▼90▲ 損得の内と外
「イングリッドはグレタ嬢の復讐に賛成とまではいかなくとも、かなり同情的らしい。主人思いと言えば聞こえがいいが、その実態は『押すなよ、絶対に押すなよ』と念を押すリアクション芸人を本物の熱湯風呂に突き落とす鬼の様な所業に近い」
修行装置のある場所へ向かう途中、エイジンは寝る直前にイングリッドと交わした昨晩の議論について、アランに説明した。
「すみません。エイジン先生の言っている事が、今一つよく分からないのですが」
が、アランは合点がいかない様子である。
「お笑いの舞台装置としての熱湯風呂に入ってるのはぬるま湯だから、そこに突き落とすのもお約束の好アシストと言えるが、本物の煮えたぎる湯の入った熱湯風呂と分かっていて突き落としたなら、リアクション芸人の方でも芸を見せるどころの騒ぎじゃなくなる。そんな無謀を『芸人魂』と抜かすなら、そいつに芸人を名乗る資格はない」
「すみません。ますます分からなくなりました」
「要は、イングリッドは一見主人思いのメイドに見えて、実際はその逆だ、って事さ。ま、グレタ嬢を積極的にけしかける様な事はしてないから、まだ救いがあるが」
「ああ、エイジン先生が、イングリッドを薄情だと言った理由ですか」
「そう。何か『薄情』って言葉でスイッチが入っちゃったらしくて、イングリッドは寝る前に議論を吹っ掛けて来たんだが、やっぱり俺の考えは変わらない」
「私にはイングリッドの主張も、少しだけ分かる様な気がします。『損得を超えたどうしようもない気持ち』は、大なり小なり誰もが持っていますから」
「やらかした後で、『何であの時あんな事をしちまったんだろう』、ってのも誰もが持っている気持ちだな。『カッとなってやった。今は反省してる』って奴だ」
「グレタお嬢様が犯罪者ですか」
「正確には犯罪者予備軍か。『損得を超えたどうしようもない気持ち』は、程々にしとけって話さ」
「エイジン先生がグレタお嬢様を助けてあげたいという気持ちは、『損得を超えたどうしようもない気持ち』とは違うのですか」
「俺のは『損得の範囲内に収まるどうにか出来る気持ち』だろうな」
そこでエイジン先生は、にやりと笑い、
「いわゆる『偽善』って奴だ。俺は基本、一千万円さえもらえれば後はどうでもいい」
「『偽悪』って言葉もありますけどね」
「はは、何か勘違いしてる様だが、俺がいい人間な訳ねえじゃねえか。何たって詐欺師だぜ」
妙に生温かい目を向けて来るアランに対し、エイジンは嘲笑気味に返した。




