▼203▲ 足のツボを知り尽くしている男
アランとの話を終えたエイジン先生が稽古場に戻ると、新聞紙を敷いた床の上で、黒いジャージ姿のグレタが黒い小机に向かって座布団に正座し、課された写経を真面目に続けていた。
エイジンの姿を認めると、グレタはご主人様の帰宅に気付いた飼い犬の様に嬉しそうな顔になり、筆を置いて立ち上がろうとしたが、足が痺れたらしく中々立ち上がれない様子である。
「いたたた……ちょっと、足が……」
「あまり根を詰めるなよ。ちょくちょく休憩して足を伸ばせ」
エイジンが近寄って見ると、写経の達成率は約七割といった所で、割と真面目にやっていた事が窺えた。
「綺麗な字だな。ちょっと羨ましい」
「そう? エイジンの世界の文字には慣れてないから、よく分からないけど、いたた……」
痺れに苦しみつつ、エイジンの足元に四つん這いですり寄るが、
「マッサージしてやろうか?」
「やめて! 今は絶対やめて!」
非常事態につき、珍しくエイジンとのスキンシップを嫌がるグレタ。
「冗談だ。そのまましばらく放っておけ」
「でも、そっと触るだけなら血行がよくなるかも……いたた……お願いするわ、エイジン」
「大丈夫か?」
「そっとよ、そっと」
言われるまま、四つん這いのグレタの横にしゃがみ、そのふくらはぎに人差し指を押し当てるエイジン。
「いたあああああ!」
涙目になって悲鳴を上げるグレタ。
「こりゃ重症だな」
「『そっと』って言ったでしょう!」
「悪い、もう触らないから」
が、グレタは四つん這いのまま、エイジンの腕をつかみ、
「今度はそっと触って!」
果敢にもマッサージの続行を要求する。
エイジンが今度はふくらはぎを包む様に軽く掌全体を当てると、
「んっ……!」
グレタは両肘と額を床に突き、苦悶の表情で何とか耐えた。
エイジンはしばらく手を当てたまま動かさずにいたが、グレタの表情が和らいで来た頃合いを見計らって、そっとさすり始め、
「大丈夫か?」
「いたたた……まだ痺れてるけど、大分よくなって来たわ。そのまま続けて」
グレタの様子を見ながら、力の加減を調節して行く。
「いたっ! もうちょっと力を緩めてよ!」
「んっ……んっ……その位が丁度いいわ」
「あんっ、そこそこ。もっとそこを強く突いて」
やがてグレタもすっかり足の痺れが引いた様で、ふうー、と満足げな長い息を吐いて、床にうつ伏せに横たわった。
「もう大丈夫だろ?」
「もっとやって。エイジン上手なんだもの。今度は膝から太ももの裏側をお願い」
ご満悦の表情でさらなるご奉仕を要求するグレタ。
「もう痺れてないだろ?」
「やって」
エイジンはため息を一つついてから、親指をグレタの太ももの裏に当て、思いっきり力を加えた。
「ぎゃあああああああ!」
激痛のあまり、名家のお嬢様にあるまじき悲鳴を上げるグレタ。
エイジンが力を緩めると、さっと体を反転させて足を引っ込め、体育座りになって、
「痛いじゃない!」
「それだけ動けりゃ平気だろ」
「やりなおし!」
また性懲りもなくうつ伏せに横たわり、エイジンに同じ場所を押され、
「やめっ、やめて! いやっ! いやあああああ!」
稽古場に再度うら若き乙女の悲鳴が響き渡る。
もちろんエイジンはマッサージ以上の事は何もしていない。念の為。




