▼60▲ 説得と洗脳
稽古場に到着したエイジン先生は修行を始める前に、それとなくグレタに復讐を諦めさせようと説得を試みた。
「復讐により一時の満足を得たとして、その後は何が残る? どの道、リリアン嬢とジェームズ君は結婚して幸せになるだろうが、復讐を果たした君には何も利益が残らない。結局、復讐をしてもしなくても結果は同じなのだ」
「プライドの問題よ。男が突然こちらとの婚約を破棄して別の女と結婚するなんて、まるで私がその女より劣っているみたいじゃないの」
もちろん、ちょっとやそっとでグレタの復讐の炎を消す事は出来ない。
「事実劣っているのだから仕方がない」
「何ですって?」
「男が別の女に走ったからといって、ギャーギャー取り乱すのは碌な女ではない。どんな逆境にも動じる事なく、常に理性を以て冷静に行動出来るのがいい女というものだ。これは女に限らず男も同じだが」
「フン、そんなの、復讐も出来ない腑抜けの言い訳じゃない。私は常に退かないし媚びないし省みないのよ」
「世紀末モヒカン漫画の読み過ぎだ。退く事を知らなければ大敗は免れないし、媚びる事を知らなければ敵を欺けないし、省みる事を知らなければ現状以上に強くなる事は出来ない」
「プライドの問題だと言ってるでしょう。それに受けた侮辱をそのままにしておける程、私は心が広くないの」
「侮辱と感じる事自体が侮辱を作り出すのだ。つまらぬ事と捨てておけば、侮辱は侮辱にならないし、周囲に己の器の大きさを示す事にもなる。それとも、何のかんの言った所で、ジェームズ君の事がまだ諦められないのか」
「ハァ? あんな親が決めたから仕方なく婚約してただけの男、今更何の未練もないわ」
「だが復讐にこだわるならば、世間はそう思わないだろうな。プライドをかなぐり捨てて醜態を晒し続ける未練たらたらの女と取られても仕方がない。だから本当にプライドが大切なら、復讐なぞやめる事だ」
「まったく、ああ言えばこう言う男ね。こうしていつまで言い合っていてもラチが明かないわ。さっさと今日の修行を始めるわよ。時間がないんだから」
そう言ってグレタは話を打ち切り、紙風船を叩いて膨らませる作業を開始した。
「グレタお嬢様を説得するのは、猫に『お手』を教えるようなものです。極めて難しいと思います」
グレタに聞こえない様に、アランがエイジンに囁いた。
「『お手』をする猫は結構いるぞ。それに人間の場合、繰り返し同じ事を吹き込むと、案外容易く洗脳されるもんだ。テレビの通販番組は同じ事を延々と繰り返すだろう? あれの要領で、俺は今後も説得を続けるぜ」
CMソングを無意識に口ずさむ時、人はすでに洗脳されている。




