▼258▲ 薄墨に滲む涙の痕
遅めの朝食を終えたエイジン先生は、ジャージに着替えたグレタと二人きりで稽古場にやって来た。
床の上に新聞紙を敷き、その上に黒い小机と習字道具一式と座布団を用意して、
「俺がいない間も言われた通りに、ちゃんと写経してたか?」
と、エイジンが問うと、
「毎日欠かさずやってたわよ。ほら」
グレタは少し不機嫌そうな顔をして、記入済みの写経用紙の束をエイジンに渡した。
エイジンはパラパラとそれに目を通しつつ、
「意外だな。てっきりパニックに陥って、何も手につかずオロオロしてるだけかと思ってた」
「エイジンが急にいなくなって、正直写経どころじゃなかったわよ。それでもエイジンと約束した事だから、頑張ってやったのよ!」
声を荒げて抗議するグレタに対し、
「よくやった、偉いぞ。それこそがセルフコントロールというものだ」
そう言って、その頭を優しくなでてやるエイジン先生。グレタは少しむふーとにやけてから、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻り、
「セルフコントロールなんかじゃないわ。字を書いている間中、すごく寂しくて不安だったんだから。エイジンにこの気持ちが分かる?」
「ああ。ところどころ字が滲んでるのは、涙の痕だろう」
「そうよ。ここで写経しながら、私がどれだけ泣いたと思ってるの!」
エイジンはグレタをなでるのをやめて、小机の上に置いてある水入れから硯に水を差し、そこに指を浸してから、
「ちょっと書き加えさせてもらうぞ」
グレタの使った写経用紙の余白に、指に付いた薄墨を使ってシンプルな絵を描いた。
「あら、可愛いわね。それネズミ?」
「ああ、俺のいた世界の逸話でな。ちょうど、今のあんたと同じ様な状況の子が、自分の涙でネズミを描いたそうだ」
「その子も、愛する人と逢えない悲しみを紛らわそうとして、手慰みに自分の涙で絵を描いたのね」
薄墨の輪郭線が紙に滲んでいくネズミの絵を見ながら、グレタがしみじみと言う。
「いや、修行に身が入らない小坊主が、怒った住職によって柱に縛り付けられてな、あまりにもやる事がないんで自分の涙を足の指に付けて、床に見事なネズミの絵を描いたんだ」
「それ、どういう意味よ!」
悲劇のヒロインからいたずら小坊主に降格されたグレタが、エイジンの胸倉をつかんで抗議する。
「後にその小坊主は歴史に名を残す有名な画家になった」
「フォローになってないわよ!」
食ってかかる小坊主。後の雪舟である。




