋を掃除して、どんどん綺麗になっていく様子を眺めているような、そんな、充実感があった。
外見の準備が済んだら、学校生活の送り方だ。
今一度、僕に置かれている状況を整理した。
僕の学校は確かに不良の吹き溜まりだし、僕の苦手なヤンキーばかりだけれど、よくよく思い返してみると、僕に暴行するヤンキーはいつも決まった3人だけだ。
クラスメイト40名のうち、僕と彼らを除いて36人は僕に無干渉だ。興味すらないような感じだ。それはつまり、いじめてくる3人に対しても、大した興味を持っていないということだ。
学校内のいじめによく聞く「いじめられっ子を助けると、次に自分が標的になる」という話。これは、今回は適応されていないはずだ。
彼ら3人は決してクラス内で上に立場にいるわけではなく、むしろクラスのもっと怖そうな人に対しては頭が上がらないような感じだった。
なら僕にできる、学校生活での解決法は、たった一つ。
クラスのカースト上位の輪に入ることだ。
だがどうやって?
単純な話だ。今回の僕の変化によって、クラスの人間は少なからず驚くことだろう。
教室の隅でじめじめと生活していたイモっぽいやつが、急にさっぱりして帰ってくるんだ。きっと何かしらのアクションがあるはずだ。
いじるように、僕になにか言ってくるはずだ。
その時に、僕は頑張らないといけない。苦手意識と共に、関わらないようにと目を伏せて会話を早々と終わらせてきた時とは違う。
僕が、彼らと積極的に絡むしかないんだ。
それが、僕が屋上さんに愛想尽かされないための方法だった。
結果として、僕の目論見は成功した。
もちろんそんな肩を組むような仲ではないけれど、いじられキャラの立場として、色々とからかわれる肩身の狭い立場ではあったけれど、それでもカースト上位のメンバーの輪に入ることに成功した。
僕は、あの暴行を加えられるような日々から脱却したのだ。
僕がこの立場を確立するまでの約一か月間、僕は屋上に上がらなかった。屋上さんに会わないようにした。
学校内でも屋上さんとすれ違うことがあるかもしれないと思っていた僕だったけれど、この一か月間で屋上さんと廊下ですれ違うようなことはなかった。
梅雨があけた六月下旬。放課後に僕は屋上の扉を開けた。すっかり暑くなった気温にあてられ、若干屋上のコンクリートは熱を放っていた。
僕は一直線にひとつのポンプに向かった。その上に座る、一か月前から変わることのない屋上さんの元へ、向かった。
「屋上さん、久しぶりです」
「ちっ」
久しぶりの屋上さんとの会話。最初の返事は舌打ちだった。
「せっかく来なくなったと思ったのに、また来たのかよ」
「すいません、遅くなりました」
「なんで謝られないといけねぇんだよ。待ってねぇよお前の事なんか」
屋上さんは相変わらずで、心底めんどくさそうに僕の言葉に答えてくれた。
そして、目線を僕に落とした。少しだけ、目が優しい気がした。
「ずいぶん印象が変わったな」
「イメチェンしたんです」
「前よりずいぶんとマシだね」
「だとしたらうれしいです」
屋上さんは微笑んだ。
狐目を細めて、いつもの鋭い眼光ではなく、どこか温かな瞳が、僕を見下ろす。つい、見とれてしまう。屋上さんの笑顔を、僕はこの時初めて見たからだ。
「んで、何の用?」
屋上さんの言葉で、はっと意識を戻す。
僕は若干上ずってしまう声で、現状を報告した。屋上さんの言うような「やり返し」はできなかったけれど、僕がちゃんと笑えるような学校生活を送れるようになったと、それを説明した。
屋上さんは、終始僕の話をつまらなさそうに聞いていた。相槌もなく、反応もなく、でもそれでもその目だけは、僕をじっと見ていた。
最後、僕の話終えると屋上さんは一言「なげぇよ」と言った。
そのまま空を見上げた。屋上さんはそれっきり何も話さなかったけれど、僕はそれでも最後まで話を真剣に聞いてくれていた屋上さんに感謝して、少しでも好きな人のそばにいたいと、ポンプの下で座った。
ただ沈黙だけが僕たちの間にあって、野球部のノックの音と掛け声だけが、学校を木霊していた。
♢ ♦ ♢
七月中旬。すっかり夏模様で、学校の生徒はすでに夏服だ。僕も暑い暑いとうちわ片手に学校生活を過ごす日々。
なんだかんだでクラス内に馴染めた僕は、2か月前にいじめられっ子の印象はすっかりなくなり、笑顔で過ごすことが出来ていた。
毎日のように放課後屋上に上がり、どうでもいいことを屋上さんに話す。屋上さんからきついお言葉をもらって、一日が終わる。このルーチンが出来上がりつつあった。
そんなある日、僕にまた一つの転機が訪れた。
「私と付き合ってください」
放課後、屋上に上がると、クラスの女子がいた。
クラスの中ではかなり地味目で、黒髪のおさげがなんとも昭和感を漂わせる女の子だ。
いつも教室では、地味目の女子2,3人で集まって話しているところを見たことはあるが、僕と大した接点がある子ではなかった。
そんな彼女から、告白された。
「え、え、僕に言ってる?」
「はい……。言ってます」
彼女、名前を出すとまたややこしくなるから、彼女のことは「黒髪さん」と呼ぶけれど、黒髪さんが言うには、僕がまだいじめられていた頃から、僕のことを気になっていたそうで、イメチェンをした僕に、もう完全に心を掴まれてしまったらしいのだ。
こんな僕に想いを寄せる女の子がいるとは思わなかった僕にとって、これは完全に想定外。情けなくもしどろもどろの反応になってしまう。
黒髪さんの真剣な表情に遊びの感情は無さそうで、僕はこの状況に完全に酔ってしまった。
安易にその告白を受けた。
黒髪さんの泣きそうな笑顔が、印象に残っている。
黒髪さんと一緒に学校の最寄り駅まで帰宅してから、さっきの屋上に屋上さんがいなかったことに気が付いた。
毎日のように絶対ポンプの上にいる屋上さんがいなかった。もしかしたら、黒髪さんが来たから、入り口から見えない影のところで横になっていたのかもしれない。
しかし、そこで僕が彼女に惚れていることを思い出した。思い出した、なんて、今思い返すと、バカみたいなことだけれど、それでもそう、思い出した感じだった。黒髪さんからの告白に浮かれて、僕の屋上さんのへの想いは忘れてしまっていた。
言ってしまえば、それだけの想いなのだ。
黒髪さんのことは詳しく知らないし、まだ好きかどうかも分からない。だけれど「自分を好きになってくれている」という充実感だけで、僕は満足していた。この頃の僕は、そういう人間だった。
好きになられて好きになる。そんな恋愛のバカみたいなロジックに捕まった僕は、屋上さんへの恋慕の想いを「憧れ」という言葉に変えて、自分の中で押し殺した。
押し殺したといっても、正確には忘れていったのだけど。
その告白の日から、屋上さんは屋上に来なくなった。
♢ ♦ ♢
屋上さんが来なくなって一週間。学校はもう一学期の終業式を迎える。
全校生徒の三分の一がさぼる終業式の中、僕はひとり図書室の準備室にいた。
終業式の最中は、図書室の先生も終業式に参加するため、図書室は誰一人いなくなる。それを見越して、僕は図書室の本がいろんなところに山積みされている準備室に忍び込んだ。
なぜ僕がここに忍び込んだのか。その理由は一つ。屋上さんのことだった。
屋上さんが屋上から姿を消して一週間。僕は学校内で屋上さんを探し続けた。しかし、屋上さんの姿は見つけることが出来なかった。クラスのグループに頼んで、先輩とのツテを借り、色々話も聞いたが、彼女のことを知る人はいなかった。
不良が多く、髪染めも普通に行われる学校ではあるけれど、あれほど明るい黄色の髪の毛をした女子生徒を、誰も知らないなんて納得ができなかった。
悩んでいる僕が、その時ふと思い出した屋上さんの一言。「私のこと気づいてんなら、やらなきゃダメなんだよ、お前は」だ。あの不可解な言葉をふと思い出した。
当時は、なんの根拠にもならない意味の分からない言葉で僕は困惑していただけだったし、実際今でもそんなの半信半疑だ。それでも、調べずにはいられなかった。
彼女の正体がなんなんか、今どこにいるのか。調べずにいられなかった。
僕が図書準備室の奥の棚から引き出したのは、一冊の分厚い本だ。アルバムのように硬い表紙で覆われたこの資料は、「この学校の歴代の卒業生」の集合写真だ。
僕はその中で、11年前の卒業生たちの写真を開く。11年前、そう、11年前はこの学校で一人の自殺者が出た年だ。
あの屋上から、飛び降りて。
屋上に高いフェンスが作られた理由になった事件があった年だ。
その年の卒業生の集合写真。
右上、当日休みになった生徒が映る別枠の小さな〇の印の中。
その中に、屋上さんは、いた。
♢ ♦ ♢
僕の推理は間違っていなかったのだ。
今日、この日、夏休みに入った炎天下の屋上。彼女がいるかどうか、確認しに来た僕だったけど、彼女はここにいない。
すべて振り返って、僕のこの数か月の時間は、僕が生まれ変わった時間でもあって、屋上さんと過ごした時間でもあった。
僕の中には、屋上さんがいる。
……そう、屋上さんがいるのだ、僕の中には。
あの日、押し殺した僕の中の屋上さんはまだいる。あの日僕を救ってくれて、助けてくれたのは、他でもない屋上さんなのだ。
あの苦痛の日々を生きて、いや、死ぬつもりで生きていたあの日の僕に、一喝入れたのは、「死んでしまった屋上さん」だった。
僕と同じように、死ぬつもりで生きて、死んでいった屋上さんが差し伸べた救いの手だったんだ。
そして、僕は幸せを知ってしまった。
あの日、全て生まれ変わって、もう一度やり直せた僕が、一人好きな人と出会って、満たされてしまった。あの時、僕はもう死ぬつもりではなく、生きるために生きると思ってしまっていたんだ。
彼女が、僕に会う必要はなくなったんだ。
彼女の言った「私のこと気づいているなら」の言葉は、僕が追い詰められている証拠だったのだろう。
だから彼女は、一生懸命、不器用なりに僕を救ってくれたんだろう。きっと僕だけじゃない。これまでも何人も救ってきたんじゃないだろうか。そう思ってしまうほど、彼女は不器用なりに優しかった。
全て振り返って、思い返して、再度自覚する。
僕は屋上さんに会いたい。今の気持ちを伝えたいし、僕が好きなのは、屋上さんなのだと、思いっきり叫びたかった。「バカだろ」って一蹴されて、顔にビンタされてもいい。
それでもただ、屋上さんに会いたかった。そばにいたかった。
僕は、屋上さんに、惹かれている。
屋上のフェンスは、高い。
乗り越えるにはやっぱりそれなりの時間と力を使った。
乗り越えた後、こうやって思い返して、やっぱりこの気持ちが変わらない今、僕はきっと間違っていない。僕は、生きるために、こうするんだ。
僕らしくあるために、こうするんだ。
フェンス越しにポンプの上を見る。
もちろんそこに屋上さんの姿はない。あるわけがない。彼女はもう、僕には見えていない。
もしかすると今目の前にいて、何か言ってくれているかもしれない。でも、大丈夫。
僕は今絶望なんてしていない。むしろイキイキとしてるよ。
屋上さんに会うために、僕は、生きるために死ぬんだ。
屋上さん、待っててください。
僕はあなたのそばにいたいです。
そうして僕は駆け出した。
屋上さんがいるところへ、全速力で――。