▼59▲ 口紅のイタズラ
翌朝、稽古場へ向かう途中、エイジン先生は合流したアランに開口一番、
「エイジン先生、首の横に赤い物が付いてます」
と指摘される。
「血か? 知らない内にどこかに引っ掛けたかな」
手で触って確かめようとするエイジン。
「いえ、その、どちらかと言うと、口紅の様なんですが」
アランに言われるまでもなく、自分の手に付いたベタつく赤い塗料を凝視して、エイジンは全てを悟る。
「痴女メイドの仕業だ。今朝、全裸で人の腕を枕にして寝てた以外はやけに大人しいと思ったら、こういう事だったのか」
「すみません、今、口紅よりすごい事をさらっと言われた様な気がするんですが」
「分かってると思うが、事後じゃないからな。夕べはついぐっすり寝ちまったから、イングリッドは俺にさぞ逆セクハラし放題だったんだろうよ」
「それなんてエロゲですか」
「羨ましいなら、またこっそり入れ替わろうか」
「結構です。怒り狂ったアンヌが何をしでかすか分かりません」
先日の修羅場を思い出したのか、心底怯えた表情になるアラン。
「冗談だ。イングリッドの意図する所は、ハロウィンじゃないが、『古武術を教えてくれなきゃ、イタズラするぞ』という事なんだろう。自分の趣味の事となると、目の色が変わって突拍子もない行動に出る奴はどこにでもいるもんだ。人はそれをマニアと言う」
「怖いですね、マニアは」
「グレタ嬢も少しマニアがかっているかもしれん。自分の復讐の為に異世界から人を拉致して、一千万円という大金をポンと出して、意味のない修行を言われるまま延々と続けられるんだから」
「グレタお嬢様の場合、マニアと言うより負けず嫌いだと思います。プライドを傷付けられたら、それをそのままにしておけない性格でして」
「要は子供なんだな。大人になるってのは妥協を覚えて行く事なんだが、その妥協を許さない。そこが悪役令嬢たる所以なんだろうが」
そう言いながら、エイジンは懐から取り出した手拭いでゴシゴシと首筋をぬぐい取り、
「それはともかく、この手拭いに付いた口紅をアラン君の頬になすり付けておいたら、アンヌはどんな反応をするかな?」
「冗談でもやめてください!」
アランは悲鳴を上げた。




