▼169▲ 痴漢冤罪事件
結局その日は指導というより、グレタの怒涛の半生について本人から話を聞かされるだけで終わったエイジン先生は、夕方からの通常トレーニングの時間が来ると指導をアンヌに引き継ぎ、稽古場を後にした。
「おかえりなさいませ、エイジン先生」
エイジンが小屋に戻ると、グレーのスカートスーツ姿のイングリッドが、茶色い革製のショルダーバッグを肩からさげた格好で出迎える。
「ただいま。スーツ姿も結構似合ってるな。いかにも『仕事が出来ます』って感じの有能なOLっぽい」
「ありがとうございます。では、これをお持ちください」
イングリッドがショルダーバッグから取り出したのは、円いプラスチック製の持ち手の付いた電車の吊革が二本。
「あの倉庫にはこんなものまであるのか」
その内の一本を受け取りながら、呆れた様に言うエイジン。
「柔らかい連結部分は針金で固定してありますので、この様に上に持ち上げれば、あたかも電車に乗って吊革に掴まっている様に見えます。さ、エイジン先生も私の隣に立って、吊革を持ち上げてみてください」
「エア吊革か。電車コントでもやるつもりか」
呆れつつもイングリッドの隣に立ち、渡された吊革を持ち上げる付き合いのいいエイジン。
「では、今からここは帰宅時間の満員電車内です」
「それでスーツ姿なのか」
「はい、私は帰宅途中のうら若きOLです。そしてエイジン先生は私に欲情して体を触りまくる卑劣な痴漢という設定で」
「待てこら。誰が痴漢だ」
「稽古場では、グレタお嬢様の胸とお尻を生で触りまくったそうですね、エイジン先生」
「グレタ嬢から聞いたのか」
「はい、連絡は密にとっていますから。で、それは立派な痴漢行為ではないのですか?」
「挑発されたとは言え、紛れもない痴漢行為だな。で、それを非難する為にわざわざこんな趣向を凝らした訳か。ちょっと懲らしめてやろうと思って、あんたの大事なご主人様に変な事して悪かったよ。すまん」
「罪を素直に認めるのですね」
「ああ」
「そんな正直者なエイジン先生には、私の胸とお尻を触りまくる権利を与えましょう」
「俺は川に斧を落した木こりか」
「さ、どうぞ。遠慮は要りません。好きなだけお触りください」
「ここはいつからイメクラになったんだ」
「ガタンゴトン、ガタンゴトン」
「やかましい」
「上も下も下着は着けていませんから、手を突っ込むだけで簡単に肌に触れます」
「グレタ嬢に裸ジャージを勧めたのもあんたか」
「はい。地味なジャージでも、あっという間にエロ度アップでしょう」
「あんたの大事なご主人様におかしな事を吹き込むな」
「お嬢様の胸とお尻を直に触りまくった卑劣な痴漢に言われましても」
「分かった、反省する。だからあんたの胸と尻には触らない」
「お嬢様に痴漢した癖に、私に痴漢しないのは不公平ではないですか」
「そんなアホな事を言う『帰宅途中のうら若きOL』はこの世に存在しない」
「では設定を変更します。『エロ漫画によく出て来る、帰宅途中のうら若きOL』で」
「痴漢どころか車内で立ったまま最後までヤられそうなんだが、それは」
「エイジン先生は『エロ漫画によく出て来る、立ったまま勃ったモノを器用に挿入するアクロバットな痴漢』で」
「どんだけ難易度高いんだよ、俺の役は」
「四の五の言わずにとにかく私に触ってください。でないと話が進みません」
「そんな与太話は永久に進まなくていい」
「どうしても触らないと?」
「ああ」
「ではこちらから参ります」
イングリッドは空いている手を伸ばしてエイジンの尻を撫で始めた。
「おいこら」
「へっへっへ、いいケツしてるじゃねえか」
「やめろ、設定が狂いまくって、もはやただの痴女になってるぞ」
と、不意にイングリッドはエイジンの空いている手を掴んで持ち上げ、
「この人痴漢です!」
「冤罪だ!」
何だかんだで仲のいい二人だった。