▼385▲ 誘拐事件の脅迫状を書く時に一番大切なマナー
「普通なら屋敷の方に寄ってもらって、お茶の一杯も出す所だが、あんたはもうこの車で家まで送ってもらった方がいいな。明日の公演に差し支えるといけないから」
と、エイジンが気遣うのを、
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、今日はこのまま帰ります」
そう答えて、よっこらしょ、と五十体の人形が入った旅行鞄を持ち上げて車の後部座席に乗せ、自身もそこへ乗り込みながら、
「もっとも明日遊園地はお休みで、人形劇の公演もないのですが」
まだ寝ぼけているのか天然なのか、受け答えの内容が微妙にズレているナスターシャ。
「だったら、なおさらゆっくり休んでくれ。おやすみ」
エイジン先生がドアを閉めてやるのと同時にエンジンが掛かり、五十体の人形と一人の人形使いが後部座席で仲良く眠る、いかにも寝心地の良さそうな黒塗りの高級車はガル家を後にした。
「さて、これで気になってた案件は片付いた。あんたも帰って休んだ方がいいぞ」
寝心地の良さそうな車が遠くへ去って行くのを見届けてから、エイジン先生がそう言うと、
「そうしたいのは山々なんですがねえ。この事件が解決しない限り、中々そうも行かなくて」
コートの内ポケットから昨晩もらった高級葉巻を取り出し、その吸い口を噛みちぎってから、またコートのポケットをあちこち探った後で、
「すいません、火、持ってませんか?」
とぼけた口調で尋ねるピーター。
「あいにく俺は吸わないんで、ライターもマッチも持ってない」
「じゃ、お屋敷の中に行くまで我慢しましょう。応接間にライターありましたよね?」
「帰らないのか?」
「ええ、実は今朝届いた脅迫状に、どうにも腑に落ちない点があるんです。一つエイジンさんのお知恵を拝借したいと思いまして。いえ、すぐ済みますから」
「元刑事のあんたに比べたら、素人の俺の知恵なんてたかが知れてるけどな。ま、せっかくだから、コーヒー位出すよ」
最初から屋敷にお邪魔する気満々のピーターと、すっかり屋敷の住人気取りのエイジン先生。図々しい者同士が連れだって、屋敷の方へ歩き出す。
「で、『腑に落ちない』、ってのは?」
歩きながら尋ねるエイジン先生。
「身代金の金額です」
同じく歩きながら答えるピーター。
「まだ具体的な金額は、どこにも書いてなかったと思うが?」
「はい、そこなんです。普通、まず真っ先に誘拐犯が提示して来るのが身代金の額なんですが、あの脅迫状にはそれがどこにも書いてない。これがどうにも引っかかってしまって」
「後から知らせるつもりなんだろ。とりあえず今回は、『おたくの子供を誘拐しました』、っていう軽い挨拶だけで」
「いやいや、営利誘拐にしろ営利誘拐を装った狂言誘拐にしろ、脅迫状に必ず書くのは具体的な要求額です。エイジンさんは子供の頃、架空の誘拐の脅迫状を書いて遊んだ事はありませんか?」
「ある。古新聞の活字を一つ一つ切り貼りして、本格的なやつを作って悦に入ってた。バカなガキだったよ、ホント」
「あたしもやりました。思い出してください。その時、具体的な要求額はしっかり書いたでしょう?」
「書いた書いた。『子供を返して欲しかったら、百万円用意しろ』とかな」
「そう、何はともあれ金額なんです。大金ともなると、すぐには用意出来ませんからね。交渉する為にも、まず具体的な数字を提示する必要があります。なのに、何も書いてないのは変じゃありませんか?」
「どうかな。レンダ家は銀行を経営してるんだろ? 大金でもすぐ用意出来ると踏んで後回しにしたとか」
「何で後回しにする必要があったんでしょう?」
「さあ。のん気な犯人なのか、あるいは狂言誘拐だとしたら、まだ子供達がそこまで考えてなかったのか」
「これは、あたしの思い付きなんですが」
ピーターは火の点いてない葉巻を持った右手を、顔の横で軽く振りながら、
「要求する予定の身代金は普通の金じゃなく、何か特殊な、そう、それを早めに教えてしまうと、犯人の身元が特定されかねない代物なんじゃないか、って考えたんですが、どう思います?」
探る様な上目使いでエイジンの方を見た。
「『来月からピーターの給料を二倍にアップしろ』とか? 誰が脅迫状書いたか一目瞭然だな!」
まったく動じる事なく、茶化し返すエイジン先生。
「こりゃ参りましたな。ですがまあ、あたしの言いたい事は理解して頂けた様です」
互いに腹の内を探りつつ、笑い合う二人。




