▼30▲ ちゃんとした寝床
十時になり、黒地に赤い花弁が血しぶきの様に舞い散る模様をあしらったドレス姿のグレタが、金髪縦ロールを揺らしながらエイジン先生の小屋を訪れた。
「エイジンは、随分質素な環境が好みなのね」
居間に通されたグレタは部屋を見回してそう言ったが、特に悪気はない。お嬢様の目には大抵のモノが質素に映るのだ。
「これでも贅沢な位だ。で、何の用件だ?」
テーブルを挟んで差し向かいに配置した、二分割された横長ソファーにそれぞれ二人が座り、細かい前置き抜きでエイジンが尋ねた。
「考えてみたら、あなたをこちらの世界に召喚してから、碌に話をする間もなく修行に入ったから、肝心の古武術について詳しく聞く機会がなかったのよ」
「聞いた所で何もならん。古武術を習得するには、一心不乱の修行あるのみだ」
いかにも古武術マスターらしい物言いで煙に巻こうとするエイジン先生。
「で、あの修行には、どんな意味があるの?」
「修行が辛くてやめたくなったのであれば、素直にそう言ってくれ」
「そんなんじゃありませんわ! 事前によく知っておいた方が、効率のいい修行が出来るでしょう?」
「今それを知る必要はない。余計な知識は却って修行の妨げになる」
そう言われて、ぐっ、と言葉を詰まらせるグレタ。
「質問がそれだけなら、もう屋敷に帰って休め。明日も早い」
「古武術の技の理論についても、教えてもらえないのかしら?」
「ああ、それも今知る必要はない」
「だったら、理論でなく、実際に例の技を私にやってみてくださらない? この身でもう一度体感すれば、何か得る所があると思うのよ」
エイジン先生は首を静かに横に振り、
「あの技は危険過ぎるからダメだ。取り返しのつかない事になってからでは遅い」
「でしたら、私が被験体になります」
部屋の隅で控えていたイングリッドが名乗りを上げた。
「私も元格闘家ですし、万が一の事があっても、お嬢様のお役に立てるなら本望です」
そう言ってエイジンの前に進み出るイングリッド。
「鍛えていようといまいと、古武術の奥義の前には関係ない。お嬢様からも、この様な無茶はやめる様に言ってくれないか」
「下がりなさい、イングリッド。これは私の問題なの。あなたを危険な目に遭わせる訳にはいかないわ」
「差し出がましい真似を致しました。申し訳ありません、お嬢様」
頭を下げて詫びた後、元の位置に戻って控えるイングリッド。
「主人思いの忠実なメイドだな。こちらも色々と行き届いた世話をしてもらって、非常に助かっている」
エイジンがわざと仰々しくイングリッドを褒める。
「イングリッドを気に入ってもらえた様で何よりだわ」
グレタが満足げに言う。
「だが、イングリッドは職務に熱心過ぎるきらいがある。昨日、おとといとここに泊まり込んでずっと世話をしてくれたのだが、その際、この居間のソファーで寝るのはやり過ぎだ。どうか夜だけでも屋敷に戻って、ちゃんとした寝床で寝る様に言ってくれないか、お嬢様」
仰々しく褒めた後で、さりげなく夜だけでもイングリッドを追い払う方向に持って行こうとするエイジン先生。
この話の流れでは、イングリッドがエイジンをセクハラ被害で訴えるのが不自然になってしまう。イングリッドにセクハラしているのであれば、追い出すのではなく引き留めようとするはずだから。
「いえ、このソファーはベッドとしても使えるタイプなので」
イングリッドはあわてて抗議しようとするが、
「そうね。イングリッド。今晩からは、ちゃんとした寝床で休養しなさい。分かったわね?」
使用人思いの主人にぴしゃりと押さえつけられてしまった。
「はい、分かりました。お嬢様」
グレタ直々の命令とあっては、逆らえないイングリッド。
「古武術についての詳しい事は、修行を続けて行く上で追々説明して行く。今晩は二人とも屋敷に戻って休んでくれ」
そう言って、エイジンは二人が帰るのを見送った後、
「はっはっは、ついにストーカーメイドを追っ払ったぞ」
と、一人小屋の中で笑っていた。
が、喜んだのも束の間、しばらくして、イングリッドが巨大な荷物を背負って小屋に戻って来る。
「エイジン先生のお言葉に甘えさせて頂きます。今晩からソファーではなく、布団に寝る事にしました」
そう言って、イングリッドはずかずかと寝室に乗り込み、
「あ、こら、何をする」
エイジンの抗議を無視して、寝室の床に持って来た布団を敷き、
「今晩から、ここが私の寝床です」
敷いた布団の上にちょこんと正座して、そう宣言するのだった。




