後篇:俺の屋敷の泥棒はとても幼い子どもだった。
かなり年季の入った屋敷に住んでいる。
立派な門に漆喰で造られた壁。
外から見ることは決してできないが、古風な建物があることは容易に想像できるだろう。
近所の人々はこの屋敷を「お化け屋敷」と呼び、恐れていた。
この門が開いたところを一度も見たことがないという年配の方もいるほど、この屋敷に人気はない。
しかし、夜になると話し声が聞こえるだのここに入ったものは出てこられなくなるだの噂が噂を呼んでいた。
だから、この屋敷に近づこうとする人すらいない。
今日は桜月学院高等科の卒業式。
私は女王陛下の御卒業があと一年であることを思い出した。
あと一年でこの街ともおさらばだ。そして、この屋敷とも——。
この街を離れることは寂しいし、悲しい。むしろ永住したいくらいだ。
何もない、ただの住宅地の街だったが、思い入れはある。
特にこの屋敷はそうだ。
そっと畳に触れてみる。ポロポロとイグサが出てくる。
慌てて指を引っ込める。
私がこの漆喰の向こうへ行くのは任務の時ぐらいだ。
そして、誰にも気づかれぬように気をつけてきた。
今度こそ女王陛下をお護りする。それだけが私のやり残したことなのである。
「御主、その力を私が為に使わんか?」
昔、私……いや、俺は異国で怪物たちの姫をやっているという鬼の女に助けられた。
「桜華!何してんだ!ほら、早く行くぞッ!」
白髪で紅眼の青年はその女の腕を引き、道端で野垂れ死にしそうな俺を見下げた。
俺は人の血に塗れたただの人斬りだった。
もとは人斬りなんぞ興味もなければ、逆に嫌悪するほどだった。
それでも身体が変わっちまってから、理性のない俺はただただ斬ることしかできなかった。
「あ゛?……何言ってんがんでェ、手前……」
「御主の力は素晴らしい!!是非とも私に協力してほしいと言っておるのだ」
「わかってンだろうなァ?桜華!余計なことはすンなよ?」
「ラウ、そんなこと百も承知じゃ。しかしどーせ、行く当てもないのじゃろう?」
「わかった……」
祭囃子の五月蝿い音と女の声音が脳に張り付く。俺は仕方なく、その手をとった。
桜華とラウは吉原一と謳われる遊郭、玉露屋に用心棒として雇われている……というのは少し語弊があり、かなりの優遇を受けていた。
広い部屋にふたりで住んでいるとのことだった。
そして、俺もそこに加わることとなった。
忘八者かと尋ねたら、少し違うと返された。
俺が来た当初、禿が飯を持ってきてくれた。しかし、飯が喉に通らず、俺はすぐに飯を食うことをやめた。
ラウも飯は食わないため、桜華のみが飯を食っていた。
俺の飯は米ではなく、いつの間にか桜華の血になっていた。
「ンッ……!」
桜華の首元に牙を突き立てる。
溢れ出る紅い雫に喉が歓喜しているのがわかった。
よく見ると桜華は頬を赤らめている。その妖艶さと血の美味さに思わず身震いをする。
「おい、何してんだよ。鈍臭ッ!ほんとにトロいなぁ……さっさと行けよ!トロ斬り!」
「誰がトロ斬りだァ?え?うるッせェよ!このくそったれェ!!」
「貴様、誰のおかげで此処に立ってられてンのか自覚しろよ……このバケモンが」
「ッ……!」
言うこと聞かなければ何をされるかわからない。
そんな漠然とした不安が一気に立ち込める。
ラウは俺に対してだけ強く当たった。
それでも闘うことに関してはピカイチで頭もよく切れた。
桜華にも随分と頼られていた。桜華曰く昔から馴染みのようなものらしい。
長屋を出て、数ヶ月。此処での暮らしも慣れてきた頃だった。
「京の島原への手配が済んだ。楼主にはもう伝えておる。明晩には吉原を発つぞ」
突然の知らせだった。
「おい、桜華。ぬらりひょんの旦那の処へはまだ挨拶済ませてねェぞ」
「あぁ、そうじゃったそうじゃった……。忘れておったわ。そういえば、御主……妻へ別れの挨拶は良いのか?」
「別にいい。今更、会ったところで次いつ会えるかもわからねェ」
すると桜華はなぜか愛刀で手のひらを切った。
血で濡れた手のひらがぬらりと紅く染める。
俺の理性は真っ逆さまに落ちていった。
しばらく経って、どすりという強い衝撃で目が覚めた。
何が起きたのか最初は全く理解できず、ふと周りを見た。桜華は意識を失っていた。
後ろには怒り狂いそうなラウがいた。
「吸いすぎだ。このバケモンがッ!でも……これで飢えは来ねェだろ?さっさと橋のとこまで行ってこい。オメェの奥さん待ってやがるからよ……」
そうだ。俺はバケモンだ。バケモンで何が悪い。
だからもう妻に会う資格なんぞないのだ。
それでも次いつ会えるかわからない。
今度会うときはどちらかが死んでるかもしれない。
我慢していた涙がただただ滝のように溢れ出した。
頭がじんじんと痛み出し、目が覚める。
頬が濡れていることに気づき、裾で少し拭った。
頭の中で少しずつ今までに起きたことが整理され始める。
ふと天井を見上げる。飾り気のない天井は俺に謎の空虚感を与えた。
周りを見渡す。誰もいない。今の今までのは夢だったのか。
そう思うと急に孤独感が湧いてきた。
ふいに襖の向こう側から血の香りが漂ってきた。声は出さない。
想像するだけでひりひりとする喉を静かに潤していく。
そのまま刀を携え、襖をゆっくりと開けていく。
一体誰なのだ。今の今まで人気はなかったはずなのに。
身体を低くし、息を潜め、じぃっとその開いていく隙間を凝視する。
「何者だ」
血と泥で塗れた幼い女児が立っていた。
さらさらとした黒髪に無邪気さを思わせる瞳、傷と泥だらけの肌。
見た目は幼女であるにも関わらず、どこか寂しさを感じさせる雰囲気。
俺は一瞬で『この者は普通ではない』ということをどこかで悟った。
彼女は刀を携えた俺をじっと見つめる。
「こんなところで何をしている」
幼い子どもである相手に警戒心を持たれぬようになるべく優しく声をかけた。
すると彼女は今まで張り詰めていた糸がプチンと切れたのか、大声を上げて再び泣き始めると、俺のもとへ駆け寄った。
そして、俺の足にしがみつく。
「うえぇぇぇ〜〜〜〜んんん」
俺は最初こそすれ困っていたが、兎に角にも泣きじゃくる彼女の頭を撫でながら、目の前にしゃがみ込んだ。
彼女は俺の眼球を穴が開くほど見つめる。
俺は彼女の腕を手にとった。思った以上に痛々しい傷ばかりだ。
「よしよし……痛かったねぇ。まさかあのツタを登ったのかい?」
彼女は無言で強く頷く。俺は呆れてしまった。
まさか本当にあそこを登るような奴がいたとは……
「そんなことをしちゃいけないよ。手当てをしてやろう。上がっておいで」
俺の声に促されるまま、彼女はボロボロになった靴を脱ぎ、屋敷へと入ってきた。
温かい布でゆっくりと腕を拭いてやる。
彼女は患部が布に当たる度に幼い瞳を潤ませた。
「君、名前は?」
「桜」
それを聞き、俺は少し俯いた。桜か……。桜華の溌剌さを思い出す。
そう言えば、桜華は江戸を発つ前日、昼間は寝ている俺の代わりに妻へ俺が生きていること、明晩には江戸を発つことを伝えてくれた。
しかも、俺が妻と会えるように計らってもくれた。
その時、妻は身籠っていると教えてくれた。
俺が江戸を発って、すぐに女の子が生まれたとの文を島原で受け取った時は居ても立っても居られなかった。
確か、あの子の名は——
「お兄さんは?」
「お兄さん?」
きっと間の抜けた表情であったに違いない。
桜ちゃんは少し不貞腐れた表情を見せて、声を張る。
「お兄さん、名前は?」
お兄さん?名前?普通、この俺にそんなことを訊くような奴はいない。
何せ、バケモンを束ねる女王陛下に仕えている身。名前なんぞ、皆が知っている。
況してや「お兄さん」などと呼ぶような奴もいない。
「『お兄さん』とは私のことか?」
未だに笑いを引きづりながら、尋ね返した。
「お兄さん」とは一体誰のことだ。
俺は「お兄さん」と呼ばれるほど若造でないぞ。
「そうだよ」
桜ちゃんの頬は更に膨らんだ。俺は少々からかいすぎたようだ。
お詫びの印なんぞにはならんだろうが、足を丁寧に拭いてやった。
「嫌な思いをさせて、すまないね。こんな私のことを『お兄さん』なんて呼ぶ人はなかなかいなくてね。本当に久方ぶりだったんだ」
そう言いながら、足を拭いてやる。
「お兄さん」なんて、もしかすると大正の時にカフェの女に呼ばれた時以来かもしれない。
もうそんなに経つのか。そうか。俺はこんなにも年老いてしまったのか。
拭き終えると、救急箱から軟膏を取り出し、それを傷口に塗り始めた。
桜ちゃんの患部に指が触れると軟膏のせいか、痛みがあるらしい。
唇をぎゅっと噛み、悲鳴を上げそうになるのを堪えていた。
ふと俺と彼女の目があった。
「あれ、お目目が……」
俺はギョッとして目を背ける。
「私の眼の色が変わっていたのかい?」
どうしよう。やはり眼の色が変わっていたのか。
桜ちゃんには申し訳ないことをしてしまった。きっと気味が悪いに違いない。
なんて言えば良いのだろうか。
「すっごく綺麗だった。お空みたいな蒼だった。でも、今、黒くなってたから……つい。ごめんなさい」
「綺麗……か。そう言った人はこれで三人目だ」
三人目だ。桜華と妻、そして桜ちゃん。
彼女の頭を撫でる。その頭は小さくて、柔くて、そしてじんわりとしていた。
俺はその頭を心地よく思った。
きっと妻と娘と暮らせていたら、こんな光景にもっと早く出会えたのかもしれない。
「私のことが怖くないかい?」
「怖くなんかないよ。だって、お兄さんはまるで——」
口を紡いだ。その言葉の続きは何なのだろう。
その先が知りたい。そんな気がした。
今思えば、きっとあの想いは本物だったような気がする。そう。彼女はこう言おうとしたのだ。
(まるで——お父さんみたい)
あの無邪気に見つめる瞳は俺に『父』を映していたのかもしれない。
急に黙りこくった桜ちゃんの手足に軟膏を塗り終えると包帯でくるくると巻き始めた。
「きつくはないかい?」
「……うん」
俺には娘がいた。俺は娘が産まれる前に死んだことにしたという。当たり前の話だ。
だが、俺の側にもし娘がいてくれたのなら、こんな風に優しくしていたのだろう。
彼女が本当の娘だったらいいのに。
叶うはずもない空虚な願いは俺をまた悲しみの渦へと巻き込んだ。
彼女の瞳からポタポタと涙が溢れていた。
畳が濡れていく。雫が落ちる度に雫が跳ねる。
その様子にそっと眼を背ける。
「やはり、きつかったかな?もっと緩めるべきだったようだ。すまない。力加減ができてなくて」
違う。そうではない。違うのだ。君は何も悪くない。
どうしてまた申し訳なさそうに泣いているのだ。
やめてくれ。俺が総て悪いのだ。だから、本当にやめてくれ。
俺にそれ以上優しくさせないでくれ。だから……だから……
「お父さん!」
父でもない俺に彼女は抱きついていた。
冷たい俺の体温に少し火照った彼女の身体はちょうどよかった。
彼女の涙は止まらなかった。抱きしめ返そうとした。
しかし、俺はこの娘の父ではない。けれども彼女が俺に父を見ているのであれば、応えてやるべきだろう。
ゆっくりと俺は抱きしめ返した。
俺の浴衣を涙が濡らしていく。いっそ俺も泣けたらいいのに。そう思いながら、彼女の頭を撫でた。
「よしよし……いい子いい子……たんとお泣き。今泣けば、また強くなる」
人は泣くだけ強くなる。そう言っていたのは父だった気がする。
安心したのか桜ちゃんは俺の腕の中ですやすやと寝息を立てていた。
俺は自分が先ほどまで寝ていた布団まで運ぶ。幼い彼女の身体は驚くほど軽かった。
布団をかけてやり、蚊帳を吊り、俺は襖の奥で座ったまま眠っていた。
突然、彼女の気配が動いた気がした。
目を開け、襖を開ける。
予想通り、桜ちゃんは起きていた。
ふと空を見た。紅色にすっかり染まっている。
「目が覚めたか。もうお家へ帰った方がいい。送ってあげよう」
そう言って蚊帳を少し開け、桜ちゃんに出るよう促した。
早く帰さなければ、何かあったら困る。そんなことしか頭になかった。
彼女の表情が気になって、見てみる。鬱々としていた。
なにか嫌なことでもあったのだろうか。もしかすると此処に忍び込んできたのにも理由がありそうだ。
「そう言えば……桜ちゃんはどうしてこんなところに来たんだい?そんな無理をしてまで」
「実は……男の子たちに言われて……。お化け屋敷から宝物を盗ってこい……って」
虐められていたのか。可哀想に。俺は彼女の頭に手を伸ばす。
俺に殴られるとでも思ったのだろうか、目をぎゅっとつむってた。優しく撫でてやる。
「随分と可愛らしい泥棒さんが来たものだ。来なさい。どれかひとつ持って行くといい」
俺の後ろにとことことついてきた。あまりの純粋さに少し心配になる。そして、蔵まで案内してやった。
「この蔵はいらないものがいくつもあってね。処分に困っていたのだ。どれかひとつ持って行きなさい」
蔵に入ると土の混じった匂いと冷んやりとした空気が俺にまとわりつく。
そんな中を小動物のようにきょろきょろと辺りを見つめている桜ちゃんは可愛らしかった。
ふと動きが止まる。何か見つけたようだ。
「これは?」
俺は紫の巾着を手に取り、埃を払う。
巾着を開けて、中身を手の平に出した。
彼女はそれを覗き込む。
「これは……ラムネ玉だね」
確か桜華から貰ったものだ。
桜華の女王として譲位が決まり、英国に帰る桜華についていった。
それから数年後、再び日本やってきた時に貰ったのだ。
結局、俺はラムネすらも飲めなかったが。
「ビー玉じゃないの?」
「あぁ、今はビー玉っていうのか。懐かしいなぁ」
裸電球の光にラムネ玉を当ててみる。綺麗に輝いていた。
「綺麗な蒼色……お兄さんのお目目みたい」
——この玉、御主の眼の色と同じじゃな。親父殿!この玉はどうすれば取れる?ご享受願いたい!
——お嬢ちゃん、この玉はなァ、「ラムネ玉」って言うんでェ
——ほほう……ラムネ玉というのか!で、これを取るにはどうすれば良いのじゃ?
——割ればいいでさァ
——なるほど!……これで良いのか?
——うんめェな!お嬢ちゃん!
——ほれ、御主へのプレゼントじゃ。心して受け取るが良い
「これを貰った時もね、そう言って貰ったんだよ。本当に懐かしいなぁ。こんなものまで残していたとは……」
「これ欲しい!」
俺は驚いた。彼女の輝くラムネ玉……いや、ビー玉のような瞳に嘘は感じなかった。
「こんなものでいいのかい?」
「うん!」
桜華との思い出。どうも煙管だけではなかったようだ。こんなところにも眠っていたのか。
この子は俺に様々なことを今日一日で思い出させてくれた。
こんなもので支払えるようなものではないが、こんなに喜んでもらえるならばお礼と思えば十分だ。
「そんなものでよろしければ、どうぞ。きっとガラス玉も蔵に閉じ込められるよりは桜ちゃんに大事にされる方がいいに決まってらァ」
「ありがとう!お兄さん!」
「どういたしまして」
「お兄さんの名前……聞いてなかった。教えてよ」
——御主の名は何という。
——え……?
——名は何というのじゃ。早う答えろ。
「良之介。それが私の名だ」
「りょーのすけ!!」
——りょーのすけ!!りょーのすけというのか!ほう……案外普通じゃな。
「そうそう……良之介だ。私は」
——私の名は桜華じゃ。ま、自分で名付けた名のじゃがなぁ。結構、気に入っておる。よろしく、良之介!
遠い昔のような記憶がふと昨日のように憶い出される。思わず、笑みがこぼれる。
「お兄さんは……お爺さんなの?」
やはり駄目だったか。別にいい。バケモンと呼ばれようが、何であろうが関係ない。
ただこの子に嫌われるのだけは我慢にならない。なぜかそう思った。
言ってしまおうか、どうしようか。悩んだ末に出した結論が——
「そうだ。私は桜ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん、そしてひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが生まれるよりもずぅっと前から生きている」
明かしてしまうことが一番いいと思った。
きっと彼女なら俺の外見じゃなくて中身も見てくれるだろう。
いつの間にか信じていたのだ。
「ひいひいおじいちゃんとひいひいおばあちゃんよりも?」
「そうだね」
「ひいひいひいおじいちゃんとひいひいひいおばあちゃんよりも?」
「多分……」
「ひいひいひいひいおじいちゃんとひいひいひいひいおばあちゃんよりも?」
「それぐらいだと同い年かもしれないね。いや、もっと私の方が年上かも……」
無邪気な質問に最初はどう答えればよかったのか戸惑ってはいたが、歳を重ねてきたせいか慣れは早かった。
「どうしてそんなに長生きしてるの?」
核心を突かれた。言わなければよかったのか。そんな後悔はもう遅すぎた。思わず笑顔が引っ込む。
「それはね、私が鬼、だからだよ」
「オニ?」
「ほら、これを見て」
にぃっと唇を開け、歯を見せた。
牙を見せれば、大抵の人間は恐ろしがって近寄らなくなる。
「牙だ……」
しかし、彼女は違った。牙に触れてきた。
牙を触られるのは何度かあったが、こんな風に子どもに触られる日が来ようとは……。
触りやすいように口を開けてやる。
歯をじっくりと見つめられる。改めて、こんな風に見られると気恥ずかしいものだ。
彼女の手から逃れようと少し歯を動かした。
その瞬間、ふわりと甘い香りが立ち込めた。
あぁ……さっきと一緒だ。あの時何で目が覚めたのか。生き血に飢えていたんだ。
「あっ……」
身体が熱くなってくる。瞳の色もみるみるうちに変わっているに違いない。
亜種の証である蒼穹色へと。
「吸血鬼。血を吸う鬼なんだよ、私は」
俺は彼女の指の腹を少し舐める。
甘い蜜のような味。
あぁ、このままだと吸い殺してしまいそうだ。
でも、この味は桜華の血液とは比べものにならない。
純血種の吸血鬼である桜華の血液は本当に美味かった。
牙を突き立てて、生き血を吸うのはもう桜華だけだと決めたんだ。
「これぐらいの傷なら消毒して、絆創膏を貼れば十分だ。あとで貼ってやる」
「ありがとう……」
俺は吸血鬼の中でも亜種中の亜種。
薬で人工的に吸血鬼へと変化させられたのだ。
普通、吸血鬼の瞳は興奮すれば紅くなる。それなのに俺だけ蒼くなる。
他にも吸血鬼は嗜好品として食事も可能なのに俺は血液でしか生きられない。
そして、極めつけは不老不死という点だ。
吸血鬼は不老不死ではない。ゆっくりと老いていく。
だが、俺だけはあの時のままだ。
街も人も変わっていく。
俺だけが変われない。仲間も作れない。
一体俺は何なのだろうか。人間でもなければ、吸血鬼でもない。
それでも最初に認めてくれたのは桜華だけだった。
桜華は俺に形あるものから形ないものまで、様々なものをくれた。
それでも桜華のことをひとりの女として見ることは決してなかった。
それは男としては最低なことをしたからだ。
妻をひとりにし、娘までも任せきりにした。だから、他人を愛する権利はない。
俺がするべきことはただひとつ。
今は亡き桜華が最後に遺した娘たちを護ること。
ただそれだけなのだ。
あれから十年が経った。あの娘は元気にしているのだろうか。
この屋敷は桜華が日本に遺した家の内のひとつだ。
立派な屋敷ではあったが、近所からは「お化け屋敷」と言われるだけあって、あまりに脆くなっている。
最近は地震も多い。耐震すらやっていない。
この家を誰かに譲ることも考えたが、こんな家に喜んで住むような奴はほとんどいないだろう。
そして、俺は今、刀の前に立っている。改めて見てみると立派なものだ。
妖刀と言われるだけあって、使っていた最初の頃は自分の思い通りに動かすだけでも一苦労だった。
それも今では懐かしい憶い出だ。
「これも歳をとったってことかな……」
この妖刀は人斬りをしていた鬼の俺に相応しい力を持っている。
この刀は血を吸うことでさらなる力を引き出すことができるのだ。
その血は斬りつけた奴の血でも俺の血でも構わない。
ただただ血を欲する刀。ただただ死を欲する刀。
誰が打ったのかもわからぬ打刀についた名は——
「『彼岸』っていうのもなァ……」
斬ったものを必ず彼岸に送るからだとか、斬った痕が彼岸花が咲いたように見えるからだとか、様々な話は聞いてきたが、「彼岸花」というと桜華の娘であり、現女王陛下でもあり、俺の弟子でもある氷華の言葉を思い出す。
——先生って花言葉とかご存知ですか?
——あぁ、聞いたことはあるよ。バラとか色ごとに違うらしいね
——桜にも花言葉があるんですって
——そりゃあ、あるだろうね。
——桜全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」で、種類ごとにまた沢山あるんですよ
——へぇ……そうなのか
——因みに彼岸花の花言葉はなんだと思います?
——さぁ?「残酷な死」とか?
——彼岸花の花言葉は……「独立」「情熱」「再会」「あきらめ」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」「転生」なんですって。意外ですよね!
あの時、思わず笑ってしまった。そして、思った。
俺は彼岸花のように「独立」し、「情熱」を持てているのだろうか。
今までの人生「悲しい思い出」ばかりではなかったのも事実だ。
それでも、妻に「再会」することは決してない。
「あきらめ」ているわけじゃない。だが、死者に会うことはもうできない。
未だに覚えている。あの雨の中の葬式。ふと立ち寄った妻の実家で行われていた。
——誰が……亡くなったんですか?
赤い菊を持っている若い娘に声をかけた。
——私の母です
恐ろしかった。
——そうですか。ご病気で?
薄々感づいてはいた。長年、死と隣り合わせで生きてきたのだから。
——いいえ、突然パタリと
——それは……苦しまずに逝けたのでしょうね
——もしかしてあなたが良之介さん……ですか?
——えぇ、そうです。私が良之介です
彼女がふっと力を抜くように微笑んだ。その笑みは本当に妻とよく似ていた。
——よく母が寝物語で良之介さんの話をしていました。とても優しくて、たくましくて、頼りになるすごい人なんだって。
——そんなことは決してありませんよ
——母は私を女手ひとりで育ててくれました
ギョッとした。それと同時に後悔もした。やはり妻の側に離れるべきではなかったんだ。きっと再婚して、幸せな家庭を築いているだろうだなんて思ってる場合じゃなかったんだ。あぁ、どうしてそうお前ばかり!じゃあ、この娘は!まさか!
——それでも母は『良之介さんはもっと苦しんでいるから』と言ってばかりいました。つい先日、そんな母から文が届きましてね。そこにあなたのことが書いてあったんです
そう言って、文を差し出された。そこにはこう書いてあった。
『もし私が死んで、葬式を挙げる時にひとりの男が誰の葬式かと尋ねてきたら、必ず良之介さんかどうか尋ねなさい。そうだと答えたら、そうしたら、私の大好きな赤い菊を渡してちょうだいな』
——これ、菊です。いつも母がお世話になりました
丁寧にお辞儀する娘の姿はまさに妻、お菊の姿によく似ていた。
——君、名前は?
——桜と申します
——随分と小洒落た名前だねェ
知っているよ。名付けたのはこの俺なんだ。
桜の大木のようにしっかりした娘になって欲しくてね。そう名付けたんだよ。
あぁ、そんなこと言えない。言えるはずもない。
きっとこの娘は信じないに違いない。
俺が……この俺こそがお前の父親なんだよ。
すまない。お菊、桜。お前たちには苦労ばかりかけたね。本当に申し訳ない。
俺が「想うはあなた一人」、「また会う日を楽しみに」「転生」する日を待ち侘びて。
ギッギギギ……という門の音が聞こえた。
誰だ。こんなところにやって来るのは。
誰なんだ。お化け屋敷なんて言った奴は。
俺は「彼岸」を手に取り、静かに立ち上がる。
相手に気配を悟られぬように。門まで近づいていく。
女だ。見覚えのある制服を着ている。
「何者だ」
顔を上げる。あぁ、やっぱりそうだ。こんなに大きくなって——
「こんなところで何をしている」
君は憶えていたかい?十年前、俺のところに来ていたね。君にずっと会いたかったよ。君のおかげで沢山のことを思い出したよ。俺はこの三百年間ずっとずっと思い出そうとしていたことがようやく思い出せたんだ。君はこの十年間どんな十年間だったのかい?
様々な思いが、想いが、念いが、憶いが、溢れて溢れて溢れて溢れて——
「随分と美しくなったね。泥棒さん」
結局そんな言葉しか出なかった。
——氷華、赤い菊の花言葉はどんな言葉なんだい?
——確か……「あなたを愛しています」だったと思いますよ