▼68▲ 退屈の反対
エイジン先生が小屋に戻ると、いつもの様に、
「おかえりなさいませ、エイジン先生」
と、イングリッドが出迎えたが、心なしかいつもよりエイジンとの距離を大きく取っており、おまけにコントで強盗に立ち向かう主婦のごとく、両手でフライパンを前に構えている。
「ただいま。今日の夕食は炒め物か?」
「気安く近寄らないでください。許可なく接近して来た場合は、警察に通報します」
「今日はそういう設定か。じゃ、とりあえず寝室に行きたいんで、少し離れてくれ」
フライパンを構えたままじりじりと後退して居間の隅まで下がるイングリッドの小芝居に目もくれず、エイジン先生はすたすたと歩いて寝室に直行し、部屋着用の作務衣に着替え始めた。
と、寝室のドアが開き、フライパンを持ったままのイングリッドがエイジンの着替えをガン見し始める。
「ドアを閉めろ」
「変態の言うことは聞きません」
「どっちが変態だよ」
「目には目を、歯には歯を、変態には変態を、です」
「ハンムラビはそんな事言わない。夕べの事なら一応謝っただろ。ほぼ百パーセントそっちが悪いんだが」
「うら若き乙女の胸を直にいやらしく揉みしだいておきながら、ちっとも反省してない辺り、とんだケダモノですね」
「うら若き男のベッドに夜な夜な全裸でもぐり込んで来る痴女に、ケダモノ呼ばわりされたくないわ」
「失礼な。誰が痴女です」
「あんただよ」
「百歩譲って、私が仮に痴女だったとしましょう」
「一歩も譲るまでもなく、やってる事は完全に痴女だ」
「相手が痴女だからと言って、その胸を直にいやらしく揉みしだく事が許されるとでも?」
「警察に訴えたら間違いなく、『くだらない事で一々通報するな』と一蹴されるぞ。バカップルの痴話喧嘩にしか見えん」
「そこまで計算ずくの変態行為でしたか。最低のケダモノですね」
「ひとついい事を教えてやる。夕べの様な恥ずかしいハプニングを起こしたくなかったら、きちんとパジャマの前を閉めて大人しく自分の布団で寝てろ」
「そうすると、今度はエイジン先生の方からこちらの布団に全裸でもぐり込んで来て、私が警察に助けを求める事が出来ないのをいい事に、あんな事やこんな事をし放題という訳ですね。そうはさせません」
「頼まれてもやらないから安心しろ」
「やられる前にやれ、の原則に従い、こちらが先にエイジン先生の布団に全裸でもぐり込みます」
「あんたアホだろ」
「それはともかく、着替えが済み次第夕食にしますので、キッチンまで来てください」
それで気が済んだのか、イングリッドはエイジンが近寄っても別に抗議しなくなり、キッチンまで来ると、フライパンをダイナミックに振って具材を宙に舞わせながら手際よくチャーハンを炒め、まだ香ばしい湯気の立つ状態で皿に盛ってテーブルに出した。
「あんたの将来の旦那は、毎日退屈しないだろうな」
エイジンがチャーハンを食べながらそう言うと、
「もしかして私、口説かれてますか?」
イングリッドがしれっと返し、
「言っとくけど、退屈の反対は幸福じゃないからな」
エイジンは釘を刺した。




