▼85▲ ヒヤリ・ハットの有効活用
「事前にイングリッドにモニターになってもらった結果、この装置を使っていきなり本修行に入るのは危険過ぎる事が分かった。よって、最初は掌による打撃はせず、ひたすら丸太をかわす練習から始める」
作業着にヘルメットに安全靴姿のエイジン先生が、黒いジャージにジョギングシューズ姿のグレタに、もっともらしく言い渡す。
本来ならグレタもエイジンの様に作業現場スタイルで臨むべき所だが、実際にこの装置を試したイングリッドの、
「完全武装しても巨大丸太の直撃を食らってしまったら意味がありません。出来るだけ動き易さを重視した軽装の方が安全です」
という、文字通り体を張って得た教訓に従ったのである。特に履きなれていない安全靴は動きが鈍るらしく、わずかな動きの鈍りが死に直結するとの事だった。
承知したグレタが巨大丸太の前に立ち、エイジン、アラン、アンヌの三人が丸太を反対側に引っ張って、合図と共に手を離す。
闘牛士が猛牛の突進をかわす様に、向かってくる巨大丸太から、さっと身をかわすグレタ。もちろんただ避けるだけでなく、丸太を吊るすロープにも引っかからない様に気を付けなければならない。
「『実際に勢いを付けて間近に迫って来る丸太はものすごく怖い』、とイングリッドが言っていたが、大丈夫か?」
一旦丸太の揺れが収まってから、エイジンがグレタに尋ねた。
「怖くない、と言えば嘘になるわね。でも大丈夫よ。続けてちょうだい」
気丈に答えるグレタ。
こうしてその日はずっと、『自分に向かって来る丸太をギリギリまで引き付けてから避ける』、という単調な修行に終始する事になった。
最初は一回避けるごとに、丸太を止めてやり直していたのだが、途中から、避けた丸太が反動で戻って行く際に、グレタも初期位置に戻り、また丸太が戻って来るのを待つ形式に移行する。
「アクションゲームによくある振り子トラップを実際にやると、こんな感じなんだろうな」
丸太の往復運動に合わせて、その軌道にひょこひょこ出たり入ったりを繰り返すグレタを見ながら、エイジンがアランに言う。
「ゲームなら残機がある限り失敗出来ますが、リアルだと一度たりとも失敗出来ないのが怖いですね」
そう答えるアランは、目の前の光景と自分の人生を重ね合わせていたのかもしれない。
と、その時、丸太の軌道の中に入った途端、バランスを崩したグレタの動きが一瞬止まり、タイミングがワンテンポずれるアクシデントが発生した。
それに気付いたエイジン先生がとっさに飛び出し、グレタを地面に押し倒して事なきを得たが、もしそのままタイミングがずれていれば、グレタと丸太との正面衝突は避けられなかったと思われる。
エイジンにがっちり抱き付かれたまま横倒しに倒れ、蒼ざめた顔で自分の上を揺れる巨大丸太を見上げるグレタ。
「大丈夫か? ケガは?」
抱き付いたまま、尋ねるエイジンに、
「だ、大丈夫よ。あ、ありがと」
恐怖が冷めやらぬまま、グレタがしどろもどろに答える。
その後、修行は丸太の速度を落として続行され、その日の分は無事終了したが、エイジンはグレタのいない所で、
「かなり危ない所だったが、ほとんど反射的に体が動いて何とか助けられた。火事場の馬鹿力って奴だな」
と、アランに本音を語った。
「何はともあれ、本当に良かったです。人間、とっさの時は思わぬ力が出るものですねえ」
それを聞いたアランが、改めて安堵の微笑みを浮かべる。
「だが、偶然とは言え、これでグレタ嬢の俺に対する信頼が一段と強固になった。『偶然上手く行った事』は詐欺師にとって最良のカードだぜ」
そう言ってにやりと笑うエイジンに、アランは微笑みを少し引きつらせた。
やっぱりこの人は詐欺師だ。




