▼190▲ プチ脱獄の誘惑
「今晩もグレタお嬢様はこちらにお泊りになるとの連絡がありましたので、夕食までしばしお待ちください。それまでこれをどうぞ」
着替えを済ませてキッチンにやって来たエイジンに、イングリッドは緑茶を淹れた湯呑と、一口サイズの花や葉の形をした色とりどりの落雁の乗った小皿を差し出した。
「落雁なんて食うの久し振りだな。どれ」
テーブルに着いたエイジンは、出された落雁を一つつまんで端の方を食べてから、緑茶を一口啜り、
「美味い。スーパーでお供物用に売ってる安っぽいのとは全然違う」
「エイジン先生の世界では、死者に供えるお菓子ですよね。せいぜい私達の機嫌を損ねない様に気を付けてください」
「遠回しの脅迫のつもりか。『東京湾の水は冷たいでぇ』って脅すヤクザかあんたは」
「冗談です」
そう言って、イングリッドは床からオモチャのチェーンソーを片手で拾って高々と持ち上げ、大きなモーター音と共に刃を回転させた。ちなみにもう例の不気味なお面はつけていない。
「やかましい」
「まずバラバラにして持ち運び易くするのは基本ですね」
「処理しきれない微量な血痕とかが大量に残るから、DNA鑑定でバラバラにした現場を特定されるぞ。死体がなくても状況証拠が真っ黒なら有罪判決は免れない」
「せちがらい世の中ですね」
「それ以前の問題だ。大体、俺はあんたにそこまで恨まれる様な事をした覚えはないんだが」
「痴情のもつれが殺人の動機になるのはよくある事です」
「確かにそうだ。じゃ、今晩からお互いに距離を置こうぜ。物理的に」
「そういう素っ気ない態度が死に値すると言うのです」
「思わせ振りな態度で散々貢がせた挙句、ボロ雑巾の様に捨てる方がいいのか」
「メッタ刺しにされても文句は言えませんよ、それは」
「殺人鬼と一緒の小屋にいられるか! 俺はここを出る!」
「次のチャプターに行く前に確実に殺されますね」
「安心しろ。普通に考えて、俺はここから逃げられやしないんだから」
「昨晩、脱獄関連の実話本を熱心に読まれていた様ですが」
「流石に、異世界の刑務所から元の世界に逃げた奴はいなかった」
「ウェブ小説では結構ありそうな設定ですね。もっとも、ここを刑務所呼ばわりされるのは心外です」
「考えてみたら、この屋敷の敷地の外にはほとんど出た事がないな。一ヶ月前に少し出た位で」
「もっと外に出てみたいですか、エイジン先生?」
「そうだな。たまには気分転換になるかも」
「では、三人でデートですね。グレタお嬢様と相談して、プランを練っておきましょう」
「待て、あんたらも付いてくるのか」
「グレタお嬢様と二人きりの方がよろしいですか?」
「いや、ガイド的な人を一人付けてくれるだけでいいんだが」
「つまり遠回しに『君が欲しい』と私を口説いている訳ですね」
「違う。たまには二人の世話を休んで羽根を伸ばすのも悪くないと」
エイジンが言い終わる前に、イングリッドは無言で再びチェーンソーを持ち上げて刃を回転させた。
チュイーン。