▼144▲ 金と魂の重さ比べ
七月の暑い盛り、セミの鳴き声が響く人気のない昼下がり、船越英人と三船連太郎は、駅前の空きテナントの正面玄関のひさしの影になっている所に、突然前触れもなく現れた。
ここは以前、彼らが通う武術道場だった建物である。二ヶ月程前に閉鎖され、今もそのままになっていた。
「帰って来た様だぜ、我らが思い出の道場に」
直前まで異世界にいた時の格好のまま、アタッシュケースと紙袋を持って立っている状態の英人が、地面に力なくへたり込んでいる連太郎に声を掛ける。
「どうして、放っておいてくれなかったんです。あそこにいれば、ずっと幸せだったのに」
だいぶ体の自由が戻ったらしく、普通に口が利ける様になった連太郎。しかしその表情は全財産をFXで溶かしてしまった人並に虚ろである。
「ネトゲ廃人か、お前は。『当流派の技を私闘に用いるべからず』の基本を守れてない時点で、お前はかなりおかしくなってたんだよ。あんな世界で先生様と持ち上げられてたら、もっとおかしくなるぜ」
「おかしくなったっていいじゃないですか」
「おかしくなった武術家の末路を、お前も知らん訳じゃあるまい。セルフコントロールを失った高名な武術家が、ケチな犯罪をやらかして捕まったなんて話はゴロゴロしてる。それに、人に向けた理不尽な暴力はいずれ自分に返って来るんだ。いつかお前は身を滅ぼしてたぞ」
英人は空きテナントを振り返り、
「昔はお前だって分かってたはずなんだがな。『どんなに大金を積まれようとも、魂だけは売るな』って基本をよ」
「どんな綺麗事を言った所で、金がなけりゃどうにもなりませんよ」
「ま、そりゃそうだが」
「金は命より重いんです」
「それは嘘だ。正確には『金は他人の命より重い』だ。引っくり返せば『金は自分の命よりは軽い』って事さ。『金は人の命より重い』なんて嘯いてる奴だって、いざ自分に命の危機が迫ったら、『金なんかいらないから、助けてくれー!』って泣き喚くぜ」
「何が言いたいのか、よく分かりません」
「目先の金を大切にし過ぎて、知らず知らず自分を死地に追いやる奴は多い。どんなに追い詰められても、冷静に考える事を放棄するな、って事だ」
「哀れな無職の遠吠えにしか聞こえません」
そう言って、うなだれたままの連太郎。
英人は辺りを見回して、人気がないのを確認してから、アタッシュケースを地面に置いて開き、中から輪ゴムで留めてある百万円の札束を一つ取り出し、再びアタッシュケースを閉じた。
この一連の動作に連太郎は目を向けようともせず、ただ廃人の様に地面を見据えている。
英人は手にしたこの百万円で、そんな連太郎の横っ面を引っぱたいた。
突然出現した札束を目の前にして、抗議するのも忘れ、驚きに目を見張る連太郎。
「本当はやりたくねえんだが、お前に百万円やる。これを再出発の足しにしろ。あとは知らん」
英人はそう言って、連太郎のスーツの上着の内ポケットに札束をねじ込み、
「俺が魂を売らずに苦労して稼いだ金だ。無駄使いするんじゃねえぞ。とりあえず、捜索願いが出されてないかどうか、一度実家に帰って確認しとけ」
アタッシュケースと紙袋をもう一度手に提げ、
「じゃあな」
と言って、ぽかんと口を開けて驚いたままの連太郎をその場に残し、七月の陽射しが容赦なく照りつける道を飄々と歩いてその場から立ち去った。
青く澄み切った空には白い入道雲が浮かび、熱気を帯びて陽炎に揺らめく街にはゆるやかな南風が吹いている。