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前篇:私の初恋の相手はすごく不思議な人だった。




近所にかなり年季の入ったお屋敷がある。

立派な門に漆喰しっくいで造られた壁。

中は見ることは決してできないが、古風な建物があることは容易に想像できた。

近所の人々はこの屋敷を「お化け屋敷」と呼び、恐れていた。

この門が開いたところを一度も見たことがないという年配の方もいるほど、この屋敷に人気はない。

しかし、夜になると話し声が聞こえるだのここに入ったものは出てこられなくなるだの噂が噂を呼んでいた。

だから、この屋敷に近づこうとする人すらいない。




今日は桜月学院高等科の卒業式。

私は大学進学を機に引越しが決まっている。

この街ともおさらばだ。そして、この屋敷とも——。

別にこの街を離れることが寂しい訳でも悲しい訳でもない。

むしろせいせいするくらいだ。

何もない、ただの住宅地の街に思い入れなどはない。

だが、この屋敷は違う。

そっと漆喰に触れてみる。ポロポロと白いものが少し崩れる。

慌てて指を引っ込める。




私はこの漆喰の向こうへ行ったことがある。

そして、そこで不思議な人と出会った。

儚く微笑む彼の姿をもう一度だけ見てみたい。

それだけが私のやり残したことなのである。






「おい!ココから中に入れそうだぞ!」



幼い頃、私は近所の男子たちからいじめられていた。



さくら!行ってこいよ!ほら、早く」



近所でも有名な悪ガキ三人組はニヤつきながら、高い壁に這っているツタを指差した。

そのツタは壁の上までつながっているようだ。

確かに幼い子どもであれば、登ることも不可能ではない。

それでも、勇気のない私はただただ泣くことしかできなかった。



「無理だよぉ……あんなの……」


「やぁ〜い!!泣き虫桜!弱虫桜!」


「わかってるな?一番スゲェ宝物を盗ってくるんだ!」


「これぐらいできるよなぁ。どーせ、人もいないんだろうし!」


「わかった……」



蝉の五月蝿い音と男子の声音が背中に張り付く。私は仕方なく、ツタに手をかける。



「イタッ」



チクリと指先を痛みが刺す。

紅い玉がみるみる膨らんでいく。

よく見るとツタは小さな棘でびっしりと埋まっていた。

思わず身震いをする。



「おい、何してんだよ。鈍臭ッ!」


「ほんとにトロいなぁ」


「さっさと行けよ!トロ桜!」



言うこと聞かなければ何をされるかわからない。

そんな漠然とした不安が一気に立ち込める。

私はこぼれ落ちそうになる涙を必死に拭い、ツタに手と靴をかけ、急いで登った。

壁の天辺にたどり着いた頃には手のひらは無数の刺し傷で埋まり、身体のあちこちに擦り傷と切り傷があった。

壁に宙ぶらりんのまま、一息ついた瞬間だった。

血で濡れた手のひらがぬらりと滑り、私は真っ逆さまに落ちていった。

どすりという強い衝撃で何が起きたのか最初は全く理解できず、我慢していた涙がただただ滝のようにあふれ出した。

声を張り上げて、思いっきり泣いた。




喉がじんじんと痛み出し、涙がだんだんと引っ込み始める。

頭の中で少しずつ今までに起きたことが整理され始める。

ふと壁を見上げる。

ツタのない壁は私に謎の達成感を与えた。周りを見渡す。誰もいない。

この壁の高さではきっとあの子たちも助けには来ないだろう。そう思うと急に孤独感が湧いてきた。涙がぽろぽろとこぼれてくる。声は出ない。ひりひりとする頬を静かに潤していく。




そのまま呆然と立ち尽くしていると、襖がゆっくりと開く。

一体誰なのだ。今の今まで人気はなかったはずなのに。

身体を怖ばせ、息を潜め、じぃっとその開いていく隙間を凝視する。



「何者だ」



長い棒を携えた浴衣姿の青年が立っていた。

さらさらとした黒髪に蒼穹を思わせる瞳、人形のような白い肌。

見た目は若者であるにも関わらず、若さを感じさせない雰囲気。

私は一瞬で『この者は普通ではない』ということをどこかで悟った。

彼は泥と血で濡れた幼い私をじっと見つめる。



「こんなところで何をしている」



相手が幼い子どもであることを理解したらしい彼の声は少し丸みを帯びていた。

私は今まで張り詰めていた糸がプチンと切れた気がした。

大声を上げて再び泣き始めると、彼のもとへ駆け寄った。

そして、彼の足にしがみつく。



「うえぇぇぇ〜〜〜〜んんん」



彼は最初こそすれ困ったような顔をしていたが、兎に角にも泣きじゃくる私の頭を撫でながら、目の前にしゃがみ込んだ。

私は蒼穹のように輝く眼球を穴が開くほど見つめる。

彼は私の腕を手にとると本当に哀しそうに顔を歪ませた。



「よしよし……痛かったねぇ。まさかあのツタを登ったのかい?」



私は無言で強く頷く。すると、彼は呆れたようにふっと笑った。



「そんなことをしちゃいけないよ。手当てをしてやろう。上がっておいで」



その声に促されるまま、私はボロボロになった靴を脱ぎ、屋敷へと入っていった。




温かい布でゆっくりと腕を拭いていく彼の優しい瞳は相も変わらず美しかった。



「君、名前は?」


「桜」



それを聞き、彼は少し俯く。つい先程まで手際の良かった手が止まる。

妙な沈黙。それに耐え切れず、私は声をかけた。



「お兄さんは?」


「お兄さん?」



きょとんとした間の抜けた表情で彼は訊き返す。

声が聞こえなかったのだろうか。

そう思い、少しヒリヒリとした喉で声を張る。



「お兄さん、名前は?」



彼は突然、声を出して笑い出した。

何が可笑しかったのか。何か変なことでも訊いてしまったのか。

そんな疑問がぐるぐると脳内を駆け巡る。



「『お兄さん』とは私のことか?」



未だに笑いを引きづりながら、尋ね返してきた。

そうだ。それ以外に誰がいる。

反骨精神のようなものが湧き出る。



「そうだよ」



きっと怒りが表情に出ていたのだろう。

彼は急に申し訳なさそうに微笑む。

お詫びの印だろうか。今度は足を拭いてくれた。



「嫌な思いをさせて、すまないね。こんな私のことを『お兄さん』なんて呼ぶ人はなかなかいなくてね。本当に久方ぶりだったんだ」



そう言いながら、足を拭いてくれる彼の瞳はなんだか淋しそうで、哀しそうで……少し揺れた気さえした。




拭き終えると、救急箱から軟膏を取り出し、それを傷口に塗り始めた。

私の患部に指が触れると軟膏のせいか、電撃が走るような感覚がした。

唇をぎゅっと噛み、悲鳴を上げそうになるのを堪える。

ふと彼の瞳を見た。いつの間にか、私と同じような黒眼になっていた。



「あれ、お目目が……」



ポロリと出た言葉に私は慌てて口元を右手で押さえる。

彼もギョッとして目を背ける。



「私の眼の色が変わっていたのかい?」



怯えのようなものが混じった震えた声は私に後悔の念を押し付けた。

彼は自分の眼の色を気にしていたのだ。なんて言えば良いのだろうか。

脳の足らない私は必死に自分の想いを伝えた。



「すっごく綺麗だった。お空みたいな蒼だった。でも、今、黒くなってたから……つい。ごめんなさい」


「綺麗……か。そう言った人はこれで三人目だ」



私の頭を愛おしそうに撫でる。

その手は大きくて、強くて、そして冷んやりとしていた。

私はその手を心地よく思った。



「私のことが怖くないかい?」


「怖くなんかないよ。だって、お兄さんはまるで——」



思わず口を紡ぐ。こんなこと言ってはいけない。そんな気がした。

今思えば、きっとあの想いは本物だったような気がする。そう。私はこう言おうとしたのだ。



(まるで——お父さんみたい)



あの愛おしそうに見つめる瞳は私に『娘』を映していたのかもしれない。




急に黙りこくった私の手足に軟膏を塗り終えると包帯でくるくると巻き始めた。



「きつくはないかい?」


「……うん」



私には父がいない。父は私が産まれる前に死んだという。事故だった。

私にもし父がいてくれたのなら、こんな風に優しくしてくれたのだろうか。

彼が本当の父だったらいいのに。

叶うはずもない空虚な願いは私をまた悲しみの渦へと巻き込んだ。

ポタポタと畳が濡れていく。雫が落ちる度に雫が跳ねる。

その様子をぼうっと眺めていた。



「やはり、きつかったかな?もっと緩めるべきだったようだ。すまない。力加減ができてなくて」



違う。そうではない。違うのだ。あなたは何も悪くない。

どうしてまた申し訳なさそうに微笑むのだ。

やめてくれ。私が総て悪いのだ。だから、本当にやめてくれ。

私にそれ以上優しくしないでくれ。だから……だから……



「お父さん!」



父でもない彼に私は抱きついていた。

少し冷たい彼の体温は火照った私の身体にはちょうどよかった。

涙が止まらなかった。ゆっくりと彼の腕が背中を包む。余計に涙が溢れ出した。

彼の浴衣を濡らしてしまう。そんなことも御構い無しに抱きついていた。



「よしよし……いい子いい子……たんとお泣き。今泣けば、また強くなる」



そんな優しい声音が私を包んでいた。




重い目蓋を開け、ぱちくりと瞬きをする。

上体を起こし、周りをぐるりと見渡す。

蚊帳の中にいた。畳の香りがふわりと漂う。空はすっかり紅色に染まっていた。

いつの間にか眠っていたらしい。目を擦りながら、彼を捜そうと立ち上がる。

すると、奥の襖が開いた。



「目が覚めたか。もうお家へ帰った方がいい。送ってあげよう」



そう言いながら彼は蚊帳を少し開けると、私に出るよう促した。

もう帰らなければいけないという寂しさを覚えているとふと外にいた男子三人組を思い出した。

宝物を盗まなければならないのだ。どうしよう。

彼から盗むなんてごめんだ。ただ何か持って帰らなければ、何をされるかわからない。

鬱々となっていった。それを察したのか。彼はこう尋ねてきた。



「そう言えば……桜ちゃんはどうしてこんなところに来たんだい?そんな無理をしてまで」


「実は……男の子たちに言われて……。お化け屋敷から宝物を盗ってこい……って」



彼の手が私の頭に伸びる。

私は殴られる。そう思い、目をぎゅっとつむった。

しかし、優しく撫でられた。ただそれだけだった。



「随分と可愛らしい泥棒さんが来たものだ。来なさい。どれかひとつ持って行くといい」



彼の背中にとことことついていく。そして、物置のような場所まで案内された。



「この蔵はいらないものがいくつもあってね。処分に困っていたのだ。どれかひとつ持って行きなさい」



蔵に入ると土の混じった匂いと冷んやりとした空気が私にまとわりついた。

きょろきょろと辺りを見つめる。

どうせなら、あっと言わせるような綺麗なものがいい。

ふと紫の巾着を見つけた。



「これは?」



彼は紫の巾着を手に取り、埃を払う。巾着を開けて、中身を手の平に出した。私はそれを覗き込む。



「これは……ラムネ玉だね」


「ビー玉じゃないの?」


「あぁ、今はビー玉っていうのか。懐かしいなぁ」



裸電球の光はビー玉を綺麗に輝かせた。



「綺麗な蒼色……お兄さんのお目目みたい」


「これを貰った時もね、そう言って貰ったんだよ。本当に懐かしいなぁ。こんなものまで残していたとは……」


「これ欲しい!」



彼は目をパチパチと瞬かせた。



「こんなものでいいのかい?」


「うん!」



この人出会ったのは夢ではない。本当はそんな証拠が欲しかった。

確かに宝物を盗ってこいとは言われたが、それもひとつの口実にすぎなかった。

彼との思い出を実物として残しておきたい。そう思っていたのだ。



「そんなものでよろしければ、どうぞ。きっとガラス玉も蔵に閉じ込められるよりは桜ちゃんに大事にされる方がいいに決まってらァ」


「ありがとう!お兄さん!」


「どういたしまして」



桜ちゃん。そう呼ばれて、思い出したことがあった。



「お兄さんの名前……聞いてなかった。教えてよ」


良之介りょうのすけ。それが私の名だ」


「りょーのすけ!!」


「そうそう……良之介だ。私は」



また儚げに微笑む。どこか遠くを見て、微笑んでいる。

一体あなたは何を見て、何を想っているのだろうか。



「お兄さんは……お爺さんなの?」



これが精一杯の質問だった。幼い私の精一杯。

相手を傷つけないように、核心にたどり着くための問いかけ。

良之介さんは一瞬口を開け、また閉じては開けた。何か言いたげのようだ。



「そうだ。私は桜ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん、そしてひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが生まれるよりもずぅっと前から生きている」


「ひいひいおじいちゃんとひいひいおばあちゃんよりも?」


「そうだね」


「ひいひいひいおじいちゃんとひいひいひいおばあちゃんよりも?」


「多分……」


「ひいひいひいひいおじいちゃんとひいひいひいひいおばあちゃんよりも?」


「それぐらいだと同い年かもしれないね。いや、もっと私の方が年上かも……」



子どもの無邪気な質問に良之介さんの表情にも笑顔が戻ってきた。



「どうしてそんなに長生きしてるの?」



しかし、すぐに哀しそうに微笑んだ。

不味いことを訊いてしまった。思わず笑顔が引っ込む。



「それはね、私が鬼、だからだよ」


「オニ?」



絵本に出てくるような赤鬼や青鬼を思い浮かべる。

肌の色が違って髪がくるくるで角が生え、トラ柄のパンツを履いているそんな鬼と、目の前にいる肌の色は多少白けれど、人の肌の色でさらさらの黒髪の彼は全くの別物だ。

一体何が彼を鬼とさせているのか、全く見当もつかなかった。

しかし、答えはすぐに出た。



「ほら、これを見て」



にぃっと唇を開け、良之介さんは歯を見せた。牙があった。犬歯だ。

犬歯が肉食獣ほどではないが、尖っていたのだ。



「牙だ……」



私は好奇心に誘われるまま、牙に触れてみた。

良之介さんは私が触れやすいように口を開けてくれた。

歯をじっくりと見つめる。他の歯は尖っていない。

むしろ人間の歯と寸分たりとも違いが見当たらない。ただ上の犬歯二本だけが尖っている。

少し牙の先に指の腹が触れた。微かに切り傷ができる。



「あっ……」



良之介さんの瞳の色がみるみるうちに変わっていく。蒼穹色に変わっていく。

そうか。彼は私の血液に反応していたのか。

彼は鬼だ。確かに鬼なのだ。ただ鬼は鬼でも……



「吸血鬼。血を吸う鬼なんだよ、私は」



良之介さんは私の指の腹を少し舐める。



「これぐらいの傷なら消毒して、絆創膏を貼れば十分だ。あとで貼ってやる」


「ありがとう……」



どうして彼は鬼になったのだろう。どうしてそんなに優しいのだろう。どうしてこんなにも切ないのだろう。どうして……どうして……。

彼は背中に色んなものを背負っているのだろう。

生も死も。家族も仲間も……数多の生命いのちが彼の背中に映し出されているような気がした。






そのあとの記憶は曖昧だ。

多分母親にたっぷりとお説教をくらったのだろう。

虐めていた三人組は私の無数の怪我を見て血の気を失ってから以降、虐めてこなくなった。

平和な生活が戻ってきたのだ。

今でも紫の巾着と蒼穹色のビー玉は御守り代りに大切にしている。




そして、私は今、良之介の屋敷の前に立っている。改めて見てみると覚えていたよりも案外小さく見える。



「これも成長したってことかな……」



門の扉を押してみる。どうせ開いていないだろう。

そんな気持ち半分で押してみる。やはり開かない。

そのまま踵を返そうとする。しかし、きっとここままだと後悔する。そんな想いが掠めた。

勢いよく体当たりをする。

ギッギギギ……という気味の悪い音を立てながら、開いた。いや、開いてしまった。

誰だ。こんな不用心にしているのは。

誰なんだ。お化け屋敷なんて言った奴は。

周りに人がいないかどうか確認し終え、こっそりと忍び込む。

門は立派なものだ。身長をいくら伸ばしても、両手を伸ばしても届かないぐらい大きい。

門を内側から閉め、腰を低く屈めると抜き足差し足忍び足を続ける。



「何者だ」



聞き憶えのある声がした。顔を上げる。

あぁ、やっぱりそうだ。何ひとつ変わってない。



「こんなところで何をしている」






あなたは憶えていますか?十年前、あなたのところに来たんです。あなたにずっと会いたかったんです。あなたから頂いたもの、今でも大事にしているんです。私、この十年間ずっとずっとあなたのことばかり想っていました。あなたはこの十年間どんな十年間だったのですか?



様々な思いが、想いが、念いが、憶いが、溢れて溢れて溢れて溢れて——




「随分と美しくなったね。泥棒さん」




結局涙しか出なかった。



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